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第10話 親友だったあなたへ

「……お邪魔します」


 玄関に立つ真由を、沙耶は見ていた。


 何度も家へ招いた相手だった。いつもなら、寒かったでしょ、という言葉が自然に出る。今日は、入って、と言うだけで精いっぱいだった。


 食卓に向かい合うと、真由は鞄を膝に置いた。


「お兄ちゃん、仕事だよね」


「うん」


 沈黙のあと、真由が頭を下げた。


「ごめん」


 沙耶の指が、湯飲みのそばで止まった。


「お兄ちゃんから、聞いたんだよね」


 京介から。


 何の話か尋ねようとして、声が出なかった。聞いていないと言ったら、謝罪をやめてしまうのではないか。夫と同じように、何もないと言い直すのではないか。


 沙耶は、別の問いを口にした。


「いつからなの?」


 真由はうつむいた。


「私が、二十歳のとき」


 音が遠くなった。


 二十歳。


 そのころ自分は、まだ大学生だった。京介とは付き合っていなかった。真由に会いに、あの家へ遊びに行っていた。


「結婚する前は、一度だけだったの。お兄ちゃんが家を出る前」


「私たちが、付き合う前から?」


「うん。翌朝、もうやめようって話して。それからは、本当に何もなかった」


 沙耶は手を握った。


 つい最近、何かの間違いが起きたのだと思いたかった。そうなら許せるということではない。ただ、自分が覚えているすべての時間まで、壊れずに済んでほしかった。


「私、付き合うことになったって、電話したよね」


「……うん」


「何を言ったか、全部しゃべったよね。うれしくて」


 真由は顔を上げなかった。


「どんな気持ちで、聞いてたの?」


「もう、終わったことだったから」


 小さな声だった。


「結婚するって聞いたときも、本当にうれしかったんだよ」


「じゃあ、どうして」


 沙耶の声が揺れた。


 式の控室で、真由は泣いていた。手を握ったら、握り返してくれた。あの涙まで疑いたくなかった。


 真由は湯飲みを両手で包んだ。


「結婚した年の、年末に……」


「最初に二人で泊まりに行ったとき?」


「うん」


「私、あの日も下で寝てたよ」


「わかってる」


「わかってて?」


「駄目だって、わかってた。でも、お兄ちゃんが部屋に来て」


 沙耶は唇をかんだ。


 兄が来たから。それで続きを説明できると思わないでほしかった。友達である自分が、同じ家で眠っていたことを、真由も知っていたのだから。


「それから、ずっと?」


「ごめん」


「パソコン直しに行くって言ってた日も?」


 真由がうなずいた。


 沙耶の目から、涙が落ちた。


 実家にいたことは、本当だった。


 だからこそ、あんなに簡単に送り出せた。母親に確かめても、車を見に行っても、嘘が見つからなかった。


「私、毎週、送り出してたんだ」


「沙耶」


「帰りにパン買ってきてくれたりして。……喜んじゃって」


 疑ってごめんと、謝っていた。


 自分の胸の中だけで、二人に都合のいい妻へ戻ろうとしていた。


 真由が手を少し伸ばした。


「私も、もうやめようって言ったの」


「いつ?」


「昨日。沙耶に見られたって、お兄ちゃんが言ったから」


 沙耶は真由を見た。


「見られたから?」


「前から、やめなきゃとは思ってたよ」


「私が見なかったら、やめてなかった?」


 伸ばしかけていた手が、膝の上に戻った。


「ごめん」


「答えてよ」


 真由は何も言わなかった。


 二つの湯飲みから、いつの間にか湯気が消えていた。


「結婚する前からだなんて、知らなかった」


 沙耶が言うと、真由は顔を上げた。


「待って。お兄ちゃんから、聞いてなかったの?」


 首を横に振った。


「あの人、今でも何もなかったって言うの。私が夢を見たんだって」


「そんな。昨日、全部話すって……」


 真由の顔色が変わった。


 沙耶にも、ようやくわかった。昨夜、食卓で京介が言いかけて、飲み込んだもの。今日は休みかと、別の話に変えた理由。


「じゃあ、私、知らないことまで全部……」


「うん」


「なんで、最初に言ってくれなかったの?」


 真由の声が強くなった。


 沙耶はすぐには答えられなかった。


「言えなかった」


「どうして?」


「真由まで何もなかったって言ったら、私、もうどうしたらいいか」


「私が嘘つくと思ったの?」


 頬に流れた涙を、沙耶は指で拭った。


 今、それを聞かれるとは思わなかった。


「私、謝りに来たのに」


 真由の目にも涙が浮かんだ。鞄を抱え込むようにして、言った。


「ひどい。親友だと思ってたのに」


 沙耶は手を止めた。


 胸の奥が、冷たくなった。


「……真由が、それを言うの?」


「だって」


「私の夫とあんなことして、そのあと私に、大丈夫って連絡して」


 真由が黙った。


「何て返してほしかったの?」


「心配だったから」


「だったら、しないでよ!」


 抑えていた声が、部屋に響いた。


 沙耶は両手をテーブルについた。指先に力を入れていないと、そのまま崩れてしまいそうだった。


「私、本当にうれしかったんだよ。真由と家族になれて」


 同じ花の髪留めをつけたこと。初めての食事の服を選んでもらったこと。ドレス姿を見て、きれいだと言ってくれたこと。


 今日までのどこを切り取っても、真由がいた。


「ごめん」


 今度の謝罪は、ほとんど聞こえなかった。


 沙耶は顔をそらした。


「帰って」


「沙耶……」


「今は、顔も見たくない」


 真由が立つ音を聞いた。椅子が床をこすり、鞄の金具が鳴った。


 玄関まで見送るのが、長年の習慣だった。今日も、体だけは扉の前まで歩いた。


 またね、とは言わなかった。


 扉が閉まってから、沙耶は食卓へ戻った。


 向かいの椅子が空いている。


「私だって、親友だと思ってたよ」


 誰もいない席に向かって言った。


 その言葉を最後に、沙耶は両手で顔を覆った。


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