第12話 私はあなたを選ばない
「今だって、好きだよ」
京介の返事は早かった。
沙耶は、重ねた手をほどかなかった。
「じゃあ、真由は? 私と付き合い始めたときも、好きだったの?」
今度は、すぐに答えなかった。
「……忘れようとしてた」
その言葉が、ゆっくり胸へ入ってきた。
「私と、付き合いながら?」
「ずっと、どうにかしなきゃって思ってたんだ」
沙耶は思い出した。
駅までの道で、勇気を出して好きだと言った。返事を待つ間、怖くて、袖を握っていた。
あのとき京介が答えを迷った理由の中に、自分には知らされていない人がいた。
「それで、どうして結婚したの」
「沙耶と、ちゃんとやっていこうと思ったからだよ」
「真由のことは?」
京介が視線を落とした。
「結婚して、一緒に暮らせば、もう考えなくなるって思って」
指輪に触れていた手から、力が抜けた。
「真由を忘れるために、私と結婚したの?」
「それだけじゃない。沙耶を幸せにしたいとも思ってた」
「それだけじゃないって?」
声が出なくなった。
式場を決めた。家具を選んだ。カーテンの色で迷い、一緒に店を何軒も回った。これから二人で暮らす家だからと、どんな小さなことも楽しかった。
その間も、京介は確かめていたのだろうか。
私と暮らせば、真由を忘れられるかどうか。
「私、何だったの?」
「大事にしたかったのは、本当だよ」
京介が身を乗り出した。
「幸せだって、言ってくれたじゃないか」
「幸せだったよ」
「だったら」
「何も、知らなかったから」
京介が口を閉じた。
幸せだった時間を、なかったことにしたいわけではない。あのころの自分は、確かに笑っていた。
けれど、その笑顔を理由に、今の痛みを引き受けろと言わないでほしかった。
「私は、ずっと一緒にいたかった。真由を忘れられるかどうかなんて、知らないで」
「俺だって、離れたくない」
「だったら、隠したまま結婚しないでよ」
「そんなこと言ったら、結婚してくれなかっただろ」
言い終えてから、京介の表情が変わった。
沙耶は彼を見ていた。
自分でわかっていたのだ。知られたら選んでもらえないことを。だから隠し、選ぶために必要なものを、沙耶の手元から取り上げていた。
「うん。しなかったよ」
静かに答えた。
今までで、いちばん迷いのない返事だった。
右手の指を、結婚指輪に添えた。
少し引くと、皮膚が引っかかった。そこでやめたら、また何も決めないままになる気がした。呼吸を整え、ゆっくり抜いた。
「待って。やり直させてほしい」
指輪をテーブルへ置いた。
小さな音だった。
「私、離婚する」
「今すぐ決めなくても」
「今、決めたんじゃない。あの日から、ずっと考えてた」
真由の部屋の前から、ここまで。
食べられなかった朝も、別の部屋で泣いた夜も、答えを待った食卓も、全部つながっていた。
京介にとっては、今日ようやく認めた事実なのだろう。沙耶には、その前から続いている苦しみだった。
「今夜は、実家に帰る」
「……いつ、戻る?」
「戻らないよ」
京介が顔を上げた。
「荷物のことは、あとで連絡するから」
椅子から立つと、膝が少し震えた。決めたからといって、怖くなくなるわけではなかった。
それでも、鞄を取りに行けた。
玄関で靴を履く間、京介が後ろにいた。
「沙耶。お願いだから、もう少し」
「今、ここにはいられない」
鞄の持ち手を握った。
いつものように、いってきますとは言わなかった。
扉を閉めると、外の空気が頬に触れた。冬の夜だった。息が白くなり、冷たさで頭が少しはっきりした。
沙耶は母へ電話をかけた。
「お母さん。今から帰ってもいい?」
「いいわよ。どうしたの?」
「泊めてほしい」
それだけ言うと、声が詰まった。
電話の向こうで、母が何かを置く音がした。
「わかった。気をつけて帰っておいで」
何があったのか、問い詰めなかった。
沙耶はうなずいてから、電話では見えないことに気づいた。
「うん」
ようやく、そう返した。
*
実家の明かりは、玄関の外から見えた。
母の理恵が扉を開けた。沙耶の顔を見て何かを言いかけ、先に鞄を受け取った。
「寒かったでしょう。入って」
居間に座ると、温かいマグカップが出てきた。
昔から使っているものだった。持ち手の形も、少し厚い縁も、覚えていた。
沙耶は両手で包んだ。
「京介と、離婚する」
理恵は向かいに座った。
「そう」
驚かなかったわけではない。けれど、すぐに理由を求めたり、落ち着いて考えろと言ったりはしなかった。
その静けさに、沙耶はようやく顔を上げられた。
「信じてもらえないかもしれないけど、聞いてほしい」
「聞くよ」
喉が震えた。
夫の実家で目を覚ましたところから、話した。途中で言葉が止まると、母は待ってくれた。真由の名前を出すところでは、何度も息をつぎ直した。
最後に、夢だと言われたことを話した。
「私、ちゃんと見たのに」
「うん」
「ずっと、眠れなくて」
理恵が、テーブルの上の手にそっと触れた。
その手を避けなくていいことに、沙耶は泣いた。
話が終わるころには、飲み物はぬるくなっていた。それでも、口にすると喉を通った。
母が、今夜はここで眠りなさいと言った。
沙耶は小さくうなずいた。
すべてが済んだわけではない。明日から決めることが、まだたくさんある。
それでも今夜は、あの人の帰ってくる音を聞かずに眠れる。
沙耶はカップを持ち直し、もう一口、ゆっくり飲んだ。





