第15話 誰も戻らない部屋
引っ越しの日、真由の部屋には、ほとんど何も残っていなかった。
家具を動かした跡だけ、壁の色が少し違っている。棚の奥から出てきた紙片を拾い、最後の袋へ入れた。
手元には、一枚の写真があった。
沙耶と並んで、色違いの髪留めをつけている。
兄と付き合うより前の沙耶だった。真由といるから笑っていた。兄のことがなくても、自分たちは友達だったのだ。
その時間を、どうして守らなかったのだろう。
スマートフォンを開く。
〈裏切ったのは私なのに、沙耶を責めた。ごめんなさい〉
既読のまま、返事はなかった。
許してもらえるまで謝ろうとしては、いけないのだと思った。沙耶がこれ以上話したくないなら、それを受け入れなければならない。
真由は写真を封筒へ入れた。
泣いたからといって、友達に戻れるわけではない。それでも涙は出た。頬を拭い、何度か息を整えた。
「真由、そろそろ行くよ」
階下から母の声がした。
「今、行く」
鞄を持ち、部屋を出た。
廊下で一度立ち止まったが、兄の部屋のほうへは行かなかった。
*
京介は、自宅の食器棚を開けた。
マグカップは、一つだけだった。
沙耶が使っていたものは、最後の荷物と一緒になくなっていた。そこだけ空いているのが嫌で、京介は自分のカップを真ん中へ移した。
そうしても、棚が埋まるわけではなかった。
テーブルの端には、開けていない郵便物が重なっていた。今までも自分宛てのものは自分で見ていたはずなのに、沙耶がいなくなってから、目につく場所へ置いたまま忘れることが増えた。
母から連絡が来た。
〈真由、無事に引っ越したわよ〉
京介は妹との連絡画面を開いた。
引っ越し、どうだった。
それくらいなら送ってもいいのではないか。近くの店のことでも聞けば、普通に返事が来るかもしれない。
けれど、入力する前に、真由の声が戻った。
もう、私に頼らないで。
京介は指を止めた。
話を聞いてくれる相手は、いつでもそこにいると思っていた。少し待てば、怒りは収まると思っていた。
沙耶との画面も開いた。
必要な荷物はすべて受け取りました。
それが、最後の連絡だった。
〈もう一度〉
そこまで打った。
続きが書けなかった。
もう一度、何をするのか。話を聞いてほしい。家へ戻ってほしい。前のように笑ってほしい。
沙耶が求めた本当のことを、自分は言わなかった。真由には、話すなと言った。どちらにも、自分の望む形でそばにいてほしかった。
画面を伏せた。
「戻ってきてくれよ」
向かいの椅子は、空いていた。
玄関で鍵が回る音を、しばらく待った。
何も聞こえなかった。
*
沙耶の新しい部屋には、午後の日差しが入っていた。
窓を開けると、カーテンが少しだけ膨らむ。広い部屋ではなかったが、どこに何を置くか、すべて自分で決められた。
「この棚、ここでいい?」
理恵に聞かれ、沙耶は台所から振り向いた。
「うん。そこが使いやすそう」
箱から白いマグカップを出した。自分で持ってきた、自分が使うためのものだった。
棚へ置き、一歩下がって眺めた。
母が、明るい部屋ねと言った。
「午前中も、結構入るんだって」
「じゃあ、朝起きるのも気持ちいいね」
沙耶はうなずいた。
新居を探すとき、真っ先に確かめたのは、会社までの距離と家賃だった。けれど、実際に見に来たら、窓のそばで立ち止まってしまった。
ここで朝を迎えたいと思った。
スマートフォンで口座を確かめると、取り決めた入金も済んでいた。金額を見て、うれしいとは思わなかった。ただ、決めたことが一つ終わったと、確認して画面を閉じた。
母と二人で箱を畳み、床が見えるようになったころには、日差しが壁の下のほうへ移っていた。
「じゃあ、お母さんは帰ろうかな」
理恵が鞄を手に取った。
沙耶は反射的に、ありがとうと言いかけた。
疲れているだろうし、これ以上引き止めるのは悪い。もう大丈夫だと笑って、見送ればいい。
けれど、まだ少し怖かった。
「お母さん」
「何?」
「もう少し、いてくれない?」
言うと、喉の奥が緩んだ。
「一人になるの、ちょっと寂しい」
理恵は鞄を下ろした。
「いいよ。お茶でも飲もうか」
沙耶はうなずき、湯を沸かした。
白いマグカップの隣に、母の使うカップを置く。今日は二つ。母が帰ったら、一つ。
その数を、自分の気持ちで決めていいのだと思った。
二人で茶を飲みながら、近所のスーパーの場所を話した。帰り道に母が見つけた花屋の話もした。何かを決着させるためではない会話が、久しぶりに心地よかった。
日が暮れる前、今度は沙耶から、もう大丈夫と伝えた。
母を見送ったあと、玄関に立って少し耳を澄ませた。
静かだった。
でも、誰かが嘘を抱えて帰ってくるのを待つ静けさではなかった。
夕飯は、卵を落としたうどんにした。
鍋の中で白身が固まるのを待ち、器へ移す。箸は一膳。座る場所を少し動かし、窓の見えるほうを向いた。
湯気が頬に触れた。
すべてが平気になったわけではない。それでも、離婚のために決めなければならなかったことは終わった。
明日は、自分の明日のことを考えればいい。
一口、汁を飲んだ。
「……おいしい」
誰に聞かせるためでもなく、声が出た。
沙耶はもう一口飲み、今度は少し笑った。





