第14話 もう私に頼らないで
それから二週間ほどたったころ、真由は一人暮らしの部屋を探し始めた。
きっかけは、母の何でもない一言だった。
「土曜日、京介が来るって。お父さんのパソコン、見てくれるそうよ」
真由は予定もないのに、その日は帰りが遅くなると言った。
兄が来るたび、家を空け続けるのだろうか。
自室へ戻り、賃貸物件のページを開いた。家賃のほかに、電気も水道も食費もかかる。通勤に使える路線を調べ、毎月の給料からいくら残るか書き出した。
ここなら会社まで三十分ほど。けれど、駅からの道はどうだろう。
兄に聞こうとして、手が止まった。
自分で見に行けばいい。
内見の予約を入れた。母が京介にも一緒に行ってもらったらと言ったときには、一人で大丈夫と答えた。
父に初期費用は足りるのかと聞かれ、貯金を確かめたうえで足りると伝えた。
決めることは思ったより多かった。それでも、何かを決めるたび、兄に連絡しなくても進められることがわかった。
契約に必要なものを手帳へ書き、揃えた項目には線を引いた。兄の返事を待たずに予定が決まることに、まだ少し慣れなかった。
*
さらに一か月ほどして、沙耶と京介の取り決めがまとまった。
慰謝料、預貯金、残っている荷物の扱い。一つずつ確認し、書面にした。沙耶は、読んでわからないところを曖昧なまま残さなかった。
京介が署名する手元を、黙って見ていた。
ずっと待っていた区切りだったのに、大きな喜びは来なかった。長く息を止めていて、ようやく少し吐けたような感覚だった。
「来週、休みを取ってるから。届を出してくる」
「そうか」
帰り際、京介が言った。
「体、気をつけて」
沙耶はうなずいた。
その気遣いを受け取っても、ここへ戻る必要はない。
「じゃあ」
静かに別れた。
後日、届を出したという連絡が来た。
京介は画面を見て、これで終わったのだと思った。
次に浮かんだのは、真由の顔だった。
沙耶とは終わった。これで真由には、もっと自由に会えるのではないか。
なくしたものの大きさを考える前に、まだ残っていると思っていた相手へ、気持ちを向けた。
*
週末、実家を訪ねた京介は、玄関の段ボールを見て足を止めた。
「真由、来週引っ越すのよ」
恵子に言われ、二階へ上がった。
妹の部屋の棚は、半分ほど空になっていた。机の上には新しい鍵がある。真由は箱へ本を詰めていた。
「一人暮らしするの?」
「うん」
「なんで言わなかったんだよ」
「言ったら、止めるでしょ」
「心配するのは当たり前だろ」
真由は本を箱に置いた。
「もう、自分で決めたから」
京介は入口に立ったまま、部屋を見回した。自分の知らないうちに話が進んでいたことが、落ち着かなかった。
「沙耶と、離婚した」
「……そう」
「何を言っても、駄目だった」
真由はうつむいた。
「私も、謝ったけど、返事はない」
その声を聞き、京介は一歩中へ入った。
「真由まで、いなくならないでくれよ」
妹は顔を上げた。
「お兄ちゃん、全部話すって言ったよね」
「何の話?」
「私が沙耶に話したら、怒ったでしょ」
京介が口を閉じた。
「私も、怖かったんだよ。何て謝ればいいかわからなくて。それでも話したら、余計なことって」
「あのときは、余裕がなかったんだ」
「私にもなかったよ」
言われて、京介は黙った。
真由は、自分が沙耶へしたことを忘れたわけではなかった。被害者のような顔をしても、沙耶の友達に戻れるわけではない。
だからこそ、このまま兄のそばへ戻ってはいけないと思った。
「もう離婚したんだし、普通に飯に行ったり、話したりするくらいはできるだろ」
京介が言った。
真由は兄を見た。
「また私に、話を聞いてほしいの?」
「お前にしか話せないことだって、あるよ」
目に涙が浮かんだ。
昔、兄の泣いた顔を自分だけが知っているのがうれしかった。強い兄の弱さを、受け止められるのは自分だと思っていた。
「バカ……」
京介の表情が、少し緩んだ。
「そう言われると、私、聞いちゃうんだよ」
彼が何か言いかけた。その前に、真由は首を振った。
「だから、もう言わないで!」
箱のそばへ、涙が落ちた。
京介は動かなかった。
「駄目だってわかってたのに、私も続けた。沙耶が何も知らずに笑ってたのに、やめなかった」
真由は目元を拭った。
「もう、同じことしたくない」
「あんなことは、もうしない。ただ、話すだけで」
「前も、一度きりって言ったじゃん」
京介の言葉が途切れた。
「もう、お兄ちゃんには会わない。新しい部屋にも来ないで」
言ってから、胸が痛くなった。
けれど、痛いからといって取り消したら、何も変わらない。
「お前までいなくなったら、俺はどうしたらいいんだよ」
真由は兄を見た。
いつか、必ず助けると言ってくれた人だった。その人に頼り、特別でいたいと願って、自分は大切な友達を傷つけた。
これからどうするかは、兄が決めなければならない。
「もう、私に頼らないで」
声は震えていた。それでも、最後まで言った。
「帰って」
京介はしばらく立ち尽くしたあと、部屋を出た。
扉が閉まる。
真由は箱のそばへ座り込み、両手で顔を覆った。
廊下の足音が遠ざかっても、呼び戻さなかった。





