第16話 焼きたてのパンをあなたと
新しい部屋で暮らし始めて、数か月が過ぎた。
最初のうちは、休みの日に予定がないことが落ち着かなかった。誰かに会わなければ、一日中嫌なことを考えてしまいそうだった。
けれど、予定を埋めすぎると疲れた。
沙耶は少しずつ、一人で過ごせる時間の長さを知っていった。
朝、洗濯機を回す。お湯を沸かす。今日は何を食べたいか考える。昼まで何もしたくない日には、無理に出かけない。
泣く夜も、まだあった。
街で誰かの髪留めを見て、真由を思い出すこともあった。夫を失ったのとは違う寂しさが、あとから遅れてやってくる。
そんなときは、母に電話した。
毎回、つらかった話をするわけではない。夕飯は何を食べたの、と聞き、母が買いすぎた野菜の話を聞く。それだけで眠れる日も増えた。
春物の服を出すころには、駅から少し遠回りして帰るようになった。
八百屋の前では、夕方になると値札が変わる。花屋には、店の奥で丸くなっている猫がいる。公園のベンチは、午前中のほうが日当たりがいい。
この街で、自分だけが知っていることが増えていった。
*
職場に新しい人が来たのは、そんなころだった。
「今日から一緒に働く、高瀬航平さんです」
上司の村瀬に紹介され、航平が挨拶をした。
沙耶とは同い年だった。
最初に話したのは、資料の置き場所についてだった。共有しているものと、部署内だけで使うものの区別がわかりにくいらしく、航平はメモを持って聞きに来た。
「さっき説明してもらったところなのに、すみません」
「最初は、私も混乱しました」
画面を一緒に見ながら説明すると、航平は途中でわからないところを聞き直した。最後に、自分の理解で合っているか確かめた。
わからないと言われることが、こんなに話しやすいのかと、沙耶は思った。
別の日、航平が作った一覧表に、確認の必要な箇所が見つかった。
彼は言い訳をする前に手元を見直し、自分が一つ前の情報を見ていたと認めた。
「教えてくれて助かりました。直して、もう一度確認します」
特別なことではない。
仕事で間違えたところを、二人で直しただけだ。
それでも沙耶は、会話のあとで、自分の言い方が悪かったのだろうかと考え続けずに済んだ。
休憩時間に話すことも増えた。
どちらの店の弁当が温かいか。雨の日のバスがどれだけ混むか。そんな話から始まり、笑うことが増えていった。
沙耶が忙しいときは、航平は話しかける前に今いいですかと聞いた。断れば、あとにしますと席へ戻った。
その距離が、ありがたかった。
*
航平が来て二か月ほどたった金曜日、片づけをしていると声をかけられた。
「このあと、ご飯どうですか」
沙耶は手を止めた。
「もし予定があれば、また今度」
「いえ。予定はないです」
今日は母へ電話する日でもない。冷蔵庫の中に、今夜中に食べなければならないものもなかった。
何より、空腹だった。
「私もちょうど、お腹が空いてたので」
答えると、航平が笑った。
「よかった。駅の近くに定食屋があるんですけど」
店は、気取らないところだった。
沙耶は魚の定食を選び、航平は少し迷ってから唐揚げにした。注文を終え、水を飲む。
仕事以外で向かい合うと、少しだけ落ち着かなかった。けれど、急に何かを期待されているような息苦しさはなかった。
「休みの日って、何してるんですか」
「最近は、近所を歩いてます」
「散歩?」
「引っ越したので。まだ知らないお店が多くて」
航平は、どんな店があるのかと聞いた。
沙耶は少し考え、笑った。
「パン屋さんが、三軒あるんです」
「それは、いいですね」
「この前、全部回っちゃって」
「一日で?」
「一日で」
航平が驚いた顔をしたので、沙耶は自分でもおかしくなった。
「見るだけのつもりだったんです。でも、入ったら買いたくなるじゃないですか」
「わかります。焼きたてって書いてあると、特に」
「そうなんです。最後のお店を出るころには、腕が袋でいっぱいで」
二人で笑った。
定食が運ばれてきた。沙耶はいただきますと言い、味噌汁を一口飲んだ。
温かかった。
「一番好きだったのは、どれですか」
航平に聞かれ、沙耶は迷わず答えた。
「塩パンです」
「塩パン」
「小さいお店なんですけど、焼きたての底が、かりっとしてて。歩きながら食べたいくらいでした」
「食べなかったんですか?」
「家まで我慢しました。ちゃんとコーヒーもいれたかったので」
窓際で食べた日のことを思い出した。
自分で見つけ、自分で選んで買ったパンだった。袋を開けたときの匂いも、最初の一口のおいしさも、よく覚えていた。
「今度、買ってきましょうか」
自然に言うと、航平はうれしそうにした。
「ありがとうございます。でも、そんなにおいしいなら、焼きたてを食べてみたいですね」
沙耶は箸を置いた。
店までの道を考えた。駅から少し歩いて、小さな公園の先を曲がる。休日の午前中なら、棚に並ぶところを見られるかもしれない。
一人で歩いた道だった。
今度は、隣にこの人がいたら。
そう思っても、怖さより、楽しそうだという気持ちが先に来た。
「じゃあ、一緒に行きます?」
航平が顔を上げた。
「いいんですか」
「はい。私も、また食べたいので」
沙耶は笑った。
次の休日には、いつもの曲がり角を、誰かと二人で曲がる。
その朝が来るのを、楽しみにしていいと思えた。
完





