第6話 森で迷う
父と森へ入る約束をしてから、俺はその日をずっと楽しみにしていた。
森そのものは、村のすぐそばにある。これまでにも入口までは何度も来ているし、遠くから木々を眺めたことなら数えきれないほどある。それでも中へ入ったことはほとんどなかった。
だから、朝から落ち着かなかった。
「ユアン。水は持った?」
「持った」
「布は?」
「ある」
「食べ物は?」
「パンが二つ」
「地図は?」
「もちろん」
母に聞かれるたび、腰につけた小さな袋を確認する。中には水筒、布、パン、それから自分で作った村の周りの地図が入っていた。
父はそんな俺を見て笑った。
「森へ少し入るだけだぞ」
「でも、旅人の心得に書いてあった」
「準備することは悪くないけどな」
父は肩に縄をかけ、短い木の棒を一本持った。
「今日は奥まで行かない。森の入口から古い水場まで、それから南の道へ抜けて戻る。分かったな?」
「うん」
「勝手に離れるな」
「分かってる」
「珍しいものを見つけても走るな」
「分かってるって」
「前に片足だけ森へ入ったやつが言ってもなあ」
言い返せなかった。
母が笑いながら俺の頭をなでる。
「ちゃんと帰ってきてね」
「うん」
俺は父と並んで家を出た。
◇
森の中へ入ると、思っていたよりずっと暗かった。
入口から少し進んだだけなのに、頭の上を木の枝が重なり合い、日の光が細くなっている。地面には落ち葉が厚く積もり、歩くたびにかさかさと音がした。
「村の近くなのに、全然違う」
「森はそんなもんだ」
父は慣れた様子で歩いていく。俺は周りを見ながら、そのあとをついていった。
右に大きな岩。左に二本並んだ木。その少し先には、横倒しになった古い木がある。俺は一つずつ覚えながら、ときどき地図へ書きこんだ。
「それも書くのか?」
「帰るときの目印になるから」
「なるほど」
父は少し感心したようにうなずいた。
森の中には道らしい道があるものの、村の道ほどはっきりしていない。人や動物が何度も通った場所だけ、草が少なくなっている程度だった。
「ここ、道なの?」
「一応な。でも雨が続けば分からなくなる」
「じゃあ地図だけじゃ難しいね」
「そういうことだ」
父は少し先の木を指さした。
「あの木、幹が白いだろ?」
「うん」
「あれが見えたら、水場までは近い」
俺は地図の端に、小さく白い木と書いた。
しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。細い流れが森の中を通っていて、父が「ここが古い水場だ」と教えてくれる。
水は冷たく、底までよく見えた。
「飲める?」
「ここならな。でも知らない場所の水は、見た目だけで飲むなよ」
「旅人の心得にも書いてあった」
「ちゃんと読んでるんだな」
「全部じゃないけど」
父は笑った。
俺は水場の位置を地図へ書いた。入口からどちらへ進み、どのあたりで白い木を通り、その先に水場があるのか。正確ではないけれど、自分が戻るためには十分だと思った。
◇
水場で少し休んだあと、俺たちは南へ向かった。父によると、そのまま進めば森の外へ出て、村の西側の畑へ戻れるらしい。
俺は歩きながら何度も後ろを振り返った。来た道を見て、覚えて、地図と比べる。父は何も言わなかったが、ときどき俺を見ていた。
「何?」
「いや。ちゃんと帰ること考えてるんだなと思って」
「父さんが言ったんでしょ」
「そうだったな」
少し得意な気分になった。
森の中は同じような景色が続く。木や草、岩、落ち葉ばかりなので、少し違うものがあると逆によく目についた。
途中で、青い花がまとまって咲いている場所を見つけた。
「母さんが言ってた花かな」
「薬に使うやつか?」
「たぶん」
俺は近づこうとした。
「ユアン」
父に呼ばれて足を止める。
「勝手に触るな」
「見るだけ」
「なら、俺の見えるところでな」
「分かった」
花の形を確かめる。母が教えてくれたものに似ている。でも、同じかどうかは自信がなかった。
知ったつもりが一番危ない。
母の言葉を思い出し、触らずに地図へ小さな印だけつけた。あとで聞いてみよう。
そのときだった。
少し離れたところで、何かが動いた。
「……今の何?」
木の間を、小さな茶色い影が走った。
「リスか?」
父もそちらを見る。
もう一度、影が動いた。俺は思わず一歩前へ出た。
「待て、ユアン」
「すぐそこ」
「追うな」
分かっていた。でも、もう一度だけ見たかった。
木の向こうに影が消える。俺は二歩、三歩と進んだ。
そこで父の声が聞こえなくなった。
「父さん?」
振り返る。
木しか見えない。
すぐ後ろにいたはずなのに、父の姿がない。
「父さん!」
声を上げる。
返事がない。
胸の奥が一気に冷たくなった。
◇
最初は、すぐ戻れると思った。ほんの少し横へそれただけだ。来た方向へ歩けばいい。
そう考えて戻ったものの、数十歩進んだところで足が止まった。
「……どっちだ?」
同じような木ばかりだった。さっき見た青い花も見えない。地面の落ち葉には自分の足あとが残っているようにも見えるが、動物のものと混ざって分かりにくかった。
急に森が広く感じた。村のすぐそばなのに、さっきまで父と歩いていたのに、何も分からない。
「父さん!」
もう一度呼ぶ。
遠くで何か聞こえた気がしたが、風で葉が揺れた音かもしれない。
走りたくなった。とにかく大きな声を出して、どこかへ進みたくなった。
でも、その瞬間に父の言葉を思い出した。
道を間違えたときに戻れること。旅は、行くだけじゃない。
俺は息を整えた。
「……地図」
腰の袋を開け、中から折りたたんだ紙を取り出す。
森の入口。白い木。水場。青い花の印。
自分が歩いたところだけを書いた、簡単な地図。
まず青い花を探したが、見つからない。なら、水の音はどうだろう。
耳をすませる。
最初は風の音しか聞こえなかったが、しばらく待つと、かすかに水が流れるような音がした。
「こっち……?」
すぐには歩かなかった。
地図を見る。水場から南へ向かう途中で青い花を見つけ、そのあと右側に茶色い影を見て、そちらへ進んだ。
ということは、戻るなら反対側だ。
でも、自分がどれくらい向きを変えたのか分からない。
そこで、父から借りていた小さな方角を見る道具を取り出した。
針がゆっくり動く。
北。
俺たちは水場から南へ向かっていた。影を追ったのは西側だったはずなので、東へ戻れば元の道に近づく。
「たぶん……」
怖かった。
もし間違っていたら、もっと奥へ行ってしまうかもしれない。
それでも、何も考えずに歩くよりはいい。
俺は木の幹を一つ覚え、そこから東へ進んだ。十歩、二十歩、三十歩。何度も後ろを振り返り、戻れなくならないようにしながら進む。
少し先に、青いものが見えた。
「あ」
花だ。
さっき見た青い花。
俺は走りそうになり、すぐに止まった。
落ち着け。
ここからなら地図が使える。花の印から少し北へ戻れば、水場へ近づく。そこまで行ければ、白い木も探せる。
今度はゆっくり歩いた。
やがて水の音が大きくなり、木の間から細い流れが見えた。
「戻った……」
思わず声が漏れた。
でも、まだ終わりではない。父がどこにいるのか分からない。
水場の近くまで行き、周りを見る。
「父さん!」
「ユアン!」
今度は、はっきり返事が聞こえた。
「父さん!」
「動くな! そこにいろ!」
数十秒もしないうちに、父が木の間から現れた。
顔がいつもと違った。怒っている。それ以上に、焦っていた。
俺のところまで来ると、父は肩をつかんだ。
「どこ行ってた!」
「ごめんなさい」
「追うなって言っただろ!」
「うん……」
「返事が聞こえなくなったとき、どれだけ――」
父はそこで言葉を止めた。しばらく俺の顔を見たあと、大きく息を吐く。
「……けがは?」
「ない」
「転んでないか?」
「大丈夫」
父はもう一度息を吐き、それから俺の頭に手を置いた。
「本当に、勝手に離れるな」
「ごめんなさい」
今度はちゃんと言った。
怖かった。父の言うことを聞かなかったせいだ。
「どうやってここまで戻った?」
父が俺の手にある地図を見る。
「地図と、方角を見るやつ。青い花の場所を書いてたから、そこまで戻って、水の音を探した」
「使ったのか?」
「うん」
父はしばらく何も言わず、俺の地図を見ていた。
「……迷ったのは褒められない」
「うん」
「勝手に離れたのはもっと駄目だ」
「うん」
「でも、走り回らずに戻ろうとしたのは正しい」
俺は父を見る。
「地図、役に立った?」
「ああ」
父は小さく笑った。
「ちゃんと役に立ったな」
◇
帰り道、俺は父から離れなかった。本当に、すぐ横を歩いた。
森を出たとき、外の明るさに少し驚いた。空が広く、畑が見え、遠くには村の家が並んでいる。見慣れた景色なのに、少しだけ違って見えた。
「帰ってきた」
「そうだな」
たった少し森へ入っただけだった。世界の端へ行ったわけでも、村から何日も離れたわけでもない。それでも、さっきの俺には本気で帰れないかもしれないと思う瞬間があった。
地図を持っていてよかった。
でも、それ以上に、自分で見たものを書いていてよかった。
青い花、水場、白い木。どれも大きな世界地図には載らない。それでも、俺を帰してくれた。
◇
家へ戻ると、母にはすぐにばれた。
「何かあったでしょう」
父と俺が同時に黙る。
「ロイ?」
「少しだけ、ユアンが離れた」
「少しだけ?」
母の声が低くなった。
「俺が悪い」
先に言った。
「追いかけるなって言われたのに、動物を追った」
母はしばらく俺を見つめた。
「怖かった?」
「うん」
「なら覚えておきなさい。森は、家の近くだから安全なんじゃないの。知らない場所なら、どこだって迷うことはあるわ」
「うん」
「でも、自分で戻れたのね?」
「地図を使った」
俺が紙を見せると、母は少し驚いたようだった。
「これを?」
「うん」
母は地図と俺を見比べ、最後に小さく息を吐いた。
「じゃあ、その地図は大事にしなさい」
「どうして?」
「今日のことも、一緒に残るから」
俺は地図を見る。
森の入口、水場、青い花。今日までは、ただ歩いた場所を書いただけの紙だった。
でも今は違う。
迷った場所。怖かった場所。戻ってこられた場所。その全部が、この紙の中に残っている。
俺は地図のすみに、小さく文字を書き足した。
――ここで道を外れた。勝手に進まないこと。
父が横からのぞきこむ。
「それも地図に書くのか?」
「俺には必要だから」
そう答えると、父は笑った。
「なら、書いとけ」
俺はもう一度、その言葉を見た。
地図は、ただ場所を知るためのものではない。
帰るためにも使える。
そのことを、俺は初めて自分の体で知った。
そしてこの日から、地図を作ることが前より少しだけ特別なことになった。




