第10話 古い記録
ハンスから「古道の先に昔は村があった」と聞いてから、俺はそのことが気になって仕方がなかった。
名前は分からない。
場所も正確には分からない。
ただ、墓地の先にある古道を抜けたところに、小さな村があったらしい。
普通なら、それだけの話だ。
何十年も前なら、村がなくなっていてもおかしくはない。人が減って別の土地へ移ったのかもしれないし、火事や病気で住めなくなった可能性もある。
それでも、引っかかる。
古道は、昔の地図にはあった。
今の地図にはない。
そして、その道の先にあったはずの村の名前を、ハンスは思い出せなかった。
ただの偶然なのか。
確かめる方法がないまま考えていても仕方がない。
だから俺は、父に聞いてみることにした。
「父さん。役場に、昔の村の名前が分かる本ってある?」
夕食のあと、俺がそう聞くと、父はパンをちぎる手を止めた。
「昔の村?」
「古道の先にあった村」
「またその話か」
「ハンスさんが、昔そこに泊まったって」
「そう言ってたのか?」
「うん。でも名前を忘れてた」
父は少し考えた。
「古い名簿ならあるかもしれないな」
「名簿?」
「村や町から、王国へ税を送るための記録だ。人が住んでいれば、何かしら残ってる可能性はある」
「見たい」
「簡単に言うなあ」
「駄目?」
「駄目じゃないが、古い書類は扱いが面倒なんだよ。紙も弱ってるし、字も今と少し違う」
「読む」
「読めるかどうかの話じゃないんだが……」
父は困った顔をした。
向かいで聞いていた母が笑う。
「ロイ。この子、止めたって明日また聞くわよ」
「分かってるよ」
父はため息をついた。
「明日の仕事が早く終わったら、少しだけ探してみる」
「本当?」
「ああ。ただし、勝手に棚を触るなよ」
「分かった」
「前もそう言って森で離れたけどな」
「まだ言うの?」
「まだ言う」
母が笑い、リアも意味が分からないまま一緒に笑った。
◇
次の日の夕方。
父の仕事が終わるころを見計らって役場へ行くと、父は奥の棚の前で腕を組んでいた。
「これか?」
床には、古い箱が三つ並んでいる。
「こんなにあるの?」
「何十年分だと思ってる」
箱のふたを開けると、中には色の変わった紙が束になって入っていた。新しい紙とは違い、端が波打っていたり、小さな穴が開いていたりする。
「触るなら、端を持つなよ」
「どうして?」
「破れるからだ。下から持て」
言われた通り、両手でそっと一枚持ち上げる。
文字は読める。
ただ、父が言っていた通り、少し形が違う字も多かった。
「これ、何年前?」
「三十二年前だな」
「ハンスさんが若いころより新しい?」
「もっと古い方がいいかもな」
父が別の束を取り出す。
「こっちは五十年くらい前」
紙を広げる。
村の名前が縦に並んでいた。
リデル。
ベルク。
聞いたことのない名前。
また別の名前。
その横には数字が書かれている。
「この数字は?」
「家の数と、税を出した量だ」
「じゃあ、ここに村があれば名前がある?」
「普通ならな」
俺は一つずつ目で追った。
知らない名前ばかりだ。
父が指で場所をたどりながら、周辺の村だけを選んでくれる。
「このあたりが、今も残ってる村だ」
「これは?」
「今はベルクにまとめられた集落だな」
「じゃあ、なくなった村もあるんだ」
「そりゃあるさ。人が減れば、近くの村と一緒になることもある」
俺は少し安心した。
村が地図から消えること自体は、特別ではない。
名前がなくなっても、理由はある。
「古道の先は?」
「位置まで書いてないから、これだけじゃ分からんな」
「地図は?」
「税の名簿とは別だ」
父が別の箱を探す。
しばらくして、細長い紙の束を取り出した。
「古い道の記録なら、こっちかもしれない」
広げると、地図というより道順を書いたものだった。
リデル村から北へ。
墓地。
古道。
森の外側。
その先に、小さな丸が一つある。
「あった」
俺は思わず声を上げた。
丸の横には、文字がある。
「……ネ、ル?」
「ネルカ、だな」
父が読んだ。
「ネルカ村?」
「ああ。そう書いてある」
俺は急いで、自分の紙へ名前を書いた。
――ネルカ村。
これで、名前の分からない村ではなくなった。
「ハンスさんが言ってた村かな」
「場所は合いそうだな」
「今はないの?」
「聞いたことない」
「いつなくなった?」
「そこまでは分からんな」
父は別の記録を探した。
三十年前。
ネルカ村の名前がある。
二十五年前。
ある。
二十年前。
そこにもある。
「じゃあ、けっこう最近まであったんだ」
「そうなるな」
「次は?」
父が十八年前の記録を開く。
俺たちは二人で紙を見る。
「……ない」
ネルカ村がない。
「十七年前は?」
「ない」
「十九年前」
「ある」
俺は数字を見比べた。
「十九年前にはあって、十八年前にはない」
「そうだな」
「一年でなくなった?」
「村がなくなるなら、それくらいのこともあるかもしれない」
「でも、何があったの?」
「だから分からん」
父は少し困ったように言った。
「火事とか?」
「記録があればな」
「病気?」
「それも可能性はある」
「人が引っ越した?」
「十分ありえる」
どれもありそうだった。
なのに、父の声には自信がなかった。
◇
「他に記録ない?」
俺が聞くと、父は棚の上を見た。
「村がなくなるようなことがあれば、役場の報告に残ってるかもしれない」
今度は分厚い紙の束を出す。
一年ごとの出来事。
橋の修理。
畑の境。
川の氾らん。
家畜の病気。
村同士のもめごと。
地味なことが延々と書かれていた。
俺は十八年前のあたりを探す。
「ネルカ……ネルカ……」
名前がない。
十九年前も見る。
あった。
税の荷を受け取った記録。
その前にもある。
でも十八年前になると、急に何もなくなる。
「変だね」
「何が?」
「なくなったなら、なくなったって書くんじゃないの?」
「普通はな」
「じゃあ、なんで何もないの?」
父は答えなかった。
紙を何枚かめくる。
それでも、ネルカ村についての記録は出てこなかった。
「もしかして、別の役場に移ったとか?」
「それなら、その記録があるはずだ」
「じゃあ……」
俺は言葉を止めた。
何か変だ。
村がなくなったのに、その理由がない。
税の記録からも消えている。
道も今の地図から消えている。
それなのに、昔はたしかにあった。
「父さん」
「ん?」
「ハンスさん以外に、ネルカ村を知ってる人いるかな」
「年寄りなら、いるかもしれないな」
「聞いてみたい」
「今日はもう遅い。明日にしろ」
「うん」
俺は紙に書いたネルカ村の文字を見た。
名前が分かっただけで、少し安心すると思っていた。
でも逆だった。
名前が分かったことで、その村が本当に存在していたことが、もっとはっきりしてしまった。
◇
次の日。
俺はハンスのところへ行った。
「ネルカ村」
そう言うと、老人は眉を寄せた。
「何だ?」
「古道の先の村。名前、ネルカ村じゃない?」
ハンスはしばらく黙った。
「ネルカ……」
何度か口の中でつぶやく。
「そうだったか?」
「昔の記録に書いてあった」
「そうか」
「思い出した?」
ハンスは首をかしげた。
「いや」
「泊まったことあるんでしょ?」
「ああ。それは覚えてる」
「宿の主人の顔も?」
「覚えてる」
「なのに村の名前だけ?」
「変だな」
ハンス自身も不思議そうだった。
「ネルカ……ネルカか」
何度言っても、思い出した様子はない。
「じゃあ、どんな村だった?」
「小さかった。家は二十軒くらいだったかな」
「川は?」
「近くに細い川があった」
「教会は?」
「なかったと思う」
「宿は?」
「あった。商人がたまに通る道だったからな」
「村の人は?」
「普通の連中だった」
「誰か名前覚えてる?」
ハンスは目を閉じた。
「宿の主人……」
少し間が空く。
「……なんだったかな」
俺は黙った。
「前は顔を覚えてるって言ってたよね」
「ああ」
「名前は?」
「出てこん」
「ほかの人は?」
「……分からんな」
ハンスは頭をかいた。
「歳を取るってのは嫌だな」
笑っていた。
でも俺は笑えなかった。
「ハンスさん」
「なんだ?」
「ネルカ村がなくなったこと、覚えてる?」
老人の笑顔が止まった。
「なくなった?」
「今はないんでしょ?」
「そうなのか?」
「え?」
今度は俺が聞き返した。
「何十年も行ってないから知らん」
「でも、もしなくなったなら、その話を聞かなかった?」
「さあな」
「近い村だったんでしょ?」
「そうだな」
「じゃあ……」
言いかけて、やめた。
ハンスは、本当に分からない顔をしていた。
村へ行ったことは覚えている。
泊まったことも覚えている。
でも、名前は忘れている。
そこにいた人の名前も出てこない。
そして、その村がなくなったことさえ知らない。
そんなことがあるのだろうか。
◇
そのあと、村の年寄りを何人か訪ねた。
ネルカ村。
名前を聞いて、すぐに分かった人はいなかった。
「聞いたことあるような」
「昔、そんな場所があったかねえ」
「古道の先?」
みんな、そんな反応だった。
一人だけ、昔は東へ行く商人がいたと覚えている人がいた。
でもネルカ村という名前は知らなかった。
俺はだんだん不安になってきた。
記録にはある。
地図にもある。
それなのに、人の記憶からだけ薄くなっている。
まるで、雨にぬれた文字みたいに。
◇
夕方、役場へ戻ると、父は昨日の古い地図をもう一度広げていた。
「何か分かった?」
「いや」
「俺も聞いてきた」
「どうだった?」
「誰もちゃんと覚えてなかった」
父は少し難しい顔をした。
「まあ、二十年近く前に消えた村なら、そんなものかもしれない」
「父さんは本当にそう思う?」
父が俺を見る。
「どういう意味だ?」
「古道も地図から消えてた。ネルカ村も今の地図にはない。なくなった理由も記録にない。それで、近くに住んでる人もほとんど覚えてない」
「……偶然が重なっただけかもしれん」
「うん」
俺もそう思いたかった。
というより、他の答えを知らない。
父は昔の地図を丸めた。
「ユアン。こういうのを調べるのは悪くない。でも、何でも変な話に結びつけるなよ」
「変な話?」
「魔法で村が消えたとか、そういうことだ」
「まだ言ってないよ」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
父は笑った。
俺も少しだけ笑った。
たしかに、考えすぎているのかもしれない。
「地図師なら分かるかな」
何気なく言った。
「何が?」
「こういう古い地図とか、道がなくなることとか」
「俺よりは詳しいだろうな」
「この村に来ない?」
「地図師が?」
「うん」
「めったに来ないな」
父はそう答えた。
「王国の測量で近くを通ることはあるかもしれないが、わざわざリデルまで来る理由もないだろ」
「そっか」
少し残念だった。
地図師なら、何か知っている気がした。
地図から道が消えること。
村が記録から急に消えること。
昔そこに行った人が、名前を思い出せなくなること。
俺には分からない。
父にも分からない。
なら、もっと地図を知っている人に聞いてみたい。
そう思った。
◇
それから三日後。
昼過ぎに、村の南から一台の馬車がやってきた。
行商人のものではない。
荷物もほとんど積んでいない。
馬車から降りてきたのは、一人の老人だった。
白くなった髪。
日に焼けた顔。
使いこんだ長い外とう。
そして右手には杖。
左脚ではなく、右脚の動きが少しだけ不自然だった。
老人は村の入口で辺りを見回したあと、役場の場所を聞いた。
俺はたまたま広場にいた。
そして老人の背中にあるものを見つけた。
細長い筒。
一つではない。
三本。
バルドが持っていたものより丈夫そうで、金具までついている。
地図を入れる筒だ。
俺は思わず老人のあとを追った。
役場へ入ると、父が出迎える。
「何か御用ですか?」
老人は杖を床につき、静かな声で答えた。
「古い道を探している」
俺の足が止まった。
「この村の北に、昔使われていた道があるはずだ」
父の顔つきが変わる。
「……古道のことですか?」
「そう呼ばれているのか」
老人は少し笑った。
そして背中から一本の筒を下ろす。
「五十年前の地図では、その道は東へ続いている」
俺は思わず口を開いた。
「ネルカ村まで?」
老人がこちらを見た。
灰色の目だった。
「坊主」
「なに?」
「その名前を、どこで知った?」
「昔の記録」
老人は少しだけ目を細めた。
「ほう」
それから俺の手に持っている紙へ視線を落とす。
昨日から書き足していた、自分用の地図だった。
「それは、お前が描いたのか?」
「うん」
「見せてみろ」
俺は少し迷ってから、紙を渡した。
老人は長い時間、何も言わずに地図を見た。
道。
水場。
森。
古道。
そして途中で止まった線。
――道が見えなくなる。
老人の指が、その文字の上で止まった。
「なるほど」
「何か分かる?」
俺が聞くと、老人はすぐには答えなかった。
代わりに、俺の地図を返しながら言った。
「名前は?」
「ユアン。ユアン・フェルナー」
「そうか、ユアン」
老人は杖をつき直す。
「私はオルド・ハイン」
父が息をのんだ。
「オルド・ハイン……まさか、王立測地師の?」
「昔の話だ」
老人は面倒そうに答えた。
俺には、その肩書きの重さがまだ分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
目の前にいる老人は、俺がずっと会ってみたいと思っていた人間だ。
本物の地図師。
しかも、古道を探しに来た。
「オルドさん」
「なんだ?」
「地図から道が消えることってある?」
父が「ユアン」と止めようとした。
でも老人は怒らなかった。
俺を見たまま、少しだけ笑った。
「ある」
その答えに、俺は何も言えなくなった。
「どうして?」
やっと聞く。
オルドは役場の壁にかかった地図へ目を向けた。
「それを知りたいなら、まず地図を信用しすぎないことだ」
「地図を?」
「ああ」
老人は杖をつき、ゆっくり歩き出した。
「地図師が一番最初に疑うべきものは、自分の持っている地図だ」
俺はその背中を見つめた。
地図を作る人が、地図を疑えと言う。
意味が分からなかった。
でも、なぜかその言葉だけは、忘れてはいけない気がした。




