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世界地図の余白 ~前世ではどこにも行けなかった俺は、異世界のすべてを見て回る~  作者: みき


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第12話 測るということ

 次の日の朝、俺はいつもより早く目を覚ました。まだ外は少し薄暗く、母は台所で朝食の準備をしていて、父はすでに服を着替えていた。


「早いな」


「寝坊するなって言われたから」


「昨日から何回も起きてたけどね」


 母が笑う。


「そんなに?」


「三回くらい。起きて、窓を見て、また寝てたわよ」


 少し恥ずかしかった。でも、それくらい楽しみにしていた。本物の地図師と一緒に歩く。それだけで胸が落ち着かなかった。


 朝食を食べ終え、地図、水、布、筆を袋に入れる。前に森で迷ったときよりも、持ち物を一つずつ確かめた。


「今日は俺も行くからな」


 父が言う。


「仕事は?」


「午前だけ休む。七歳の息子を、会ったばかりの老人に預けるほど気楽じゃない」


「オルドさん、有名なんでしょ?」


「有名でも心配は心配だ」


 母もうなずいている。俺は何も言えなかった。


 家を出ると、朝の空気は少し冷たかった。村の北へ向かい、墓地の近くまで来ると、すでにオルドが立っていた。


「遅い」


「まだ約束の時間前だよ」


「地図師は、予定より早く着くくらいでいい」


「昨日は寝坊するなってだけ言った」


「今日から覚えろ」


 相変わらずだ。


 父が少し苦笑しながら頭を下げる。


「今日は私も同行します」


「好きにしろ」


 オルドはそう言うと、すぐに歩き始めた。



     ◇



 古道の入口まで来ると、オルドは足を止めた。


「ユアン。ここから先、お前が案内しろ」


「俺が?」


「昨日そう言った」


 俺は自分の地図を取り出した。墓地、古道、森の手前。そして途中で線が止まっている。


「こっち」


 俺は前に歩いた道を進む。父もオルドも後ろからついてくる。


 何度か周りを見て、目印を確かめた。前に見た大きな岩、曲がった木、少し地面がへこんだ場所。地図と見比べながら進む。


「止まれ」


 オルドの声がした。


「何?」


「今、何を見ていた?」


「地図」


「それだけか?」


「周りも見てた」


「どっちを信じた?」


 意味が分からなかった。


「どっちって?」


「地図と、自分の目だ」


「両方」


「答えになっていない」


 オルドは杖で地面を軽くたたいた。


「たとえば、お前の地図ではこの道は少し右へ曲がっている」


 俺は紙を見る。たしかにそう書いてある。


「でも実際は?」


 前を見る。


 道はほとんどまっすぐだった。


「……違う」


「なぜだ?」


「俺が間違えた?」


「まず、それを疑え」


 オルドは俺の地図を指さす。


「地図を見たせいで、道まで右へ曲がっているように見えなかったか?」


 言われて、少しだけ思い当たった。地図にそう書いてあるから、無意識に「ここは曲がっているはずだ」と思っていた。


「地図を見ると、見たいものを見るようになる」


「見たいもの?」


「正しいと思っているものだ」


 オルドは先へ進む。


「だから最初に見るのは地図じゃない。現地だ」


 俺は慌てて後を追った。


「じゃあ地図はいつ見るの?」


「あとだ」


「あと?」


「まず目で見る。次に測る。それから地図と比べる」


 父が横で黙って聞いている。


 俺は自分の紙を少し下げた。今までとは順番が逆だった。



     ◇



 少し進んだところで、オルドは背中の荷物を下ろした。


 中から、見たことのない道具をいくつか取り出す。長い縄、細い棒、円形の金属板、それから三本脚の台。


「これ何?」


「測角器」


「そっかくき?」


「角度を測る」


 聞き慣れない言葉だった。


「方角を見る道具とは違うの?」


「違う。あれは北を知るもの。これは、ある場所から別の場所がどれくらいずれて見えるかを測る」


 オルドは三本脚を地面へ立て、その上へ金属板を置いた。


「見ていろ」


 少し先の木へ向けて、細い棒のような部分を合わせる。


「父さん、あの木の横へ立ってくれ」


「私がですか?」


「他に誰がいる」


 父が苦笑しながら歩いていく。


「ユアン。縄を持て」


「うん」


 俺は縄の端を持った。


「ここから父親までの距離を測る」


 オルドの指示に従って縄を伸ばす。一度では届かないので、印をつけてまた伸ばす。それを何度かくり返した。


「四十三短縄」


「そうだな」


 俺が数字を書くと、オルドが首を振った。


「それだけじゃ足りん」


「何が?」


「どの場所から、どの場所まで測った?」


「ここから父さんまで」


「地図を見た人間に、それで分かるか?」


 俺は黙った。たしかに分からない。


「始点と終点を決めろ」


「始点?」


「測り始める場所だ」


 オルドは地面へ一本の短い杭を打った。


「ここを一番とする」


 父のいる場所にも杭を打たせる。


「向こうを二番」


 俺は紙に書く。一番から二番、四十三短縄。


「次に角度」


 オルドは測角器をのぞく。


「北から見て、東へ三十二度」


「三十二度?」


「数字は今は覚えなくていい。考え方を覚えろ」


 俺は言われた通り記録した。


「これで、一番の場所が分かれば、二番の位置をかなり正確に決められる」


「縄だけじゃ駄目なの?」


「距離だけでは、どちらへ進んだか分からん」


「方角だけなら?」


「どこまで進んだか分からん」


 なるほど。距離と向き、その両方が必要なのだ。


「地図って、こうやって作るの?」


「一つの方法だ」


「もっとある?」


「山ほどある」


 胸が少し高鳴った。知らないことが、まだたくさんある。



     ◇



 オルドはそこから、三つの点を測った。


 木、岩、古道の曲がり角。俺は数字を書き、紙に小さな点を打つ。


「線を引け」


 言われて、点と点をつなぐ。すると、さっきまで自分の感覚で書いていた道とは少し違う形になった。


「……こっちの方がまっすぐだ」


「だから測る」


 オルドは簡単に言う。


「自分の目だけだと駄目?」


「目は大事だ」


「でも間違う」


「ああ」


「じゃあ道具の方が正しい?」


「道具も間違う」


「え?」


「縄は伸びる。金属は曲がる。数字を書き間違えることもある」


「じゃあ、何を信じればいいの?」


 オルドは少し笑った。


「全部使え」


「全部?」


「目、道具、地図、人の話、記録。どれか一つだけで決めるな」


 俺はさっき書いた数字を見る。


「だから比べるの?」


「そうだ」


 少しだけ、昨日の言葉の意味が分かった気がした。


 地図を信じるな。


 それは、地図が全部嘘だという意味ではない。


 地図だけを信じるな、ということなのかもしれない。



     ◇



 さらに歩くと、あの場所へ着いた。


 前にダレンと父と来たところ。道が途中から分からなくなる場所だ。


「ここ」


 俺は足を止めた。


「ここから先が見えなくなる」


 オルドは何も言わず、周りを見た。前へ進み、戻り、横へ動き、何度も同じ場所を見ている。


「父さんたちもやった」


「黙って見てろ」


 俺は口を閉じた。


 オルドは地面へしゃがみ、草をかき分けた。土を見て、木の根を見て、杖で地面を軽くたたく。それから古い地図を取り出した。


「ユアン。五十二年前の地図では、道はどちらへ続いている?」


 俺は紙を見る。


「東」


「今は?」


「分からない」


「なら測る」


 オルドはさっきと同じように杭を打った。


 そこから東へ向けて距離を測る。俺と父も手伝った。


 十短縄、二十、三十。


 進んでも、道は見えない。ただの草地と木が続いている。


「止まれ」


 オルドが言った。


 古い地図をもう一度確認する。


「このあたりに石があるはずだ」


「ダレンさんも言ってた」


「腰くらいの高さの目印だ」


 三人で探す。


 少しして、父が声を上げた。


「これじゃないですか?」


 草の中に、平たい石が半分埋まっていた。


「でも小さい」


 俺が言う。


 地面から出ているのは、膝より低い。


 オルドは石の周りの土を掘った。少しずつ石の形が見えてくる。


「埋まってるだけだ」


「じゃあ、あったんだ」


「ああ」


 ダレンの記憶は正しかった。


 オルドは石の表面を布でこする。そこに、薄く文字が残っていた。


「読める?」


「待て」


 さらに土を落とす。


 俺も顔を近づけた。古い文字。でも、少しだけ読める。


「ネ……ル……」


「ネルカ」


 オルドが言った。


 俺は息をのんだ。


 目印の石。ネルカ村へ続く道。本当にあった。


「じゃあ、道もここにあったんだ」


「あった」


「今は見えないだけ?」


 オルドは答えなかった。


 代わりに、地面をもう一度見た。


「変だな」


「何が?」


「道が消えるなら、跡は残る」


「跡?」


「土の固さ、草の生え方、水の流れ。長く人が歩いた場所は、すぐには元に戻らん」


 俺も地面を見る。


 たしかに、さっきまでの古道には少し硬い場所があった。でも、この先は違う。


 周りと同じだ。


「何もない」


「ああ」


「じゃあ、道がなかったみたい」


 そう言った瞬間、オルドの顔が少し変わった。


「そう見えるな」


 父も黙っている。


 風が吹き、草が揺れた。その中に、古い石だけが残っている。


「オルドさん」


「なんだ」


「これって、おかしい?」


「おかしい」


「やっぱり?」


「ああ」


 今度も、はっきり答えた。


「でも、まだ何が起きているかは分からん」


 オルドは石へ手を置く。


「だから調べる」



     ◇



 昼前、俺たちは村へ戻った。


 帰り道、オルドはほとんど話さなかった。俺は今日書いた紙を何度も見ていた。


 数字、角度、目印、古い石、ネルカ。これまでの地図より、ずっと細かい。でも、その分だけ分からないことも増えた。


「オルドさん」


「なんだ」


「今日の地図、前より正しい?」


「前よりはな」


「じゃあ、もう信じていい?」


「駄目だ」


 即答だった。


「なんで?」


「明日、もう一度測ったら数字が違うかもしれん」


「そんなに変わる?」


「少しくらいは変わる」


「じゃあ、何回やれば正しいの?」


「一回で正しいと決めるな」


「二回?」


「必要なら十回」


「そんなに?」


 オルドは杖をつきながら歩く。


「測るというのは、数字を出すことじゃない」


「じゃあ何?」


「間違っていないか確かめ続けることだ」


 俺はその言葉を考えた。


 測る。数字を書く。それで終わりではない。もう一度見て、もう一度測り、違えば理由を考える。


 地図を作る仕事は、思っていたよりずっと地味だった。でも、不思議と嫌ではない。


「明日もやる?」


 俺が聞くと、オルドは横目で俺を見た。


「来るのか?」


「行きたい」


「疲れただろ」


「少し」


「面倒だろ」


「少し」


「怖くないのか?」


 古道の先を見る。道がなくなった場所。ネルカ村へ続いていたはずの道。


「ちょっと怖い」


 正直に答えた。


 オルドは少しだけ笑った。


「なら明日も来い」


「いいの?」


「ああ」


「何する?」


「今日の続きを測る」


「ネルカ村まで?」


「まだ行かん」


「まだ?」


「焦るな」


 またそれだった。


 でも今度は、少し分かる。知らない場所へ進む前に、今いる場所をちゃんと確かめる。


 それも地図師の仕事なのだ。



     ◇



 村へ戻る前、オルドは俺の地図を一度だけ見た。


「昨日よりはましだ」


「本当?」


「ああ」


「何点?」


「点をつけるほどではない」


「じゃあ駄目じゃん」


「最初からうまくできると思うな」


 オルドは俺の紙の端を指さした。


「ただし、これだけは続けろ」


「どれ?」


 そこには、俺が今日書いた言葉があった。


 ――分からない。


「これ?」


「ああ」


「分からないって書くだけ?」


「分からない場所を、分かったふりで埋めるな」


 オルドはまっすぐ俺を見た。


「地図の白い場所を怖がるな」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 世界地図の白い場所。俺がずっと行きたいと思っている場所。


「白いままでもいいの?」


「分からないうちはな」


「でも、いつかは埋める?」


「自分で見たならな」


 俺はうなずいた。


 今日の地図には、まだ白い場所がたくさんある。でも、それでいい。


 知らないのなら、知らないと書く。そして、いつか自分で確かめる。


 それが、地図を作るということなのかもしれない。


 この日から俺は、オルドのあとを追って歩くようになった。


 まだ弟子になったつもりはなかった。たぶん、オルドも弟子にしたつもりはなかったと思う。


 それでも俺にとっては、この日が本当の意味で、地図を学び始めた最初の日になった。

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