第5話 村の外へ
地図師という仕事を知ってから、俺は役場にある地図を見る回数が増えた。
父の仕事をじゃましないように、空いている机のすみで古い地図を広げる。村の畑や川、森、街道、近くの村、その先にある少し遠い町。前までは線と文字にしか見えなかったものが、今では少しずつ意味を持って見えるようになっていた。
「また地図か?」
書類から顔を上げた父に聞かれ、俺はうなずいた。
「父さんは飽きた?」
「仕事だからな。飽きても見る」
「じゃあ、俺の方が向いてるかも」
「七歳で言うようになったなあ」
父は笑いながら、俺の前に一枚の紙を置いた。
「それなら、これも見てみるか」
「何?」
「リデル村の周りの地図だ」
俺はすぐに身を乗り出した。いつも見ている村の地図より、ずっと広い。真ん中にはリデル村があり、そこから一本の道が南へ伸びている。
「この道、どこまで行くの?」
「半日くらい歩けば、ベルク村だ」
「行ったことない」
「そりゃ、まだお前を連れていったことがないからな」
道はベルク村で終わらず、さらに先へ続いていた。小さな橋を渡り、森や丘を越えた先には、俺が知らない町の名前が書かれている。
「ラトル?」
「そう。ここらじゃ一番大きな町だな。馬車なら一日くらいだ」
「一日?」
「ああ」
その言葉を聞いて、俺は不思議な気持ちになった。世界地図の白い場所は、今の自分には想像もできないほど遠い。けれど、まだ見たことのない場所なら、たった半日先にも一日先にもある。
自分は世界を見たいと言った。それなのに、まだ隣の村すら見たことがない。
「ベルク村って、どんなところ?」
「リデルより少し大きい。羊が多いな」
「ラトルは?」
「店が多い。市場もある。俺も年に何度か行く」
「川は? 山は?」
「川はある。北には大きな山も見える」
「地図は?」
「質問が多いな」
父はあきれたように笑った。
「でも、行ってみたいんだろ?」
「うん」
「なら、そのうちな」
「そのうち?」
「一人で歩けるようになったらだ」
その言葉に、俺は少しだけ口をとがらせた。
「今も歩ける」
「村の中ならな」
「この前、畑まで行った」
「俺と一緒にだろ」
「……そうだけど」
父は地図を指で軽くたたいた。
「地図が読めても、外へ出ればそれだけじゃ足りない。自分の足で歩く力もいるし、道を間違えたときに戻る方法も知らないといけない。天気が変わったらどうするか、水や食べ物がなくなったらどうするか、けがをしたらどうするかも覚えないとな」
「そんなに?」
「遠くへ行くっていうのは、そういうことだ」
俺は地図へ目を落とした。紙の上なら、指一本ですぐにラトルまで行ける。でも本当に歩くなら違う。
地図を見ているだけなら足は疲れないし、雨にもぬれない。道を間違えても、それだけで命を落とすことはない。でも、自分の目で世界を見るなら、きっとそうはいかない。
「じゃあ、何を覚えたらいい?」
「まずは村の周りをちゃんと知れ。森の入口、川の浅い場所、雨が降ったときに水が増える場所、近道に見えて危ない道。そういうものをな」
「それも地図に書いてある?」
「全部は書いてない」
またその言葉だった。
「どうして?」
「必要なら、自分で見て覚えるんだよ」
父はそう言って仕事へ戻った。
俺はしばらく、地図に書かれた森を眺めていた。紙の上では、森は大きなまとまりとして書かれているだけだ。でも実際には、たくさんの木があり、坂があり、暗い場所もある。歩けるところと、歩けないところもあるはずだ。
きっと地図には書かれていないものが、そこにはたくさんある。それを自分の目で見てみたい。そんな気持ちが、また少し強くなった。
◇
その日の午後、俺は母に頼んで、村の北側にある草地まで一緒に行った。母は薬に使う草を取りに行くところだった。
「今日は地図じゃなくて草を見るの?」
「両方」
「やっぱり地図なのね」
母は笑った。
草地までは家から歩いてそれほどかからない。けれど俺は、いつもと違う目で道を見ていた。右には小さな水路があり、左には古い大きな木が立っている。少し進めば道が二つに分かれ、片方は東の畑へ、もう片方は草地と森の方へ続いていた。
前に作った村の地図より、もう少し外側まで。俺は歩きながら、頭の中で道をつないでいった。
草地へ着くと、母はしゃがみこんで薬草を探し始めた。
「ユアン。これ、覚えておきなさい」
母が指さしたのは、小さな丸い葉をつけた草だった。
「何?」
「熱が出たときに使える草。そのままじゃ苦いから、煮て使うの」
「じゃあ、これは?」
近くにあった赤い葉へ手を伸ばすと、母の顔が少し変わった。
「それは触らない」
「危ない?」
「かぶれることがあるわ。手が赤くなるの。森にはもっと危ない草もあるから、見たことがないものを勝手に口に入れたらだめよ。きのこなんて特にね」
「分かった」
母はその後も何種類かの草を見せてくれた。役に立つもの、触らない方がいいもの、においで分かるもの、よく似ていて間違えやすいもの。どれも前の世界では知らなかったことばかりだ。
たぶん、普通の地図には書かれない。でも外へ行くなら、知っていた方がいい。
「母さん。地図師って、薬草も覚えるのかな」
「人によるんじゃない?」
「でも、知らない場所でけがしたら困る」
「そうね。覚えて困ることはないわ。ただし、一度で全部覚えようとしないこと」
「どうして?」
「間違えるからよ。知ったつもりが一番危ないの」
その言葉は、父が前に言っていたことと少し似ていた。
知らない場所を、知っているつもりで書くな。
分からないなら、分からないと覚えておく。それも外へ出るためには大事なのかもしれない。
◇
家へ帰ったあとは、魔法の練習をした。
指先に出す小さな光は、前より少しだけ長く続くようになっている。喜んでいると、横からのぞきこんだ父が「ずいぶん安定したな」と言った。
「夜の地図も読めそう?」
「まだ暗いな」
「じゃあ、もっと練習する」
「お前、本当にそれしか考えてないな」
「でも、地図師も魔法を使うんでしょ?」
「使う人はいるだろうな」
「どんな魔法?」
「さあ」
「父さん、知らないこと多いね」
「お前が変なことばっかり聞くからだ」
父は笑ったが、そのあと少し考えるような顔になった。
「そういえば、役場の古い本に、旅の魔法について書いてあるものがあった気がする」
「本当?」
「明日、探してみるよ」
次の日、父は本当に一冊の古い本を持ち帰ってきた。表紙の角はすり切れ、何度も読まれたことが分かる。
「『旅人の心得』」
俺が表紙の文字を読むと、父が少し驚いたように「もう読めるのか」と言った。
本の中には、火の起こし方、水の探し方、けがをしたときの布の巻き方、星の見方、方角の確かめ方、それから小さな光を長く保つ魔法まで書かれていた。
「これ、全部覚えたら遠くに行ける?」
「全部覚えても、すぐには無理だ」
「なんで?」
「本で読んだだけだからだ。やってみないと身につかないこともある」
父は本を閉じるのかと思ったが、そのまま俺へ返した。
「読め。覚えろ。その上で、近い場所から試せ」
「近い場所?」
「村の外れまで歩くとか、森の入口まで行って帰るとかだな」
その言葉に胸が高鳴った。
「一人で?」
「まだだ」
「えー」
「まずは俺か母さんと一緒だ。一人でいいのは、お前がちゃんと帰ってこられるようになってからだ」
父はそこで、少しだけ真面目な顔になった。
「ユアン。外へ行くことは止めない。お前が地図師になりたいっていうなら、それも止めない。でも、帰ってくることだけは覚えろ」
「帰ってくる?」
「ああ。旅は、行くだけじゃないからだ」
その言葉を聞いて、俺はあの日見た世界地図の文字を思い出した。
――これより先、帰還記録なし。
行った人はいた。でも帰ってこなかった。だから、その先に何があるのかを誰も地図へ残せなかった。
俺はしばらく考えてから、父へうなずいた。
「分かった。ちゃんと帰ってくる」
「まだどこにも行ってないけどな」
「これから行く」
「まずは森の入口までだ」
「うん」
世界の端でも、大陸の向こうでもない。村のすぐそばにある森。
それでも、今の俺には十分だった。
◇
それから数日、俺は毎朝少しずつ村の外を歩くようになった。もちろん、父か母と一緒だ。
西の畑、北の草地、川の浅い場所、森の入口。同じ道でも何度か歩けば、朝と夕方で影の向きが違うことや、雨の後は道がぬかるむこと、川の水が増えること、森の近くは村の中より少し涼しいことなど、いろいろな違いが見えてくる。
俺はそのたびに小さな紙へ書きこんだ。道、水、目印になる木、危ない場所、休めそうな場所。前に作ったリデル村の地図とは少し違う。今度は、自分が歩くための地図だった。
父が言っていたように、地図には使う人に必要なものを書く。だから俺は、自分が歩くときに必要だと思ったものを選んで残した。
そうしているうちに、地図の外側は少しずつ広がっていった。紙の上の世界も、俺が知っている世界も、本当に少しずつだったけれど確実に広がっていた。
◇
ある夕方、森の入口で父を待ちながら、俺は一人で地図を見ていた。
ここまでは何度も来た。目の前には木々の間へ続く細い道があり、その先は少し暗くなっている。地図では森を表す線が引かれているだけで、中の道までは何も書かれていない。
世界地図の東側にあった巨大な余白とは比べものにならないほど小さい。それでも、今の俺にとっては同じだった。
知らない場所。まだ、自分の足で歩いていない場所。
俺は気づかないうちに、一歩だけ森の中へ足を入れていた。頭の上で木の葉が風に揺れ、少し先から鳥の声が聞こえる。
「ユアン」
後ろから父に呼ばれ、俺は振り返った。
「勝手に入るなよ」
「入ってないよ」
「片足入ってる」
「片足だけ」
「そういう問題じゃない」
しぶしぶ戻ると、父が俺の持っている地図をのぞきこんだ。
「中も書きたいのか?」
「うん」
「森は道より難しいぞ。目印が似てるからな。木ばっかりだ」
「じゃあ、ちゃんと覚えないと」
「分かってるならいい」
父はしばらく森の奥を見たあと、何でもないことのように言った。
「今度、昼のうちに少し入ってみるか」
「本当?」
「ああ。俺と一緒にな」
「うん!」
思わず大きな声が出た。
「そんなにうれしいか?」
「うれしい」
森は村から歩いてすぐの場所にある。それなのに、俺はその中をほとんど知らない。地図にもまだ何も書けない。
だから行きたい。自分の目で見て、そしてちゃんと帰ってきたい。
その日、家に戻った俺は、地図の森の部分をしばらく眺めていた。
まだ何も書かれていない小さな余白が、世界地図の白い場所と同じくらい、今の俺にはまぶしく見えた。




