第9話 知らない場所の名前
行商人のバルドが村を出ていったあと、俺の部屋には新しい紙が一枚増えた。
リデル村の地図の横。
まだ何も書かれていない真っ白な紙。
最初は、そこに何を書くのか自分でもよく分かっていなかった。
でも、バルドから聞いた町の名前を思い出すたび、何もしないままなのがもったいなく感じた。
ベルク村。
ラトル。
王都。
海。
どれも俺はまだ見たことがない。
だから、自分の地図には書けない。
父に教わった通りなら、知らない場所を知っているつもりで書くべきではない。
けれど、名前まで忘れる必要はない。
俺は新しい紙のすみに、小さく文字を書いた。
――いつか行きたい場所。
その下に、聞いた名前を一つずつ並べた。
◇
「これ、地図じゃないわね」
夕方、部屋へ入ってきた母が言った。
「まだね」
「まだ?」
「行ったら書く」
母は壁の紙を見上げた。
「ベルク村、ラトル、王都……海まであるじゃない」
「海は絶対見たい」
「ずいぶん遠くまで行くつもりなのね」
「うん」
俺が迷わず答えると、母は少し困ったように笑った。
「お母さんとしては、近くにいてほしいんだけどなあ」
「帰ってくるよ」
「本当に?」
「父さんにも約束したから」
母は俺の顔をしばらく見たあと、小さくうなずいた。
「なら、帰ってくる場所も忘れないでね」
「うん」
俺はリデル村の地図を見る。
家の横にある、小さなリアの丸。
そこが自分の始まりだ。
どこまで遠くへ行っても、きっと忘れない。
◇
それから俺は、村の人たちに少しずつ話を聞くようになった。
理由は簡単だ。
この村から一度も出たことがない人もいるが、若いころに別の町で暮らしていた人や、仕事で遠くまで行ったことのある人もいる。
その人たちなら、俺の知らない場所を知っている。
最初に話を聞いたのは、パン屋のおばさんだった。
「若いころ?」
「うん。どこか行ったことある?」
「そりゃあるよ。ずっとこの村にいたわけじゃないからね」
「どこ?」
「ラトル」
「本当に?」
思わず身を乗り出すと、おばさんは笑った。
「そんなに驚くことかい。あそこで三年くらい働いてたよ」
「どんな町?」
「人が多くて、朝から晩までうるさい町さ」
「市場は?」
「大きいよ。魚も売ってる」
「魚?」
「川魚じゃないよ。海から運んでくるやつもある」
海。
その言葉だけで、また胸が高鳴った。
「海の魚って、ここまで来ないの?」
「こんなところまで運んだら、着くころには食べられなくなるよ」
「じゃあ、ラトルなら食べられる?」
「時期によるね」
俺は紙に書きこむ。
ラトル――大きな市場。海の魚が来る。
「何してるんだい?」
「忘れないように書いてる」
「地図じゃないのかい?」
「まだ行ってないから」
そう答えると、おばさんは少しだけ感心したような顔をした。
「変なところでまじめだねえ」
また変な子と言われた。
◇
次は村の鍛冶屋へ行った。
鍛冶屋の主人であるグランは、父より少し年上の大きな男だ。
「遠くに行ったこと?」
「うん」
「あるぞ。若いころは北の鉱山にいた」
「鉱山?」
「山から鉄の石を掘るところだ」
「どれくらい遠い?」
「歩けば十日はかかるな」
「十日!」
王都へ行くのと同じくらいだ。
「山は大きい?」
「このへんの丘とは比べものにならん。朝、見上げても上の方に雲がかかってる」
「雪は?」
「夏でも残る場所がある」
「本当に?」
「ああ」
俺はすぐに紙へ書いた。
北の鉱山。高い山。夏でも雪。
「名前は?」
「グラウ山地」
「どう書く?」
「貸してみろ」
グランが太い指で紙に文字を書く。
少し形は大きいが、しっかり読める。
「その山、地図にあるかな」
「王国地図ならあるだろ」
俺は家へ戻ったあと、父に頼んで確認した。
あった。
レーヴェ王国の北。
細い線が何本も重なった場所に、グラウ山地と書かれている。
地図では、ほんの小さな場所だった。
でも実際には、夏でも雪が残るほど大きな山がある。
また地図の見え方が少し変わった。
◇
村に住む老人にも話を聞いた。
名前はハンス。
普段は家の前に椅子を出して座っていることが多く、俺が地図を持って近づくと、目を細めた。
「今度は何を聞きに来た」
「どうして分かったの?」
「最近、村中で聞き回ってるだろ」
「遠くに行ったことある?」
「あるとも」
「どこ?」
「南だ」
ハンスはゆっくり空を見上げた。
「若いころ、商人の護衛をしていてな。レーヴェ王国の南の端まで行った」
「何があるの?」
「でかい川だ」
「どれくらい?」
「向こう岸が小さく見えるくらい」
「そんなに?」
「橋もでかい。馬車が何台も並んで渡れる」
俺はその話も書きこんだ。
南の大河。
大きな橋。
「もっと先は?」
「行ってない」
「どうして?」
「仕事がそこまでだったからな」
「その先には何がある?」
「知らん」
ハンスはあっさり言った。
その答えが、俺には少しうれしかった。
「知らないんだ」
「そりゃ知らん場所くらいある」
「大人でも?」
「当たり前だ」
ハンスは笑った。
「坊主。世界は、誰か一人の頭に全部入るほど小さくないぞ」
俺はその言葉を紙のすみに書いた。
「それまで書くのか」
「忘れたくないから」
「好きにしろ」
ハンスはまた笑った。
◇
何日か続けて話を聞くうちに、真っ白だった紙には少しずつ文字が増えていった。
ベルク村。
羊が多い。
ラトル。
大きな市場。海の魚。
グラウ山地。
夏でも雪。
南の大河。
大きな橋。
王都。
石の建物。大きな城。
海。
向こう岸が見えない。
地図ではない。
でも、俺には大切な紙になり始めていた。
知らない場所の名前と、誰かが見てきた景色。
そこには、村の外の世界が少しずつ集まっていた。
◇
「ずいぶん増えたな」
ある夜、父が俺の紙を見て言った。
「うん」
「誰に聞いた?」
「いっぱい」
「これ全部覚えるつもりか?」
「覚える」
父はしばらく紙を見たあと、ラトルのところを指さした。
「ここ。『海の魚が来る』って書いてあるだろ」
「うん」
「毎日じゃないぞ」
「え?」
「冬はほとんど来ない。道が悪くなるからな」
俺は筆を持った。
「じゃあ書き直す」
「待て」
「なんで?」
「パン屋のおばさんが間違ってたわけじゃないだろ」
「でも、いつも来るみたいに見える」
「なら、言った人の名前も書いておけばいい」
「名前?」
「ああ。誰から聞いた話なのか分かれば、あとで確かめられる」
なるほど。
俺はラトルの横に「パン屋のミラさん」と小さく書いた。
グラウ山地には「鍛冶屋グラン」。
南の大河には「ハンス」。
「地図にもそういうことする?」
「地図師はもっと細かく記録するんじゃないか?」
「なんで?」
「人から聞いた話と、自分で見た話は違うからだろ」
その言葉に、俺は手を止めた。
人から聞いた場所。
自分で見た場所。
どちらも知っていることには変わりないと思っていた。
でも、同じではない。
「じゃあ、俺が行ったら?」
「自分で確かめればいい」
「違ってたら?」
「直せばいい」
父は簡単に言った。
俺は紙を見た。
今ここに書かれているのは、誰かから聞いた世界だ。
いつか自分でそこへ行けば、本当にそうなのか確かめられる。
海は本当に向こう岸が見えないのか。
グラウ山地には夏でも雪があるのか。
ラトルの市場は本当に大きいのか。
考えただけで楽しくなった。
◇
その数日後、少しだけ変なことがあった。
俺はいつものようにハンスの家へ行き、昔の旅の話を聞いていた。
「ほかにない?」
「まだ聞くのか」
「うん」
「そうだな……東へ行ったときの話はしたか?」
「東?」
俺はすぐに紙を広げた。
「どこまで?」
「ずいぶん昔のことだ。村から二日くらいだったかな。森の向こうに小さな集落があった」
「名前は?」
「たしか……」
ハンスが眉を寄せる。
「なんだったか」
「忘れた?」
「いや、知ってたはずなんだがな」
老人は少し困った顔をした。
「変だな」
「何が?」
「何度か泊まった村なんだ。宿の主人の顔まで覚えてる」
「なのに名前だけ忘れたの?」
「そうらしい」
ハンスは笑った。
「歳だな」
俺も最初はそう思った。
でも、なんとなく引っかかった。
「どのへん?」
「東だよ。古道を抜けた先だ」
俺の手が止まった。
「古道?」
「ああ。今は使わん、墓地の先の道だ」
「その先に村があるの?」
「昔はな」
「今は?」
ハンスは俺を見る。
「さあ」
「行ったことない?」
「もう何十年も行ってない」
俺は紙へ書こうとした。
でも、書けない。
名前が分からない。
場所も正確には分からない。
ただ、古道の先。
それだけ。
俺は少し迷った末、紙に小さな丸を書いた。
その横に、
――名前の分からない村。
と書いた。
◇
その夜。
俺は二枚の紙を並べて見ていた。
一枚は、自分で歩いて作ったリデル村と、その周りの地図。
もう一枚は、人から聞いた知らない場所の名前を集めた紙。
古道。
途中で道が見えなくなる場所。
その先に、昔は小さな村があったらしい。
でも、ハンスは名前を思い出せなかった。
ただの物忘れかもしれない。
何十年も前のことなら、忘れていてもおかしくない。
それでも俺は、地図の古道が消えていたことを思い出していた。
道が消えた。
今度は、その先にあった村の名前も分からない。
偶然だと思う。
きっと、そうだ。
七歳の俺が気にするようなことではない。
俺はそう考え、紙を片づけようとした。
けれど最後にもう一度、「名前の分からない村」と書いた丸を見る。
知らない場所には、これから知ることのできる場所がある。
でも。
昔は知っていたのに、分からなくなった場所もあるのだろうか。
その疑問は、前より少しだけ大きくなっていた。




