第7話 同じ家のすぐ上で
また、年末がやってきた。
夫の実家の食卓には、五人分の料理が並んでいた。沙耶が持っていった菓子を恵子が喜び、秀明が仕事はどうだと聞いてくれる。
「年内の分は、何とか終わりました」
「それなら、今日はゆっくり食べなさい」
「ありがとうございます」
沙耶は箸を取った。
去年ほど、妻としてきちんとしなくてはと身構えずに済んだ。取り皿の場所も知っている。台所を手伝うとき、いちいち何をすればいいか聞かなくてもよくなった。
少しずつ、家族になれている。
そう思いたかった。
「お兄ちゃん、これも食べるでしょ」
真由が煮物を取り分けた。
「ありがとう」
「この間の資料、やり直し終わった?」
「ああ。今度は通ったよ」
「よかったじゃん」
沙耶の箸が止まった。
「……資料って?」
京介は料理を口へ運んでから答えた。
「仕事の。ちょっと面倒なのがあって」
「そうだったんだ」
それ以上の説明はなかった。
最近、疲れているようには見えた。何かあったのかと聞いても、普通だよという返事だったので、忙しい時期なのだと思っていた。
真由は、その普通の中身を知っていた。
兄妹なのだから、話すこともある。二人が仲のいいことは、最初から知っていた。自分だって、その気安いやり取りが好きだった。
それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。
同じ家で暮らす私には、話せなかったのだろうか。
真由が京介の湯飲みに茶を注ぐ。京介は礼を言い、さっきの資料についてもう一言付け足した。
沙耶は皿の脇へ箸を置いた。
会話に入りたいのに、今さら何を聞いていいかわからなかった。
*
その夜、客間で目を覚ましたとき、京介の布団は空だった。
枕元にスマートフォンがある。遠くへ出かけたわけではない。トイレか、水でも飲みに行ったのだろう。
名前を呼びながら廊下へ出た。
二階から声がした。
階段は、上から二段目を踏むと小さく鳴る。高校時代に何度も上り下りしたので、体が覚えていた。
真由の部屋の扉から、細く明かりが漏れていた。
その隙間から見えたものを、沙耶は理解したくなかった。
二人が、同じベッドにいた。
声も、顔も、見間違えようがなかった。夫が妻に向けるはずの親密さを、京介は実の妹に向けていた。
沙耶は口元を押さえた。
私の夫だ。
あなたの、お兄ちゃんでしょう。
頭の中では何度も言えた。けれど、喉は閉じたままだった。
扉を開ければ、二人はこちらを見る。その先に何が起こるのか想像できず、指一本動かせなかった。
いつから。
今日だけなのか。自分が気づいていなかっただけで、ずっと前からなのか。
壁に置いた手が冷たくなった。
沙耶は一歩、下がった。
階段をどう降りたのか、覚えていなかった。客間へ戻ってから、膝が震えていることに気づいた。布団の上へ座り、口を押さえたまま背を丸める。
夢なら、ここで終わってほしかった。
けれど、頬を流れた涙も、畳の感触も、はっきりしていた。
階段が鳴った。
沙耶は反射的に布団へ潜り込んだ。壁を向き、目を閉じた。
「……沙耶?」
すぐ後ろで、京介の声がした。
今までなら、それだけで振り返った。何、と聞き、もう一度眠った。
今は、返事ができなかった。
隣の布団が音を立てた。衣擦れが止まり、やがて呼吸が落ち着いていった。
沙耶は目を開けた。
暗闇の中で、壁の木目を見ていた。眠ればあの部屋をもう一度見てしまいそうで、目を閉じることさえ怖かった。
朝まで、一度も夫のほうを向けなかった。
*
味噌汁から湯気が上がっていた。
沙耶は器を持ち上げようとして、やめた。匂いが近づくだけで、胃の奥が縮む。
「沙耶、あんまり食べてないね」
真由が言った。
いつもの声だった。それが、何より恐ろしかった。
「ちょっと、胃が」
「昨日、食べすぎちゃった?」
恵子が心配そうに覗き込む。
「すみません」
「無理しなくていいよ」
京介の手が背中へ伸びた。
「触らないで」
思うより先に、声が出た。
京介の手が止まった。秀明も恵子も、箸を持ったままこちらを見ている。
沙耶は膝の上で両手を握った。
「……ごめん。吐きそうで」
「大丈夫?」
京介の顔を見ることができなかった。
その顔で、聞かないで。
「薬、いる? 部屋にあるけど」
真由が席を立ちかけた。
「いらない」
今度は小さく答えた。顔を上げたら、何を言ってしまうかわからなかった。
部屋にある。
その何でもない言葉で、昨夜の扉が頭の中に現れる。沙耶は目の前の白いご飯を見つめ、喉の奥へ上がってきたものを飲み込んだ。
帰りの車で、京介は何度も体調を尋ねた。
「帰ったら寝てて。夕飯、俺が買ってくるから」
「うん」
「病院、行く?」
「いい」
信号で止まったとき、彼の横顔を見た。何かを気づかれている人の顔には見えなかった。
昨日も、こんなふうに話していた。
自分の知らない出来事を抱えたまま、普通に運転し、普通に夕飯の相談をしていたのだろうか。
膝の上で、スマートフォンが震えた。
〈大丈夫? 着いたら連絡してね〉
真由だった。
いつもなら、ありがとうと返す。京介が心配しすぎるんだよ、と冗談も添えたかもしれない。
指が動かなかった。
大丈夫なわけ、ないじゃん。
画面を伏せ、窓の外へ顔を向けた。流れていく見慣れた道が、今日は知らない場所につながっているように見えた。





