第5話 心配という言葉
結婚して初めての年末、沙耶は京介の実家へ泊まりに行った。
何度も訪ねた家なのに、玄関の前でコートを整えた。手土産はこれでよかっただろうか。夕飯の支度は、どのくらい手伝えばいいのだろう。
「そんなに緊張しなくても」
京介が笑った。
「だって、今日は真由の友達として来たんじゃないから」
袖を軽く引くと、彼は大丈夫だよと言った。
そのやり取りを、扉を開けに来た真由が見ていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「沙耶、なんか丁寧」
「笑わないでよ」
いつもの調子で言葉を交わせて、ほっとした。
食卓には五人分の箸が並んでいた。父の秀明が仕事の様子を聞き、母の恵子が料理を勧めてくれる。真由の隣ではなく京介の隣に座ることが、まだ少しくすぐったかった。
「京介、家のことはちゃんとやってる?」
恵子に聞かれ、沙耶はうなずいた。
「洗濯物、私よりきれいに畳むんです」
「あら、そうなの。家では真由に運ばせてたのに」
「今はやってるよ」
京介が答えると、みんなが笑った。
真由は、兄の部屋へ洗濯物を持っていった日のことを思い出していた。机の端を空けてもらい、そこへ置きながら、その日の話をした。わざわざ用事を作らなくても、部屋へ行けた。
今は、沙耶が隣で笑っている。
「クリスマスは何したの?」
真由が尋ねると、沙耶はスマートフォンを取り出した。
「ケーキ作ったんだけど、見て。ちょっと焦げちゃって」
画面には、不揃いの苺をのせたケーキがあった。
「ちょっと?」
「そこは見逃して」
「でも、うまかったよ」
京介が言った。沙耶がうれしそうに彼を見る。
真由は昔、ケーキの苺を床へ落としたことを思い出した。京介は自分の皿から一つ取ってくれた。いらないの、と聞くと、あんまり好きじゃないからと答えた。
本当は好きだったことを、あとで知った。
それは子供のころの、兄の優しさだった。思い出して懐かしがれば済むことなのに、真由は写真から目を離せなくなった。
「真由は? 最近どうなの」
沙耶に聞かれ、慌てて画面を返した。
「会社の人に、ご飯誘われた」
「えっ。二人で?」
「うん。前に仕事手伝ったお礼だって」
藤井悠人。同じ職場の人で、忙しいときも言い方が穏やかだった。疲れていると、机の端に飴を一つ置いていく。
その話をすると、沙耶は身を乗り出した。
「いい人そう。行ってみたら?」
「そうかな」
「真由は、その人と話してて楽しい?」
「まあ、楽しいよ」
「じゃあ、いいじゃん」
京介の箸が止まった。
「二人きりは、やめたほうがいいんじゃない」
真由が顔を向けた。
「なんで?」
「どんな人か、わからないし」
「お兄ちゃんが知らないだけでしょ」
「心配してるんだよ」
真由は返事をしなかった。箸を置く音が、食卓の上で小さく響いた。
沙耶は二人の顔を見比べた。
「真由だって大人なんだから、ご飯くらいいいと思うよ」
「……そうだけど」
「会社でいつも会ってる人なんでしょ」
いつも会っている。その言葉に、京介はますます黙った。
真由は話題を変えた。食事は続き、沙耶は途中から台所を手伝った。それでも、妙に気まずい空気が気になった。
夜、客間に布団を敷いてから、沙耶は京介に言った。
「ちょっと言いすぎだったんじゃない?」
「……わかってる」
「明日、謝ってあげて」
「うん」
返事を聞いて、沙耶は横になった。
義姉になったからといって、急に家族の間へ口を出すのはよくなかっただろうか。それでも、真由には楽しく恋をしてほしかった。
自分が初めて京介と食事をした夜のように、帰り道が明るくなる日を、あの子にも味わってほしい。
「おやすみ」
京介の返事を聞き、沙耶は目を閉じた。
*
午前零時を過ぎても、京介は眠れなかった。
同じ会社なら、毎日会う。仕事の失敗も、疲れた顔も、自分より先にその男が知るのだろう。
何を考えているんだ。
隣を見れば、妻が眠っていた。
京介はそっと布団を抜けた。謝るだけだ。食卓で余計なことを言ったのだから、それを謝って、すぐに戻ればいい。
二階の扉をノックすると、真由の返事があった。
「さっきは、ごめん」
「何が?」
「飯に行く話。余計なこと言った」
真由は机の前で兄を見た。
「じゃあ、行ってもいいんだ」
「……好きにすればいいよ」
「何、その言い方」
謝罪のために来たはずなのに、言葉が刺々しくなる。京介は自分でもそれがわかった。
「心配で」
「さっきも、それ言った」
もう戻ればよかった。
沙耶が下で眠っている。帰る部屋も、隣にいるべき人も、決まっていた。
「お兄ちゃん、本当は沙耶のこと、好きじゃないんでしょ」
京介は真由を見た。
「なんで、そんなこと」
「私のほうが好きなんでしょ」
違うと言うべきだった。言えないなら、それ以上、彼女の前にいるべきではなかった。
京介は扉のそばに立ったまま、動かなかった。
やがて、扉が閉まった。
*
翌朝、洗面所の鏡に映る自分を、京介は見ていた。
洗面台に置いた左手には、結婚指輪がある。
「おはよう。顔色悪いよ」
沙耶の声に、肩が揺れた。
「よく眠れなくて」
「布団、寒かった?」
「大丈夫」
沙耶は心配そうにしてから、思い出したように続けた。
「真由にも、今日ちゃんと謝ってあげてね」
「……それは、もう」
「話したの? 仲直りできた?」
「うん」
「そっか。よかった」
沙耶が笑った。
京介は笑い返せなかった。顔を洗うふりをして、視線を落とした。
その優しい声を、今すぐ聞こえなくしたかった。





