第8話 私の見たものを消さないで
家へ帰っても、眠れなかった。
目を閉じると、あの扉が現れた。真由の部屋へ上がる前に戻れたら、と何度も考えた。けれど、戻って眠り直しても、二人のしたことが消えるわけではない。
京介は買ってきた食事を並べた。
「お粥もあるけど、そっちがいい?」
沙耶はどちらでもいいと答えた。
夫は困ったように笑い、食べられそうなほうでいいよと言った。
こんなときまで優しい声を使えるのだと、沙耶は思った。
その優しさに救われた日が、いくつもあった。残業の日に買い物をしておいてくれたこと。風邪のとき、飲み物を枕元へ置いてくれたこと。
食卓に置かれたスプーンは、食べやすいよう、持ち手をこちらへ向けてあった。その気遣いを見つけても、今日はありがとうと言えなかった。
あれは何だったのだろう。
全部嘘だと言い切れれば、楽になるのかもしれない。けれど、うれしかった自分まで消えてしまうようで、それもできなかった。
洗面所へ行ったとき、鏡に映った顔に驚いた。
目の下が暗かった。頬を洗うと、水がまぶたにしみた。いつからこんなに泣いたのか、数えることもできない。
京介は、体調が悪いのだと思っていた。
沙耶も、そういうことにしたまま過ごした。
問い詰めたら、この暮らしが終わる。問い詰めなければ、自分が壊れていく。その二つの間で、台所の湯が沸くのを見ていた。
いつもの習慣で、カップを二つ出してしまった。
一つを棚へ戻そうとして、やめた。そんな小さな動きまで、何かの宣言になりそうで怖かった。
*
三日が過ぎた。
ベッドの端で膝を抱え、沙耶はスマートフォンの連絡先を開いていた。
真由。
つらいことがあると、自然にその名前を探してしまう。
仕事で落ち込んだ日も、京介からなかなか誘ってもらえず不安だった日も、話を聞いてくれた相手だった。
今日、かけたら何を話すのだろう。
あなたと夫を見た。眠れない。ご飯が食べられない。助けてほしい。
助けてほしい相手が、苦しみの中にいる。
電話の印に指を近づけては、離した。
母へ話すことも考えた。けれど、口にした途端、もう二度と元の顔で実家へ行けなくなる気がした。何を見たのか聞かれたら、最後まで説明できる自信もなかった。
まず、京介に聞かなければ。
そう思うたびに、あの部屋で動けなかった自分が戻ってきた。
居間からテレビの笑い声が聞こえた。
今夜も、この人が隣で眠る。
そのことを考えたら、もう待てなかった。
沙耶は足を床へ下ろした。立ち上がると少しふらついたが、壁に手をつかず、居間まで歩いた。
「話があるの」
京介が画面から目を離した。
「うん」
「テレビ、消して」
リモコンの音がして、部屋が静かになった。
沙耶は向かいに座った。膝の上に手を置く。手が震えているのを隠すためではなく、自分がここにいることを確かめたかった。
「離婚したい」
京介は動かなかった。
「……何?」
「実家で、見たの」
「何を?」
「真由の部屋。あの夜、私、起きたから」
リモコンを持つ彼の指が固くなった。
それだけで、伝わったとわかった。
沙耶は待った。
否定してほしいのではない。本当のことを言ってほしかった。これ以上、一人であの夜を抱えていたくなかった。
京介は唇を動かし、一度閉じた。
「……寝ぼけて、夢を見たんじゃないか」
沙耶は、その言葉をすぐに理解できなかった。
「夢?」
「夜中だったんだろ」
「真由と寝てたでしょ。あの子のベッドで」
「ありえないだろ。妹だぞ」
「私だって、そう思ったよ!」
声が大きくなった。
沙耶は息を吸った。泣き出したら、それまで全部、まともに話せない人の言葉にされそうだった。
「ちゃんと聞いて。夢じゃない」
「落ち着いて話そう」
落ち着けるようにしてほしかった。
本当だと言ってくれれば、少なくとも、自分の見たものまで疑わずに済む。
「具合悪かったじゃないか。ろくに食べてもいないし」
「具合が悪くなったのは、見たあとだよ」
京介の口が止まった。
沙耶は彼の目を見た。高校のとき、初めて近くで見て言葉に詰まった目だった。告白したときも、結婚してほしいと言われたときも、この目を見ていた。
「私の顔、見て言って」
京介は一瞬だけ視線を合わせた。
「……何もしてない」
涙が落ちた。
怒りより先に、信じられないという気持ちが来た。見つかったことより、自分が嘘をつくほうを選ぶのだ。この人は今、そう決めたのだ。
「じゃあ、私が嘘ついてるの?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、本当のこと言ってよ」
声がかすれた。
京介はうつむいた。否定を重ねることも、謝ることもしなかった。
リモコンの角を、指で押している。その小さな動きばかりが目に入った。
沙耶は立ち上がった。
「今日は、別の部屋で寝る」
「沙耶」
追いかけようとする気配に、戸口で振り返った。
「来ないで」
今度は、はっきり言えた。
部屋へ入り、扉を閉じる。閉まる音を聞くと、ようやく肩から力が抜けた。
隣に来ないでほしい。
今日、初めて言えた本当の望みだった。
沙耶は床に座り、泣いた。
あの夜を見た自分は、ここにいる。
京介が何と言っても、消えたことにはできなかった。





