↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

第8話 私の見たものを消さないで

 家へ帰っても、眠れなかった。


 目を閉じると、あの扉が現れた。真由の部屋へ上がる前に戻れたら、と何度も考えた。けれど、戻って眠り直しても、二人のしたことが消えるわけではない。


 京介は買ってきた食事を並べた。


「お粥もあるけど、そっちがいい?」


 沙耶はどちらでもいいと答えた。


 夫は困ったように笑い、食べられそうなほうでいいよと言った。


 こんなときまで優しい声を使えるのだと、沙耶は思った。


 その優しさに救われた日が、いくつもあった。残業の日に買い物をしておいてくれたこと。風邪のとき、飲み物を枕元へ置いてくれたこと。


 食卓に置かれたスプーンは、食べやすいよう、持ち手をこちらへ向けてあった。その気遣いを見つけても、今日はありがとうと言えなかった。


 あれは何だったのだろう。


 全部嘘だと言い切れれば、楽になるのかもしれない。けれど、うれしかった自分まで消えてしまうようで、それもできなかった。


 洗面所へ行ったとき、鏡に映った顔に驚いた。


 目の下が暗かった。頬を洗うと、水がまぶたにしみた。いつからこんなに泣いたのか、数えることもできない。


 京介は、体調が悪いのだと思っていた。


 沙耶も、そういうことにしたまま過ごした。


 問い詰めたら、この暮らしが終わる。問い詰めなければ、自分が壊れていく。その二つの間で、台所の湯が沸くのを見ていた。


 いつもの習慣で、カップを二つ出してしまった。


 一つを棚へ戻そうとして、やめた。そんな小さな動きまで、何かの宣言になりそうで怖かった。


     *


 三日が過ぎた。


 ベッドの端で膝を抱え、沙耶はスマートフォンの連絡先を開いていた。


 真由。


 つらいことがあると、自然にその名前を探してしまう。


 仕事で落ち込んだ日も、京介からなかなか誘ってもらえず不安だった日も、話を聞いてくれた相手だった。


 今日、かけたら何を話すのだろう。


 あなたと夫を見た。眠れない。ご飯が食べられない。助けてほしい。


 助けてほしい相手が、苦しみの中にいる。


 電話の印に指を近づけては、離した。


 母へ話すことも考えた。けれど、口にした途端、もう二度と元の顔で実家へ行けなくなる気がした。何を見たのか聞かれたら、最後まで説明できる自信もなかった。


 まず、京介に聞かなければ。


 そう思うたびに、あの部屋で動けなかった自分が戻ってきた。


 居間からテレビの笑い声が聞こえた。


 今夜も、この人が隣で眠る。


 そのことを考えたら、もう待てなかった。


 沙耶は足を床へ下ろした。立ち上がると少しふらついたが、壁に手をつかず、居間まで歩いた。


「話があるの」


 京介が画面から目を離した。


「うん」


「テレビ、消して」


 リモコンの音がして、部屋が静かになった。


 沙耶は向かいに座った。膝の上に手を置く。手が震えているのを隠すためではなく、自分がここにいることを確かめたかった。


「離婚したい」


 京介は動かなかった。


「……何?」


「実家で、見たの」


「何を?」


「真由の部屋。あの夜、私、起きたから」


 リモコンを持つ彼の指が固くなった。


 それだけで、伝わったとわかった。


 沙耶は待った。


 否定してほしいのではない。本当のことを言ってほしかった。これ以上、一人であの夜を抱えていたくなかった。


 京介は唇を動かし、一度閉じた。


「……寝ぼけて、夢を見たんじゃないか」


 沙耶は、その言葉をすぐに理解できなかった。


「夢?」


「夜中だったんだろ」


「真由と寝てたでしょ。あの子のベッドで」


「ありえないだろ。妹だぞ」


「私だって、そう思ったよ!」


 声が大きくなった。


 沙耶は息を吸った。泣き出したら、それまで全部、まともに話せない人の言葉にされそうだった。


「ちゃんと聞いて。夢じゃない」


「落ち着いて話そう」


 落ち着けるようにしてほしかった。


 本当だと言ってくれれば、少なくとも、自分の見たものまで疑わずに済む。


「具合悪かったじゃないか。ろくに食べてもいないし」


「具合が悪くなったのは、見たあとだよ」


 京介の口が止まった。


 沙耶は彼の目を見た。高校のとき、初めて近くで見て言葉に詰まった目だった。告白したときも、結婚してほしいと言われたときも、この目を見ていた。


「私の顔、見て言って」


 京介は一瞬だけ視線を合わせた。


「……何もしてない」


 涙が落ちた。


 怒りより先に、信じられないという気持ちが来た。見つかったことより、自分が嘘をつくほうを選ぶのだ。この人は今、そう決めたのだ。


「じゃあ、私が嘘ついてるの?」


「そうじゃなくて」


「じゃあ、本当のこと言ってよ」


 声がかすれた。


 京介はうつむいた。否定を重ねることも、謝ることもしなかった。


 リモコンの角を、指で押している。その小さな動きばかりが目に入った。


 沙耶は立ち上がった。


「今日は、別の部屋で寝る」


「沙耶」


 追いかけようとする気配に、戸口で振り返った。


「来ないで」


 今度は、はっきり言えた。


 部屋へ入り、扉を閉じる。閉まる音を聞くと、ようやく肩から力が抜けた。


 隣に来ないでほしい。


 今日、初めて言えた本当の望みだった。


 沙耶は床に座り、泣いた。


 あの夜を見た自分は、ここにいる。


 京介が何と言っても、消えたことにはできなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

漫画版もお楽しみいただけます

漫画版『妹と不倫した夫の処刑日』表紙

妹と不倫した夫の処刑日
~実の妹と肉体関係を持った男の末路~

Kindle Unlimited対象作品
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。

漫画版をAmazonで読む


「夫たちの処刑日」シリーズ
こちらの完結済み作品もお楽しみください。

食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~
家族の取り分まで奪う夫に、妻が下した決断。

インスタ夫の処刑日 ~妻を悪者にして三十万人に愛された男の末路~
妻を悪者にして注目を集めた夫が、隠していた素顔。

イクメンの処刑日~妻と子どもを捨てた男の末路~
妻子を捨てた夫と、自分たちの明日を選ぶ母子の物語。

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。