第3話 初恋の続き
初めての給料日、沙耶は駅前の菓子店へ寄った。
ショーケースの前で、少し迷った。いつもなら値段を見て選ぶところだが、今日は真由の好きなものを買いたかった。
就職して一か月。慣れない電話を取るたびに肩に力が入り、帰宅すると何もする気になれない日もあった。それでも、自分で働いて得たお金で友達に菓子を買えることは、誇らしかった。
「初任給で買いました」
真由の部屋で大げさに袋を差し出すと、同じ春に社会人になった友人が笑った。
「私にもお祝いさせてよ。次は私が買う」
箱を開けながら、二人で仕事の失敗を報告し合った。会社名を言うだけの電話で舌をかんだ話。先輩の名前を間違えそうになり、妙な呼びかけになった話。
「私だけじゃないんだ」
「みんな最初はそうでしょ。たぶん」
たぶん、と付け足すところが真由らしかった。
夕方、一階へ下りたところで、玄関の扉が開いた。
「あれ、沙耶ちゃん?」
京介だった。
社会人になって二年。高校のころより落ち着いて見えるのに、笑うとあの体育館で見た顔に戻った。
「お久しぶりです」
急に背筋が伸びた。真由に気づかれた気がしたが、顔を確かめる余裕はなかった。
居間でお茶を飲みながら、新しい職場の話になった。沙耶は、電話を取るのがまだ怖いと打ち明けた。
「失敗したらどうしようって思うと、余計に言葉が出なくて」
「わかる。俺なんて、最初の日に名札忘れたよ」
「えっ」
「紙に名前書いて、一日それつけてた」
想像して、思わず笑ってしまった。
「すみません」
「いや、笑っていい。俺も今なら笑えるし」
今なら。
その言い方に、沙耶は救われた気がした。今日の失敗も、いつかそんなふうに話せるのかもしれない。
帰る時間になっても、まだ話していたかった。
高校のころは、真由の家で会えるだけで満足していた。大学へ進んで会う機会が減ると、好きだった気持ちまで、しまい込んだつもりになっていた。
けれど、顔を見ればこんなにうれしい。
「あの、連絡先、教えてもらってもいいですか」
鞄の持ち手を握ったまま言った。
京介は一瞬驚いたあと、いいよとスマートフォンを出してくれた。
帰宅してから、お礼の文章を何度も書き直した。菓子のこと、仕事のこと、今日は会えてうれしかったこと。
最後の一文だけ、送る前に消しかけた。
それでも、残したまま送信した。
*
食事に誘ったのも、沙耶からだった。
仕事の相談がある、と書けば誘いやすかった。でも、本当は相談が目的ではない。それを隠して会っても、あとで自分が落ち込みそうだった。
〈今度、二人でご飯に行きませんか〉
送ったあと、スマートフォンを伏せた。すぐ持ち上げ、また伏せた。
返事が来たのは、風呂を出たあとだった。
〈いいよ。来週の土曜なら空いてる〉
声が出そうになって、口を押さえた。
真っ先に電話したのは、真由だった。
「どうしよう。着ていく服、ない」
「この前買ったのは?」
「あれでいいかな。気合い入れすぎに見えない?」
「似合ってたよ。大丈夫」
翌日には、鏡の前で撮った服の写真を送った。真由は靴まで一緒に考えてくれた。
「楽しみだね」
「うん」
誰かに背中を押してほしい気持ちを、真由はいつもわかってくれた。
最初の食事では、緊張して水を飲みすぎた。
二度目には、京介の言い間違いを笑えるようになった。
三度目の帰り道、駅が見えてからも、沙耶は歩く速度を上げられなかった。このまま別れたら、また次の約束を待つだけになる。
「私、高校のときから好きでした」
京介の足が止まった。
沙耶も立ち止まり、顔を上げた。うつむいて言い逃げするつもりで来たのではなかった。
「真由のお兄ちゃんだから、よく見えたとかじゃなくて。今日みたいに、一緒にいるのが好きです」
京介はしばらく黙っていた。
その沈黙の間、沙耶はコートの袖をつまんだ。答えを急がせる言葉も、冗談にする言葉も、言わないようにした。
「……俺でよければ」
最初は、意味がわからなかった。
「付き合うって、ことですか」
「うん」
沙耶が笑うと、京介も少し照れたように笑った。
帰りの電車の窓に、自分の顔が映っていた。口元が緩んでしまい、慌てて手で隠す。
駅を出るなり、真由へ電話した。
どこを歩いて、何を言って、どんな返事をもらったか。細かなことまで全部話した。真由は途中で遮らず、よかったねと聞いてくれた。
このうれしさを覚えていてくれる人がいる。
それが、またうれしかった。
*
交際が始まって三か月ほどしたころ、小さな寂しさが生まれた。
会おうと言うのは、いつも沙耶だった。
誘えば来てくれる。食事中も優しい。だから、気にしすぎだと思おうとした。けれど、前に話した水族館のことを京介が忘れていたとき、笑って済ませられなかった。
「私といて、楽しい?」
「楽しいよ。なんで?」
「いつも、私からだから」
京介の顔を見ながら、言葉を選んだ。
「会いたいの、私だけなのかなって、思うときがある」
責めたいわけではなかった。寂しかったことを、知ってほしかった。
京介は黙ってから、謝った。
「ごめん。今度は俺から誘う」
翌日、土曜の午前中に水族館へ行こうと連絡が来た。
画面を見て、沙耶はほっと息をついた。言ってよかった。ちゃんと聞いてくれたのだ。
〈楽しみにしてるね〉
その返事を読んだ京介は、自室のソファへ背を預けた。
沙耶といると楽だった。喜ぶ顔を見れば、自分までいい気分になれた。
スマートフォンの写真を戻していくと、母の誕生日に撮った家族写真が出てきた。
京介の指が、妹の顔の上で止まった。
無意識に拡大しかけて、やめる。
土曜日は、沙耶と水族館へ行く。
京介は予定表を開き、まだ空白だったその日に、彼女の名前を入れた。





