第4話 幸せにすれば忘れられる
肉じゃがの匂いが、玄関まで届いていた。
付き合って一年ほどになる金曜日。京介が部屋へ帰ると、先に来ていた沙耶が台所から顔を出した。
「おかえり。もう少しでできるよ」
「ありがとう」
鞄を置いた瞬間、どっと疲れが出た。
一週間かけた仕事の資料が、ほとんどやり直しになっていた。上司の指摘はもっともだった。だからこそ、どこから直せばいいのかわからず、退勤時間まで画面を見ていた。
「疲れてる?」
沙耶が箸を並べながら聞いた。
「ちょっとだけ」
「何かあった?」
話してもよかった。
聞くよ、と沙耶は言ってくれていた。仕事の内容がわからなくても、京介が落ち込んでいることくらいはわかってくれるだろう。
それでも、口が重くなった。
高校のころから好きだったと言ってくれた人だった。沙耶の目に映る自分は、彼が思う自分より、いつも少し立派だった。
失望されたくなかった。
「大したことじゃない。それより、うまそう」
「味、濃くないといいんだけど」
沙耶が笑う。京介は肉じゃがを口へ運び、おいしいと伝えた。
それは嘘ではなかった。
彼女の料理をおいしいと思うことも、帰った部屋に明かりがあるとうれしいことも、本当だった。
ただ、いちばん話したかったことだけが、喉の奥に残った。
「無理してないなら、いいけど」
沙耶はそれ以上聞かなかった。話したくなったら話してくれるだろうと、京介を信じていた。
食後に茶を飲んでいると、沙耶が少し改まった顔をした。
「今度、うちの親に会ってくれない?」
「ご両親に?」
「うん。どんな人なのって、よく聞かれるから」
笑っているが、指先はカップの持ち手をなぞっていた。
京介はその手を見た。
毎日、こうして食卓を囲む。週末には二人で買い物をして、帰る家も同じになる。
沙耶との暮らしが、一日の大半を占めるようになれば。
妹のことを考える隙間も、なくなるのではないか。
「いいよ。いつがいいかな」
沙耶の顔が明るくなった。
その笑顔を見ている間だけ、京介は自分が正しいほうへ進んでいると思えた。
*
結婚を申し込む前に、京介は真由へ話した。
実家の居間だった。母が席を外した間に、近いうちに沙耶へ指輪を渡そうと思っている、と伝えた。
真由は一度、手元へ目を落とした。
「……そっか」
「うん」
湯飲みを置く、小さな音がした。
「沙耶のこと、大事にしてあげてね」
「わかってる」
「ずっと、お兄ちゃんのこと好きだったんだから」
真由は顔を上げ、笑った。
よかった。そう言ってもらえて、安心するはずだった。
なのに京介は、胸のどこかが沈むのを感じた。引き止めてほしかったのか。そんなことを言われたら困るくせに、何を期待していたのか。
答えを出さないまま、買う指輪の話に変えた。
真由も、サイズはわかってるの、と普通に聞いた。
二人が秘密にした夜から、何年も過ぎていた。その後は何もなかった。もう終わったことだと、互いの顔を見ずに確かめ合っているようだった。
数日後、京介は沙耶の前で、小さな箱を開いた。
沙耶はすぐには手を伸ばさなかった。
箱と京介の顔を交互に見て、唇を震わせた。
「結婚してください」
言い終える前から、彼女の目に涙がたまっていた。
「……本当に?」
「うん」
「ずっと、一緒にいられるんだね」
高校の体育館で見ていた人が、これから先の人生に自分を選んでくれた。そのことを、沙耶は両手で受け止めるように喜んだ。
京介は彼女の左手を取った。
幸せにしようと思った。
幸せにすれば、忘れられるとも思った。
二つの気持ちを混ぜたまま、指輪をはめた。
*
結婚式の控室で、沙耶は鏡の中の自分を見つめていた。
髪も、化粧も、ドレスも、自分で選んだはずなのに、どこか知らない人のようだった。
扉が開いた。
「沙耶」
真由の声を聞いた途端、いつもの自分に戻れた気がした。
「どう?」
「すごく、きれい」
真由が途中で言葉を止めた。目元が赤くなっている。
「やだ。まだ始まってないよ」
「わかってるけど」
沙耶も笑いながら、鼻の奥がつんとした。
二人で雑誌を広げていたころ、いつか結婚するとしたらどんなドレスがいいかと話したことがある。そのときには、今日のような日が本当に来るとは思っていなかった。
「これから、お義姉さんって呼ばなきゃね」
「同い年なのに?」
「沙耶お義姉さん」
「変。今までどおりにして」
笑ってから、沙耶は真由の手を握った。
「でも、うれしい」
「何が?」
「真由と家族になるの」
真由の指が、わずかに動いた。
「……うん」
「これからも、よろしくね」
沙耶は、その返事を少しも疑わなかった。
式が終わったあと、真由は二人の写真を撮った。京介の隣で、沙耶は何度も笑った。緊張が解けたのか、撮影が済んでも彼の袖を離さなかった。
真由は画面の中の夫婦を見た。
あの夜は終わった。もう何年も前に、終わっている。
今日からは、友達の夫だ。
それまでにも何度か使ってきた言い聞かせを、今度こそ最後にしようと思った。
新居での暮らしは、穏やかに始まった。
洗濯物の畳み方が違って、最初は収納の場所が足りなくなった。京介のほうが角をきっちり合わせるので、沙耶は負けたと言って笑った。
スーパーでは、どちらがカゴを持つかで手がぶつかった。帰り道、重いほうの袋を京介が持ってくれた。
特別なことのない一日が、沙耶には特別だった。
同じ家へ帰り、明日の予定を話す。
それを何十年も繰り返していくのだと、食器棚に二人分のカップを並べながら、沙耶は思っていた。





