第7話 消えた道
森で迷った日から、俺は前より地図をよく見直すようになった。歩いた道をあとで確かめ、間違っていれば直す。目印にした木や水場も、次に行ったとき同じ場所にあるかを見る。
父には「ずいぶん慎重になったな」と笑われたが、一度迷った俺には、地図に引いた一本の線が前より大事に思えた。
そんなある日、父に頼まれて役場へ昼食を届けに行くと、入口の近くで二人の男が言い合っていた。
「だから、あの道を使った方が早いだろう」
「いや、今は使えんよ」
「使えんって、昔からある道じゃないか」
一人は村の北側に畑を持つダレンで、もう一人は父と一緒に役場で働く男だった。
「父さん、母さんから。……何かあったの?」
「北の古道の話だ」
「古道?」
「墓地の先から森の外側を通って、東の草地へ抜ける道だ。新しい道ができてからは、あまり使われなくなったけどな」
ダレンは首を振った。
「俺は去年も使ったぞ。羊を探しに行ったときにな。でも、今の地図にはないんだ」
机の地図を見ると、北の墓地も森も東の草地も書かれているのに、それらをつなぐ道だけがなかった。
「本当にない……」
「道そのものは途中まである。けど森の近くから変なんだ。少し戻ると道が見えるのに、進むと分からなくなる」
役場の男は草が伸びただけだと言ったが、ダレンは納得しない。昔あった腰ほどの高さの目印の石まで消えているらしい。
父は少し考えこんだ。
俺は地図を見つめたまま、妙にその言葉が気になった。
道が消えた。
◇
午後、父は古道を見に行くことになった。当然、俺もついていきたかった。
「この前迷ったばかりだろ」
「今度は離れない」
「勝手に何か追わないか?」
「追わない」
何度か念を押されたあと、ようやく許してもらえた。
父とダレンと三人で墓地の先へ向かう。しばらく進むと、草の間に細い道が見えてきた。使われなくなって久しいらしく草は伸びていたが、人が歩いていた場所だとは分かる。
「あるじゃん」
「ここまではな」
さらに進むと森が近づき、木の影が道へかかり始めた。
そして突然、道が分からなくなった。
「……あれ?」
さっきまで足元にあったはずなのに、その先は普通の草地にしか見えない。草に隠れたというより、最初から道などなかったようだった。
「ここだ。昨日もここまで来た」
ダレンが言う。
父はしゃがんで地面を触った。
「踏み固められた跡もないな。でも、さっきの道は確かにここへ続いてた」
振り返れば、俺たちが歩いてきた道は見える。それなのに前にはない。
「昔は、このまま東へ続いてたんだよな?」
「ああ。少し先に大きな石があって、その先で道が二つに分かれてた」
三人で探したが、その石も見つからなかった。
そのとき、俺はおかしなことに気づいた。
「父さん、ちょっと戻って」
数歩下がる。
「ここからだと、あそこまで道があるように見える」
「それはそうだな」
「でも、前へ行くと……」
俺たちはまた数歩進む。
さっきまで道に見えていた場所が、ただの草地に変わる。
父が黙った。
何度か同じことを試したが、やはり同じだった。少し離れれば道が見える。近づけば消える。
「ほらな。昨日もこうだったんだ」
ダレンの声が小さくなる。
風で葉が揺れ、鳥が鳴いている。森そのものはいつもと同じなのに、目の前の道だけが妙だった。
結局、その日はそれ以上進まなかった。
◇
帰り道、俺は自分の地図に今日歩いた場所を書き足した。墓地の先から森の近くまで一本の線を引き、そこで止める。
「その先は書かないのか?」
父が横から見ていた。
「見てないから」
「ダレンは道があったって言ってただろ」
「父さん、前に言ったじゃん。知らない場所を、知ってるつもりで書くなって」
父は少し驚いたあと、笑った。
「覚えてたのか」
「うん」
線が終わった場所に、小さく書く。
――道が見えなくなる。
今の俺には、それ以上書けなかった。
役場へ戻ると、父は棚から古い地図を何枚も取り出した。
「これが十年前」
北の墓地。その先には一本の細い道がある。
「あった」
「あるな」
二十五年前にもある。五年前にも、三年前にもあった。
「去年のは?」
「待て」
父が一枚を探し出して広げる。
俺と父は同時に黙った。
道がない。
「……いつ消えたの?」
「分からん」
今年の地図にもない。それより前には、確かにある。
「誰かが消した?」
「古い道だから、使わないと判断して書かなかっただけかもしれない」
「でも、本当の道も変だったよ」
「ああ」
父の返事は、いつもより少し弱かった。
「父さん。地図から消えたら、道も消えるの?」
父は眉を寄せた。
「そんなわけないだろ。地図は道を書いたものだ。地図が道を作るわけじゃない」
俺もそう思う。
地図は、そこにあるものを書く。それが当たり前だ。
でも今日見た古道は、地図から消えていた。そして実際の道も、途中からおかしくなっていた。
たまたまなのかもしれない。使われなくなった道が草に埋もれ、地図からも消された。それだけなら、別に不思議ではない。
それでも、何かが引っかかった。
◇
その夜、俺は部屋の机で今日の地図を広げた。
北へ伸びた一本の線。その先には何もない。
――道が見えなくなる。
その文字を見ながら、最初に見た世界地図を思い出す。
あの地図にも、何も書かれていない白い場所があった。誰もその先を知らないから白いのだと思っていた。
今日の道も、知らないから書けない。それだけなら同じだ。
でも、この道は昔の地図にはあった。
誰かが知っていた場所が、あとから白くなることもあるのだろうか。
俺は線の先に残った白い部分を、指でそっとなぞった。
このときはまだ、それが何を意味するのか分からなかった。
ただ一つだけ。
地図の白い場所は、まだ誰も行っていない場所だけではないのかもしれない。
そんな考えが、初めて俺の中に生まれた。




