第11話 これも私の夢ですか
駅前のベンチに座ってからも、真由はしばらく動けなかった。
人が行き交っている。改札へ急ぐ人、待ち合わせの相手を見つけて手を振る人。いつもどおりの駅前で、自分だけが取り残されている気がした。
帰って、と沙耶は言った。
今は顔も見たくない、と。
真由は京介へ電話をかけた。
「沙耶に、会ってきた」
「……なんで。連絡するなって言っただろ」
低く抑えていても、責める声だとわかった。
「沙耶に呼ばれたの。お兄ちゃんが話したからだと思って」
「何、話した?」
「私、帰ってって言われた」
膝の上でハンカチを握った。言うと、また涙が出そうになった。
「だから、何を話したんだよ」
聞いてほしかった言葉は返ってこなかった。
「いつからって聞かれて、二十歳のときって」
「そこまで言ったのかよ」
「全部話すって言ったじゃん」
「最初に帰省した夜のことも?」
「話した。もう知ってると思ったから」
電話の向こうで、京介が息を吐いた。
「なんで余計なことまで話したんだよ!」
真由は目を見開いた。
「余計なこと?」
「俺に任せておけばよかったんだよ」
「任せたよ。そしたら、昨日は何も言わなかったんじゃん」
通りかかった人がちらりとこちらを見た。真由は声を落としたが、手の震えは止まらなかった。
「今、責め合っても仕方ないだろ」
「責めたの、お兄ちゃんだよ」
沙耶には、謝りに来たのにと怒った。
今、兄には、なぜ話したのかと怒られている。
自分が何をしたかと、兄が何をしたか。その両方を考えなければならないのに、胸の中がぐしゃぐしゃで、言葉にならなかった。
「何て謝ったらいいか、もうわかんない」
「とにかく、もう何もしないで。俺が話すから」
真由は目元を押さえていたハンカチを下ろした。
「昨日も、そう言ったよ」
「真由」
「もう、切るね」
通話を終えた。
いつもなら、困ったときには兄が話を聞いてくれた。何を言っても、最後には自分の味方になると思っていた。
けれど今、京介が知りたかったのは、沙耶にどこまで知られたかだった。
真由が何をなくしたかではなかった。
*
沙耶は、保存した録音の名前を確かめた。
真由との話。
指で触れると、時間の表示が現れた。冒頭を少し再生し、自分の声が入っていることを確かめ、止めた。
聞き直すだけで胸が痛んだ。
それでも、残っていた。
あの会話は、自分の頭の中だけにあるものではなくなった。夫に否定されても、これを聞けば、自分が何を確かめたのかわかる。
沙耶は京介へ連絡した。
〈今日、真由と話しました。帰ってから話があります〉
送信してから、立ち上がった。
一泊用の鞄を出し、下着と着替えを入れた。充電器、財布、仕事で必要なもの。何か入れるたびに、ここから出ることが少しずつ具体的になった。
帰る場所があるか、まだ母には聞いていなかった。
でも、今夜も何もなかったふりをして、この家にいることはできなかった。
鞄を部屋の隅へ置いたころ、玄関で鍵の音がした。
*
「真由から、電話があった」
食卓に座ると、京介が先に言った。
「そう」
「俺も、話そうと思ってたんだよ」
「昨日?」
「うん」
「でも、話さなかったよね」
京介は目を伏せた。
沙耶はスマートフォンを食卓へ置いた。
「真由と話したこと、残したの」
「録音までしたのか?」
その声には、驚きのほかに、不満のようなものが混じっていた。
「また何もなかったって言われたら、困るから」
京介はそれ以上言わなかった。
沙耶は再生した。
『いつからなの?』
自分の声が聞こえた。録音を通して聞くと、思っていたよりずっと頼りなかった。
『私が、二十歳のとき』
『でも、結婚する前は、一度だけだったの』
そこで止めた。
京介の両手が、膝の上で握られていた。
「これも、私の夢?」
返事までに、長い間があった。
「……違う」
「ちゃんと言って」
顔を上げた京介を、沙耶は見た。
「真由と、関係があった。ごめん」
初めて、認めた。
安心するはずのない言葉なのに、沙耶は息を吐いた。自分の記憶を守るために張りつめていたものが、一つだけほどけた。
次に来たのは、隠していた事実そのものの痛みだった。
「なんで、もっと早く言ってくれなかったの」
「怖かったんだよ。話したら、出ていくと思って」
「だったら、なんで真由のところに行ったの」
京介は答えなかった。
「もう終わりにする。二度としない」
「一度、やめたんでしょ」
「今度は、本当に」
沙耶は食卓の木目に目を落とした。
真由が会社の人と食事に行くと言った夜。京介が反対して、自分は真由に謝ってあげてと言った。
あの翌朝、洗面所で聞いたのだ。
仲直りできた、と。
よかった、と、自分は笑った。
「あの夜、謝ってあげてって言ったの、私だよね」
京介が小さくうなずいた。
「二人が仲直りできて、よかったって、本気で喜んだんだよ」
涙が頬を伝った。
京介は謝るように顔を伏せたが、沙耶はもう、その仕草だけでは何も受け取れなかった。
「これじゃあ、私、ただのピエロじゃない」
心配し、励まし、知らないまま背中を押した。
自分のしたことが二人に利用されていたようで、思い出すたびに胸がつぶれそうだった。
左手の指輪が目に入った。
沙耶は、その上に右手を重ねた。
聞かなければならないことが、もう一つ残っていた。
「私のこと、好きだったの?」





