第8話 旅人の地図
古道のことがあってから数日が過ぎた。
父は役場で何度か古い地図を調べていたが、結局はっきりしたことは分からなかったらしい。使われなくなった道だから新しい地図から消したのだろう、という話でひとまず落ち着いた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。ただ、自分の地図には古道を残しておいた。途中で線を止め、その横に小さく「道が見えなくなる」と書いたままにしてある。
消してしまう理由がなかったからだ。分からないなら、分からないまま残しておけばいい。そう思うことにした。
そんなある日の昼前、村の入口がいつもより騒がしくなった。
「馬車だ!」
外から子供たちの声が聞こえてくる。
俺も家を出ると、村の南から二台の馬車が入ってくるところだった。一台目には木箱や布の包みが山のように積まれている。二台目は屋根つきで、横には見たことのない文字が書かれていた。
「行商人ね」
後ろから出てきた母が言った。
「行商人?」
「村から村へ移動しながら物を売る人よ。春にも一度来たでしょう?」
「覚えてない」
「あなた、そのころは地図しか見てなかったもの」
母は少し笑った。
馬車が広場で止まると、村の人たちが集まり始めた。布、針、塩、乾燥した果物、鉄の道具。村では作れないものが次々に並べられていく。
俺も人の間からのぞいていたが、品物より気になるものがあった。
二台目の馬車の横に、一人の男が立っていた。三十歳くらいだろうか。日に焼けた顔をしていて、背中には大きな荷物を背負っている。服はかなり使いこまれていたが、腰には細長い筒が二本ぶら下がっていた。
紙を入れる筒に見えた。
「地図かな」
思わず口にすると、男がこちらを見た。
「お?」
目が合う。
「坊主、今なんて言った?」
「その筒。地図が入ってる?」
男は少し驚いたあと、笑った。
「よく分かったな。地図好きか?」
「うん」
「変わった子供だなあ」
最近、それをよく言われる気がする。
男は筒の一つを軽くたたいた。
「こっちは街道図。もう一つは旅の途中で書いた自分用のやつだ」
「自分で書いたの?」
「ああ。大したもんじゃないけどな」
俺はさらに近づいた。
「見てもいい?」
「商品を買ってくれたらな」
「お金ない」
「じゃあ駄目だ」
「ええ……」
男が笑う。冗談だったらしい。
「そんな顔するなよ。ほら、そこに座れ」
広場の端にある木箱を指さされ、俺はすぐに座った。男も隣に腰を下ろし、筒から丸めた紙を取り出した。
「破るなよ」
「分かってる」
広げられた地図は、役場で見たものとはかなり違っていた。
◇
「これ、どこ?」
最初に目に入ったのは、太い一本の線だった。
「この村から南へ続く街道だ。ベルク村を通って、その先がラトル」
「ラトル!」
「知ってるのか?」
「地図で見た」
「行ったことは?」
「ない」
「そりゃ残念だな。市場は大きいぞ。村じゃ見ない食べ物もいっぱいある」
俺は地図へ顔を近づけた。
ラトルの先にも道は続いている。さらに大きな町。川。橋。小さな宿場。役場の地図では名前しか見たことのない場所が、一本の道でつながっていた。
「ここから王都まで行ける?」
「行けるぞ」
「どれくらい?」
「馬車でも十日以上だな。荷物が多けりゃもっとかかる」
「十日……」
俺にはとても長く感じた。でも世界地図で見れば、リデル村から王都までなんて大した距離ではない。
「王都ってどんなところ?」
「人が多い」
「どれくらい?」
「多すぎて数えたことない」
「建物は?」
「石の家がいっぱいある。三階建ても珍しくない。城なんて村全部よりでかく見えるぞ」
「海は?」
「王都からなら、さらに東へ何日か行けば見える」
「海、見たことある?」
「ある」
俺は思わず男の顔を見た。
「本当に?」
「なんだよ、その顔。あるに決まってるだろ」
「どんな感じ?」
男は少し考えた。
「でかい」
「それだけ?」
「初めて見たときは、それしか思わなかったんだよ。向こう岸が見えないんだからな」
「川より?」
「比べものにならん」
頭の中で想像してみる。前の人生では海を知っていた。映像でも見たし、子供のころに家族で行った記憶もある。でも、この世界の海は知らない。
同じ青なのか。同じにおいがするのか。どんな船が浮かんでいるのか。
「行きたいな」
俺がつぶやくと、男は地図を見ながら言った。
「行けばいい」
「まだ七歳だよ」
「じゃあ、大きくなってから行け」
「簡単に言うね」
「簡単だろ。道はつながってる」
男は太い街道の線を指でなぞった。
「ここをずっと行けばラトル。そこから東へ行けば王都。さらに進めば海だ。金と時間と足があれば、行ける」
俺はその指先を見た。
地図の線が、急に本物の道のように思えた。紙の上では細い線でも、その上には村があり、宿があり、橋があり、人が歩いている。その先には、俺がまだ見たことのない海がある。
世界は本当に続いている。当たり前のことなのに、少し胸が熱くなった。
◇
「もう一枚も見たい」
俺が言うと、男は笑った。
「欲張りだな」
「自分で書いた方」
「ああ、こっちな」
もう一つの筒から出てきた地図は、さっきよりずっと汚れていた。紙の端は折れ、ところどころに書き足した跡がある。
「これ、きれいじゃないね」
「旅で使ってるんだから当たり前だ」
「何が書いてあるの?」
「俺に必要なもの」
その答えを聞いて、俺は父を思い出した。
地図には、使う人に必要なものを書く。
男の地図には、道だけではなく小さな印がたくさんあった。
「この丸は?」
「安く泊まれる宿」
「星は?」
「飯がうまい店」
「三角は?」
「馬車の車輪を直してくれるところ」
「ばつ印は?」
「行かない方がいい場所」
「どうして?」
「盗賊が出たところとか、道が崩れてるところとかだな」
俺は夢中になって見た。役場の地図より、ずっと雑だ。線もきれいではない。でも、見ているだけで男がどこを歩き、どこで困り、どこを気に入ったのかが分かる。
「面白い」
「そうか?」
「うん。これ、旅した人の地図って感じがする」
男は少しだけ目を丸くした。
「変なこと言うな、坊主」
「だって、同じ道なのに、さっきの地図と全然違う」
「そりゃそうだ。国が作った地図と、俺が使う地図じゃ目的が違う」
「でも、どっちも間違いじゃない?」
「まあな」
また同じことだった。同じ世界でも、地図は一枚ではない。父から教わった言葉が、少しずつ分かってきた気がする。
◇
俺は地図の北側へ目を移した。リデル村の近くも書かれている。
「ここ、うちの村だよね」
「ああ。昨日ベルクから来たからな」
「北の道は?」
「北?」
「墓地の先から東へ行く古い道」
俺が聞くと、男は地図をのぞきこんだ。
「そんな道あったか?」
「昔の地図にはある」
「俺のにはないな」
「去年ここ通った?」
「いや。この辺は初めてだ」
それなら知らなくても不思議ではない。でも俺は、何となく気になった。
「古い地図にはあるのに、今の地図にはないんだ」
「道なんてよく消えるぞ」
男はあっさり言った。
「そうなの?」
「橋が落ちたり、崖が崩れたり、もっといい道ができたりな。使うやつがいなくなれば、草に埋もれる」
「じゃあ普通?」
「普通だろ」
そう言われれば、やっぱりそうなのかもしれない。俺が考えすぎているだけだ。
「ただまあ」
男が地図を巻きながら続けた。
「地図から消えたからって、何もなかったことになるわけじゃないけどな」
「え?」
「昔の道なら、昔そこを歩いたやつがいる。今は使わなくても、あったものはあっただろ」
俺は何も言えなかった。
男は気にせず筒へ地図を戻す。
「そういう古い道を探すのが好きな旅人もいるぞ。昔の宿の跡とか、使われなくなった橋とか。俺は面倒だから行かないけど」
「……あったものは、あった」
「ん?」
「何でもない」
俺は自分の地図を思い出した。途中で消えた古道。昔の地図には書かれていた。今の地図にはない。
でも、だからといって本当に何もなかったことにはならない。
その言葉が、なぜか胸に残った。
◇
午後になると、行商人の馬車は村を出る準備を始めた。
俺はさっきの男に名前を聞いた。
「バルドだ」
「俺はユアン」
「知ってる。さっき母親に呼ばれてただろ」
「次はどこ行くの?」
「北西の村を二つ回って、それからラトルへ戻る」
「そのあと?」
「王都へ行くかもしれん。冬になる前に南へ行くかもしれん」
「ずっと旅してるの?」
「半分くらいはな」
俺には、それがとてもすごいことに思えた。
「怖くない?」
「何が?」
「知らない場所へ行くの」
バルドは少し考えたあと、馬車の荷物をしばりながら答えた。
「怖いこともある。でも、知らないままの方が気になることもある」
俺はその言葉を聞いて笑った。
「俺もそうかも」
「七歳で何言ってんだ」
「本当だよ」
「なら、まず隣村まで行けるようになれ」
父と同じことを言われた。
「みんなそれ言う」
「正しいからだろ」
バルドは笑って馬車へ乗った。
「じゃあな、地図好きの坊主!」
「また来て!」
「地図が増えたころにな!」
馬車は村の道を進み、やがて南へ消えていった。俺はしばらく、その方向を見ていた。
◇
家に帰ると、俺は壁に張ったリデル村の地図の前へ座った。
今までは、この地図を見るだけでも十分に広いと思っていた。でも今日、バルドの地図を見た。ベルク村、ラトル、王都、海。そこから先にも、まだ道は続いている。
さらに世界地図には、道すら書かれていない白い場所がある。
俺は自分の地図の端を指でなぞった。
今は、ここまで。
でも、いつかこの外側も書きたい。隣村まで、町まで、王都まで、海まで。そして、もっと遠くへ。
その日の夜、俺は初めて、自分が作った村の地図の横へ一枚の真っ白な紙を張った。
まだ何も書けない。どこから始めればいいのかも分からない。
それでも、いつか必要になる気がした。
リデル村の外へ続いていく、俺自身の地図のために。




