第11話 地図師が地図を信じるな
オルド・ハインという名前を聞いたとき、父の顔つきが変わった。
俺にはその理由が分からなかった。
王立測地師。
それが地図を作る人だということは知っている。でも、目の前の老人がどれほど有名なのかまでは知らない。
白い髪。
日に焼けた顔。
長く使いこんだ外とう。
右脚を少し引きずるような歩き方。
見た目だけなら、どこにでもいる旅の老人にも見える。
けれど父は、さっきから少し緊張していた。
「本当に、あのオルド・ハインさんなんですか?」
「どのオルド・ハインを想像しているか知らんが、私は一人しかいない」
「北方測量隊の?」
「昔の話だ」
「東部山地の地図を作った?」
「それも昔だ」
「王都の測地院で――」
「昔だと言ってるだろう」
オルドは面倒そうに手を振った。
俺は父と老人を交互に見る。
「有名なの?」
思わず聞くと、父が俺を見た。
「有名どころじゃないぞ」
「そうなの?」
「王国の地図を作った人だ」
その言葉で、ようやく少し分かった。
「世界地図も?」
「全部じゃない」
答えたのはオルドだった。
「一人で世界地図を作れるわけがない。私が歩いたのは、その中のほんの一部だ」
ほんの一部。
でも、その一部を実際に歩いて地図へした。
俺は老人の背中にある三本の筒を見た。
急に、それがとても重いものに見えた。
「見せて」
「何をだ」
「地図」
「嫌だ」
「え?」
「初対面の子供に、なぜ私の地図を見せなきゃならん」
「俺も見せた」
「お前が勝手に渡しただけだ」
言い返せなかった。
父が横で笑いをこらえている。
「それより」
オルドは俺の持っている地図を指さした。
「さっきのをもう一度見せろ」
「俺の?」
「ああ」
俺は紙を差し出した。
オルドは役場の机へ移動し、地図を広げる。
俺がこれまで歩いたリデル村の周り。
森の入口。
水場。
道を外れた場所。
古道。
そして、その先で止まった線。
老人はしばらく黙って見ていた。
「下手だな」
「え」
「線がゆがんでいる。距離も合っていない。方角も少しずれている」
いきなりだった。
「七歳が書いたんですよ」
父が苦笑しながら言う。
「七歳なら間違っていてもいいのか?」
「そういう意味では……」
「地図は、見る人間の年齢を知らん」
オルドは紙の一か所を指した。
「ここ。川までの距離が実際より短い」
「どうして分かるの?」
「村へ入るときに見た」
「見ただけで?」
「長年やっていれば、それくらいは分かる」
すごい。
そう思ったが、口には出さなかった。
悔しい気持ちも少しあった。
「じゃあ、全部駄目?」
「誰がそんなことを言った」
オルドは地図のすみにある文字を指さした。
――ここで道を外れた。勝手に進まないこと。
「これはいい」
「そこ?」
「ああ」
「地図にいらないって言われると思った」
「誰に?」
「父さんには言われてないけど、地図って道とか川を書くものじゃないの?」
オルドが俺を見る。
「誰が決めた?」
「え?」
「お前が使う地図なんだろう。なら、お前に必要なことを書けばいい」
父から聞いた言葉と同じだった。
でも、オルドの言い方は少し違う。
「地図は正しくなければならない。だが、何を正しいとするかは、その地図を何に使うかで変わる」
俺はよく分からず首をかしげた。
「たとえば、旅人が使うなら道と水場が大事だ。兵士なら高い場所や通りにくい道を知りたい。商人なら宿や橋、市場が必要になる。土地を持つ者なら境が一番大事かもしれん」
「じゃあ、同じ場所でも違う地図になる?」
「なる」
俺は第9話までに作った、人から聞いた場所の紙を思い出した。
バルドの地図。
父の地図。
役場の地図。
どれも同じ世界を書いていたのに、見た目は全然違っていた。
「でも、さっき地図を信用するなって言ったよね」
「ああ」
「正しく作るのに、信用しちゃ駄目なの?」
オルドは少しだけ笑った。
「そこに気づいたか」
老人は机の上にあった役場の地図を一枚引き寄せた。
「ユアン。この地図を見ろ」
「うん」
「ここに川がある」
「ある」
「なら、本当にそこに川があると思うか?」
「あるんじゃないの?」
「見たのか?」
「見てない」
「なら分からん」
「でも地図に書いてある」
「だから、それを信じるなと言っている」
頭がこんがらがってきた。
「地図が間違ってるかもしれないってこと?」
「そういうこともある」
「でも、地図師がちゃんと作るんでしょ?」
「地図師だって人間だ。間違える。測る場所を間違えることもある。数字を書き間違えることもある。昔は正しかったが、今は変わっていることだってある」
オルドは古道の場所を指さした。
「これが一番分かりやすい」
今の地図には、古道がない。
昔の地図にはある。
「どっちが正しい?」
聞かれて、俺はすぐには答えられなかった。
「昔の?」
「なぜ?」
「道が昔はあったから」
「今は?」
「途中まではある」
「その先は?」
「分からない」
「なら、昔の地図も今の地図も、完全には正しくないかもしれん」
オルドはそう言った。
「地図は答えじゃない」
俺は老人を見る。
「答えじゃない?」
「地図は、誰かが見たものを紙に残したものだ。だから必ず、見た人間の限界が入る」
その言葉は、俺には少し難しかった。
「限界?」
「見ていないものは書けない。知らないものも書けない。間違えて覚えたものは、間違ったまま書くかもしれない。だから地図師は、地図を見て終わりにしちゃいけない」
「じゃあ、どうするの?」
「自分で確かめる」
短い答えだった。
「歩く。測る。見る。聞く。前の地図と比べる。そして違っていれば直す」
俺は、自分が村の地図を作った日のことを思い出した。
一枚目は紙の端が足りなくなった。
二枚目も、道や川の位置を間違えた。
それでも、次に見たとき直せばいいと思った。
「地図師って、ずっと地図を直す仕事なの?」
「半分はそうだな」
「半分?」
「残り半分は、地図にない場所へ行く仕事だ」
胸が鳴った。
オルドは何でもないように言った。
でも、俺にとっては一番聞きたかった言葉だった。
「本当に?」
「ああ」
「誰も行ったことないところにも?」
「行く」
「世界地図の白いところも?」
オルドの表情が少しだけ変わった。
「……行けるならな」
「行ったことある?」
聞いた瞬間、父が「ユアン」と小さく言った。
でもオルドは怒らなかった。
「ある」
「どこ?」
「北だ」
「どれくらい?」
「遠い」
「何があった?」
「それを全部話したら、日が暮れる」
「もう夕方だよ」
「なら明日までかかる」
「聞きたい」
「嫌だ」
「なんで?」
「自分で行け」
オルドはそう言って、俺の額を指で軽く押した。
「人から聞いた世界だけで満足するな」
その言葉に、俺は黙った。
バルドから海の話を聞いた。
村の人たちから山や大きな川の話を聞いた。
どれも面白かった。
でも、本当は自分で見たい。
ずっとそう思っていた。
「じゃあ、俺も地図師になれば行ける?」
「地図師になっただけじゃ行けん」
「なんで?」
「死ぬからだ」
あまりに普通の声だったので、一瞬意味が分からなかった。
「地図の外は危険だ。道がない。水場も分からない。天気も読めない。魔物もいる。帰る方法を失えば、そのまま終わりだ」
世界地図に書かれていた文字が頭に浮かぶ。
――これより先、帰還記録なし。
「帰ってこられなかった人もいる?」
「たくさんいる」
「オルドさんの仲間も?」
老人はしばらく答えなかった。
右脚へ目を落とす。
「いる」
それだけだった。
それ以上聞いてはいけない気がした。
◇
父がお茶を出してくれた。
オルドは椅子に座り、右脚を少し伸ばした。
歩き方がおかしい理由を聞きたい気持ちはあったが、さっきの話を思い出してやめた。
「それで、オルドさんはどうして古道を?」
父が聞いた。
「昔の地図を見直していた」
「ネルカ村のことも?」
「ああ」
「知ってるんですか?」
「名前だけはな」
俺はすぐに近づいた。
「村がなくなった理由は?」
「知らん」
「いつなくなった?」
「記録では十八年ほど前だろう」
「役場と同じだ」
「だろうな」
「でも、なくなった理由が書いてない」
「ああ」
オルドは驚かなかった。
「変じゃない?」
「変だ」
俺は思わず父を見た。
大人がはっきり「変だ」と言ったのは初めてだった。
「じゃあ、何があったの?」
「それを調べに来た」
オルドは一本の地図筒を開けた。
中から古い紙を出し、慎重に机へ広げる。
俺は息をのんだ。
細かい。
役場の地図よりずっと細かい。
森の形。
小さな川。
道。
高い場所。
岩。
そして古道の先に、小さくネルカ村と書かれている。
「これ、誰が書いたの?」
「私だ」
「え?」
「五十二年前にな」
俺はオルドを見る。
「行ったことあるの?」
「ああ」
「ネルカ村に?」
「あったころにな」
「どんな村だった?」
「小さな村だ。家は二十軒ほど。東側に細い川が流れていた。宿は一軒。パンはまずかった」
「ハンスさんと同じだ」
「ハンス?」
「村のおじいさん。昔そこに泊まったって」
「そうか」
オルドの指が地図の村名をなぞる。
「なら、私の記憶だけではないらしい」
「オルドさんは覚えてるんだ」
「今のところはな」
妙な言い方だった。
「今のところ?」
「何でもない」
老人はすぐに話を変えた。
「ユアン。お前はここまで行ったか?」
「古道の途中まで」
「道が見えなくなった場所まで?」
「うん」
「明日、案内しろ」
「俺が?」
「ああ」
父が口をはさんだ。
「待ってください。ユアンはまだ七歳です」
「知っている」
「古道の先へ連れていくつもりですか?」
「行かん。少なくとも、明日はな」
「明日は?」
「まず、こいつが何を見たのか確かめるだけだ」
オルドが俺を見る。
「地図に書いた場所まで、自分で連れていけるか?」
俺はすぐにうなずこうとして、止まった。
森で迷った日のことを思い出したからだ。
できると思う。
でも、「できる」と思うだけでは駄目だ。
「地図を見てもいい?」
聞くと、オルドが少し笑った。
「いい答えだ」
「じゃあ、行ける」
「本当に?」
「たぶん」
「今度はもっといい」
「たぶんでいいの?」
「分からないことを、分かると言うよりはな」
オルドは椅子から立ち上がった。
「明日の朝、村の北で待つ」
「うん」
「寝坊するなよ」
「しない」
老人は地図を筒へ戻し、役場を出ようとした。
俺はその背中へ声をかけた。
「オルドさん」
「なんだ」
「さっきの言葉」
「どれだ?」
「地図師が地図を信じるなってやつ」
オルドは少し考えたあと、振り返った。
「少し違う」
「え?」
「地図師が、地図を信じるな」
ゆっくり言う。
「地図を疑え。自分の目も疑え。人の話も疑え。だが、全部を嘘だと思うな」
「難しい」
「だから覚えろ」
「意味が分からないのに?」
「意味は後で分かる」
オルドはそう言って役場を出ていった。
◇
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
本物の地図師に会った。
世界地図の一部を、自分の足で歩いて作った人。
まだ誰も知らない場所にも行ったことがある人。
そして、五十二年前のネルカ村を実際に見た人。
聞きたいことが多すぎた。
世界の北には何があるのか。
海の向こうへ行ったことはあるのか。
どんな魔法を使うのか。
どうやって地図師になったのか。
右脚に何があったのか。
でも、一番頭に残っていたのは、やっぱりあの言葉だった。
地図師が、地図を信じるな。
俺は壁に張ったリデル村の地図を見る。
自分で歩いた。
自分で見た。
自分で書いた。
だから、ずっと正しいものだと思っていた。
でも、間違っている場所がある。
明日になれば道が変わることもある。
俺が見落としているものも、きっとある。
地図は答えではない。
なら、地図は何なのだろう。
まだ分からない。
でも、その答えを知りたいと思った。
次の日から俺がオルドに教わることになるなんて、このときはまだ知らなかった。
ただ、初めて会った本物の地図師の言葉が、俺の中からなかなか消えなかった。




