第9話 全部話すと言ったのに
消えたままのテレビに、京介の姿が映っていた。
廊下の向こうでは、沙耶が入った部屋の扉が閉まっている。物音はしなかった。眠れたのかどうかも、わからない。
見られていた。
その事実だけが、何度も頭に戻ってきた。
認めたら、沙耶は出ていく。離婚したいと言った声は、聞いたことがないほど固かった。
両親にも知られるのだろうか。どう説明すればいい。沙耶の母親に、何と言えばいい。
スマートフォンには、結婚式の写真が残っていた。
京介の腕に手を添え、沙耶が笑っている。
なくしたくないと思った。
だからこそ、今夜認めなければならなかったことを、京介はまだ後回しにした。
〈明日、話せる? 大事なこと〉
真由へ送る。
こういうときにまで、最初に頼ろうとする相手は妹だった。
*
翌日の夕方、実家の台所で二人は向かい合った。
「お母さんたち、買い物に行ってる。話って何?」
真由がお茶を置いた。京介は湯飲みに手を伸ばさなかった。
「沙耶に、見られてた」
真由の指が止まった。
「年末。お前の部屋で、二人でいたところ」
「……あのとき、起きてたの?」
「そう言ってる」
翌朝の沙耶の顔が、真由の頭に浮かんだ。
食べられず、兄に触らないでと言った。自分が薬を持ってこようとすると、顔をそらした。
全部、知っていたのだ。
「沙耶、何て?」
「離婚したいって」
真由は口を押さえた。
「お兄ちゃん、謝った?」
「何もなかったって、言った」
信じられず、手を下ろした。
「でも、私の部屋って言ったんでしょ?」
「どこまで見たか、わからないから」
京介は真由を見なかった。
何もなかったと言い張れば、沙耶は自分を疑うかもしれない。その期待が兄の言葉の中にあることを、真由は感じた。
同時に、今まで自分も、見つからなければいいと思っていたことに気づいた。
「もう、やめよう」
「わかってる」
「前も、そう言ったじゃん。今度は本当にやめるからね」
「うん」
真由は鞄からスマートフォンを出した。
「私も、沙耶に謝らなきゃ」
「待って。まず、俺から話す」
「また、何もないって言うの?」
「言わない。今夜、帰ったら全部話す」
真由は兄の顔を見た。
「本当に?」
「うん。だから、お前からはまだ連絡しないで」
画面には沙耶の名前があった。これまで何度も押した通話の印が、今は遠く感じられた。
何と言えばいいのだろう。
親友の夫と、しかも自分の兄と関係を続けていた。それを、どう謝ればいいのだろう。
「……わかった。ちゃんと話してよ」
真由はスマートフォンを鞄へ戻した。
兄を信じるという形で、自分もまた、沙耶へ向き合うのを先延ばしにした。
*
その夜、沙耶は食卓で京介に呼び止められた。
「沙耶」
「何」
京介の前には、まだ湯気の立つ茶があった。彼は両手をその横に置き、何かを言おうとしていた。
「昨日の話?」
沙耶は座り直した。
今度は話してくれるのかもしれない。
聞きたいとは思えなかった。聞けば、あの光景が事実だったと、夫の口から確かめることになる。
それでも、聞かなければ進めない。
「……聞いてるよ」
京介の視線が、沙耶の左手へ落ちた。
指輪だった。
沙耶は外せないままでいた。昨日と同じものを身につけているのに、昨日と同じ意味ではなくなっている。それを見るのもつらかったが、外す瞬間を迎えるのも怖かった。
京介はゆっくり口を開いた。
「明日、仕事は?」
「休みだけど」
「そっか。ゆっくり休みなよ」
沙耶は待った。
その先の言葉を待った。
京介は茶を持ち上げた。飲んで、置いた。それきりだった。
「……それを、言いたかったの?」
返事はなかった。
わずかに持ち直していた体の芯が、また沈んでいった。期待した自分を責めそうになり、沙耶は膝の上の手を握った。
期待させたのは、私ではない。
「もう、寝る」
呼び止める声を背中に聞きながら、席を立った。
*
翌朝、沙耶は便箋を出した。
年末。客間に京介がいなかった。二階から声がした。真由の部屋で、二人を見た。
一つずつ書く。
思い出すと手が止まった。それでも、見たことと、あとから考えたことを分けて、短い言葉で残した。
顔も声も、間違えるはずがない。
便箋の横には、真由からの連絡が表示されていた。
〈大丈夫? 着いたら連絡してね〉
まだ返していなかった。
京介は話さない。このまま彼が話すのを待っていたら、何もなかったことにされてしまう。
沙耶は新しい文章を打った。
〈京介のことで、二人で話したい。今日、うちに来られる?〉
送信してから、便箋を押さえた。自分が書いた文字を、何度も目で追った。
返事は、思ったより早かった。
〈午後、休みを取るね。二時ごろ行ってもいい?〉
〈うん。待ってる〉
職場の休憩室でその返事を送った真由は、兄の言葉を思い出していた。
今夜、帰ったら全部話す。
だから沙耶に呼ばれたのだと思った。何から謝ればいいのか考えながら、午後の休みを申し出た。
自宅で返事を読んだ沙耶には、その事情はわからなかった。
真由まで、何もなかったと言ったら。
その怖さだけが、指先を冷たくした。
約束の時間が近づき、食卓に湯飲みを二つ並べた。菓子を出すか迷って、やめた。
スマートフォンで録音の画面を開く。
あとで、言っていないと言われたくなかった。自分の記憶を、自分だけで支え続けるのはもう苦しかった。
開始の印に触れると、数字が動いた。
録れている。大丈夫。
画面を伏せたとき、玄関のチャイムが鳴った。





