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世界地図の余白 ~前世ではどこにも行けなかった俺は、異世界のすべてを見て回る~  作者: みき


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9/12

第9話 知らない場所の名前

 行商人のバルドが村を出ていったあと、俺の部屋には新しい紙が一枚増えた。


 リデル村の地図の横。


 まだ何も書かれていない真っ白な紙。


 最初は、そこに何を書くのか自分でもよく分かっていなかった。


 でも、バルドから聞いた町の名前を思い出すたび、何もしないままなのがもったいなく感じた。


 ベルク村。


 ラトル。


 王都。


 海。


 どれも俺はまだ見たことがない。


 だから、自分の地図には書けない。


 父に教わった通りなら、知らない場所を知っているつもりで書くべきではない。


 けれど、名前まで忘れる必要はない。


 俺は新しい紙のすみに、小さく文字を書いた。


 ――いつか行きたい場所。


 その下に、聞いた名前を一つずつ並べた。



     ◇



「これ、地図じゃないわね」


 夕方、部屋へ入ってきた母が言った。


「まだね」


「まだ?」


「行ったら書く」


 母は壁の紙を見上げた。


「ベルク村、ラトル、王都……海まであるじゃない」


「海は絶対見たい」


「ずいぶん遠くまで行くつもりなのね」


「うん」


 俺が迷わず答えると、母は少し困ったように笑った。


「お母さんとしては、近くにいてほしいんだけどなあ」


「帰ってくるよ」


「本当に?」


「父さんにも約束したから」


 母は俺の顔をしばらく見たあと、小さくうなずいた。


「なら、帰ってくる場所も忘れないでね」


「うん」


 俺はリデル村の地図を見る。


 家の横にある、小さなリアの丸。


 そこが自分の始まりだ。


 どこまで遠くへ行っても、きっと忘れない。



     ◇



 それから俺は、村の人たちに少しずつ話を聞くようになった。


 理由は簡単だ。


 この村から一度も出たことがない人もいるが、若いころに別の町で暮らしていた人や、仕事で遠くまで行ったことのある人もいる。


 その人たちなら、俺の知らない場所を知っている。


 最初に話を聞いたのは、パン屋のおばさんだった。


「若いころ?」


「うん。どこか行ったことある?」


「そりゃあるよ。ずっとこの村にいたわけじゃないからね」


「どこ?」


「ラトル」


「本当に?」


 思わず身を乗り出すと、おばさんは笑った。


「そんなに驚くことかい。あそこで三年くらい働いてたよ」


「どんな町?」


「人が多くて、朝から晩までうるさい町さ」


「市場は?」


「大きいよ。魚も売ってる」


「魚?」


「川魚じゃないよ。海から運んでくるやつもある」


 海。


 その言葉だけで、また胸が高鳴った。


「海の魚って、ここまで来ないの?」


「こんなところまで運んだら、着くころには食べられなくなるよ」


「じゃあ、ラトルなら食べられる?」


「時期によるね」


 俺は紙に書きこむ。


 ラトル――大きな市場。海の魚が来る。


「何してるんだい?」


「忘れないように書いてる」


「地図じゃないのかい?」


「まだ行ってないから」


 そう答えると、おばさんは少しだけ感心したような顔をした。


「変なところでまじめだねえ」


 また変な子と言われた。



     ◇



 次は村の鍛冶屋へ行った。


 鍛冶屋の主人であるグランは、父より少し年上の大きな男だ。


「遠くに行ったこと?」


「うん」


「あるぞ。若いころは北の鉱山にいた」


「鉱山?」


「山から鉄の石を掘るところだ」


「どれくらい遠い?」


「歩けば十日はかかるな」


「十日!」


 王都へ行くのと同じくらいだ。


「山は大きい?」


「このへんの丘とは比べものにならん。朝、見上げても上の方に雲がかかってる」


「雪は?」


「夏でも残る場所がある」


「本当に?」


「ああ」


 俺はすぐに紙へ書いた。


 北の鉱山。高い山。夏でも雪。


「名前は?」


「グラウ山地」


「どう書く?」


「貸してみろ」


 グランが太い指で紙に文字を書く。


 少し形は大きいが、しっかり読める。


「その山、地図にあるかな」


「王国地図ならあるだろ」


 俺は家へ戻ったあと、父に頼んで確認した。


 あった。


 レーヴェ王国の北。


 細い線が何本も重なった場所に、グラウ山地と書かれている。


 地図では、ほんの小さな場所だった。


 でも実際には、夏でも雪が残るほど大きな山がある。


 また地図の見え方が少し変わった。



     ◇



 村に住む老人にも話を聞いた。


 名前はハンス。


 普段は家の前に椅子を出して座っていることが多く、俺が地図を持って近づくと、目を細めた。


「今度は何を聞きに来た」


「どうして分かったの?」


「最近、村中で聞き回ってるだろ」


「遠くに行ったことある?」


「あるとも」


「どこ?」


「南だ」


 ハンスはゆっくり空を見上げた。


「若いころ、商人の護衛をしていてな。レーヴェ王国の南の端まで行った」


「何があるの?」


「でかい川だ」


「どれくらい?」


「向こう岸が小さく見えるくらい」


「そんなに?」


「橋もでかい。馬車が何台も並んで渡れる」


 俺はその話も書きこんだ。


 南の大河。


 大きな橋。


「もっと先は?」


「行ってない」


「どうして?」


「仕事がそこまでだったからな」


「その先には何がある?」


「知らん」


 ハンスはあっさり言った。


 その答えが、俺には少しうれしかった。


「知らないんだ」


「そりゃ知らん場所くらいある」


「大人でも?」


「当たり前だ」


 ハンスは笑った。


「坊主。世界は、誰か一人の頭に全部入るほど小さくないぞ」


 俺はその言葉を紙のすみに書いた。


「それまで書くのか」


「忘れたくないから」


「好きにしろ」


 ハンスはまた笑った。



     ◇



 何日か続けて話を聞くうちに、真っ白だった紙には少しずつ文字が増えていった。


 ベルク村。


 羊が多い。


 ラトル。


 大きな市場。海の魚。


 グラウ山地。


 夏でも雪。


 南の大河。


 大きな橋。


 王都。


 石の建物。大きな城。


 海。


 向こう岸が見えない。


 地図ではない。


 でも、俺には大切な紙になり始めていた。


 知らない場所の名前と、誰かが見てきた景色。


 そこには、村の外の世界が少しずつ集まっていた。



     ◇



「ずいぶん増えたな」


 ある夜、父が俺の紙を見て言った。


「うん」


「誰に聞いた?」


「いっぱい」


「これ全部覚えるつもりか?」


「覚える」


 父はしばらく紙を見たあと、ラトルのところを指さした。


「ここ。『海の魚が来る』って書いてあるだろ」


「うん」


「毎日じゃないぞ」


「え?」


「冬はほとんど来ない。道が悪くなるからな」


 俺は筆を持った。


「じゃあ書き直す」


「待て」


「なんで?」


「パン屋のおばさんが間違ってたわけじゃないだろ」


「でも、いつも来るみたいに見える」


「なら、言った人の名前も書いておけばいい」


「名前?」


「ああ。誰から聞いた話なのか分かれば、あとで確かめられる」


 なるほど。


 俺はラトルの横に「パン屋のミラさん」と小さく書いた。


 グラウ山地には「鍛冶屋グラン」。


 南の大河には「ハンス」。


「地図にもそういうことする?」


「地図師はもっと細かく記録するんじゃないか?」


「なんで?」


「人から聞いた話と、自分で見た話は違うからだろ」


 その言葉に、俺は手を止めた。


 人から聞いた場所。


 自分で見た場所。


 どちらも知っていることには変わりないと思っていた。


 でも、同じではない。


「じゃあ、俺が行ったら?」


「自分で確かめればいい」


「違ってたら?」


「直せばいい」


 父は簡単に言った。


 俺は紙を見た。


 今ここに書かれているのは、誰かから聞いた世界だ。


 いつか自分でそこへ行けば、本当にそうなのか確かめられる。


 海は本当に向こう岸が見えないのか。


 グラウ山地には夏でも雪があるのか。


 ラトルの市場は本当に大きいのか。


 考えただけで楽しくなった。



     ◇



 その数日後、少しだけ変なことがあった。


 俺はいつものようにハンスの家へ行き、昔の旅の話を聞いていた。


「ほかにない?」


「まだ聞くのか」


「うん」


「そうだな……東へ行ったときの話はしたか?」


「東?」


 俺はすぐに紙を広げた。


「どこまで?」


「ずいぶん昔のことだ。村から二日くらいだったかな。森の向こうに小さな集落があった」


「名前は?」


「たしか……」


 ハンスが眉を寄せる。


「なんだったか」


「忘れた?」


「いや、知ってたはずなんだがな」


 老人は少し困った顔をした。


「変だな」


「何が?」


「何度か泊まった村なんだ。宿の主人の顔まで覚えてる」


「なのに名前だけ忘れたの?」


「そうらしい」


 ハンスは笑った。


「歳だな」


 俺も最初はそう思った。


 でも、なんとなく引っかかった。


「どのへん?」


「東だよ。古道を抜けた先だ」


 俺の手が止まった。


「古道?」


「ああ。今は使わん、墓地の先の道だ」


「その先に村があるの?」


「昔はな」


「今は?」


 ハンスは俺を見る。


「さあ」


「行ったことない?」


「もう何十年も行ってない」


 俺は紙へ書こうとした。


 でも、書けない。


 名前が分からない。


 場所も正確には分からない。


 ただ、古道の先。


 それだけ。


 俺は少し迷った末、紙に小さな丸を書いた。


 その横に、


 ――名前の分からない村。


 と書いた。



     ◇



 その夜。


 俺は二枚の紙を並べて見ていた。


 一枚は、自分で歩いて作ったリデル村と、その周りの地図。


 もう一枚は、人から聞いた知らない場所の名前を集めた紙。


 古道。


 途中で道が見えなくなる場所。


 その先に、昔は小さな村があったらしい。


 でも、ハンスは名前を思い出せなかった。


 ただの物忘れかもしれない。


 何十年も前のことなら、忘れていてもおかしくない。


 それでも俺は、地図の古道が消えていたことを思い出していた。


 道が消えた。


 今度は、その先にあった村の名前も分からない。


 偶然だと思う。


 きっと、そうだ。


 七歳の俺が気にするようなことではない。


 俺はそう考え、紙を片づけようとした。


 けれど最後にもう一度、「名前の分からない村」と書いた丸を見る。


 知らない場所には、これから知ることのできる場所がある。


 でも。


 昔は知っていたのに、分からなくなった場所もあるのだろうか。


 その疑問は、前より少しだけ大きくなっていた。

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