第4話 地図を読むために
初めて作ったリデル村の地図は、次の日から俺の部屋の壁に張ることになった。本当は箱の中へ大切にしまっておくつもりだったのだが、父が「しまいこんだら見なくなる」と言ったからだ。
たしかに、その通りかもしれない。朝起きれば、まず地図が目に入る。家があり、川があり、橋や畑、森へ続く道もある。そして家の横には、リアにせがまれて書いた小さな丸が残っていた。地図として正しいかどうかはともかく、その丸を見るたびに俺は少し笑ってしまう。
ただ、毎日見ていると、初めは気づかなかったおかしなところも目につくようになった。線は少しゆがみ、道の長さが合っていないところもある。家と家の間を広く取りすぎた場所もあれば、父に言われた通り、川の曲がり方も少し変だった。
最初は「よくできた」と思っていたのに、見れば見るほど直したい場所が増えていく。それでも嫌にはならなかった。むしろ、次はもっと上手に書けると思うと楽しかった。
◇
数日後、俺は役場の空いている机に座り、父が仕事をする様子を眺めていた。父は大きな紙の上に数字を書き、その横へ細かな文字を並べている。
「父さん。これ、何て書いてあるの?」
俺が指さしたのは、地図のすみにある小さな文字だった。
「『西畑道、雨の後に一部くずれる。秋までに直す』だな」
「そんなに書いてあるの?」
「ああ」
俺はその文字をじっと見た。いくつかは読めるが、まだ知らない字も多い。七歳になった俺は、簡単な読み書きならできるようになっていたものの、役場で使う言葉になると分からないものが多かった。
「読めないと困るな」
「何が?」
「地図。地図を作るなら、文字も必要だろ?」
「まあ、そうだな」
「それに数字もいるよね」
「必要だな」
「じゃあ、もっと覚えたい」
俺がそう言うと、父は少し考えたあとで笑い、机の引き出しから一冊の古い本を取り出した。表紙はかなりすれていて、何度も開かれた跡がある。
「これは?」
「俺が子供のころに使ってた読み書きの本だ」
「父さんの?」
「ああ。まだ残ってたらしい。これなら、一人でも少しずつ読めるだろ」
「借りていいの?」
「返さなくていい。今日からお前のだ」
俺は本を両手で受け取った。前の人生なら、教科書をもらって喜ぶなんて考えられなかったと思う。でも今は違う。文字が読めれば、もっと地図が読める。数字が分かれば、もっと正しく距離を書ける。その先には、今の俺がまだ知らない場所がある。
そう考えると、勉強することにも、ちゃんと意味があるように感じた。
◇
その日から、俺は毎晩少しずつ本を読むようになった。母が食事を作っている間や、父が仕事から帰ってくるまでの時間、リアが昼寝をして静かになったときなど、少しでも時間があれば本を開いた。
分からない文字があるたびに、近くにいる誰かへ聞く。
「母さん、これ何?」
「『薬草』」
「これは?」
「『熱』」
「こっちは?」
「『傷』」
「何で薬の言葉ばっかりなの?」
「あなた、私に聞いてるでしょう」
もっともだった。
父に聞けば、今度は役場で使う言葉が増えていく。
「これは?」
「『境』だな」
「さかい?」
「ここからここまでが誰の畑か、みたいに分ける線だ」
「地図にも使う?」
「よく使うぞ」
東、西、南、北。距離、川、森、山、道、村、町、国。地図に関係する言葉は特に忘れにくく、一つ覚えるたびに、以前見た世界地図の文字が少しずつ読めるようになった。
読めなかったものが読めるようになる。それだけで、地図の中の世界が前より少し広がったように思えた。
◇
文字の次は数字だった。これも地図を作るには欠かせない。
父は小さな石を机の上に並べ、「まずは足し算だ」と言ったが、そこは前の人生の記憶があるので、それほど困らなかった。足し算も引き算も、かけ算も簡単な割り算もできる。
「いつ覚えた?」
すぐに答える俺を見て、父が少し驚く。
「たぶん、前から」
「前からって……」
当然、前世のことは言えないので、ごまかすように石を数えた。
むしろ俺が困ったのは、この世界で使われている長さの決まりだった。
「一縄が十短縄で、一短縄が十手だ」
「……分かりにくい」
「慣れろ。昔はもっとばらばらだったらしいぞ」
「それはもっといやだな」
父は笑った。この世界にも、物の長さや重さを表す決まりがある。村で使うものと王都で使うものはほとんど同じだが、遠い国では違うこともあるらしい。
「国が違うだけで、長さも変わるの?」
「変わるところもあるらしい」
「地図を作る人は困らない?」
「だから地図師は、行った先の決まりも覚えるんだろうな」
その言葉に、俺は手を止めた。
「地図師?」
「ああ」
「地図を作る仕事?」
「そうだよ」
父は何でもないことのように答えたが、俺にはその言葉がとても大きく聞こえた。
「そんな仕事があるの?」
「もちろんある。国の道や山を調べる人間もいるし、遠くまで行って新しい土地を調べる人間もいる」
「遠くまで?」
「俺は会ったことないけどな」
俺は思わず身を乗り出した。
「世界地図も、その人たちが作ったの?」
「たぶんな。何百人、何千人っていう人間が、長い時間をかけて作ったんだろう」
胸が高鳴った。地図を見る人ではなく、地図を作ることを仕事にしている人がいる。しかも、その中には遠い土地まで出かけ、まだ詳しく知られていない場所を調べる人までいるらしい。
「どうやったらなれる?」
「そこまでは知らない」
「役場に本はない?」
「あるかもしれないけど、七歳が読むような本じゃないぞ」
「読めるようになればいい」
「気が早いなあ」
父は笑ったが、俺は本気だった。
◇
その日の夜、俺はまた世界地図を見せてもらった。前に見たときより、読める文字が確実に増えている。大陸や国、海の名前。まだ知らない字も多かったが、それでも最初に見たときとは違った。
「ここが、俺たちの国?」
「そう。レーヴェ王国だ」
父が西の大陸の一部を指さす。
「リデル村は?」
「この地図だと小さすぎて書かれてないな」
「どのへん?」
父が指先で、おおよその場所を示した。本当に小さい。世界地図の上では、俺たちの村なんて点にもならない。
けれど、その場所には俺の家があり、父と母がいて、リアがいる。パンの店も川もある。俺が作った地図なら、それを全部書くことができる。
「父さん。地図って、何枚くらいあるの?」
「さあな。数えきれないだろうな」
「世界地図は一枚だけじゃないの?」
「同じ世界を書いたものでも、作った場所や時代が違えば、少しずつ違うだろ」
俺はその言葉を覚えておくことにした。
同じ世界でも、地図は一枚ではない。今の俺には、それが少し不思議で、とても面白かった。
◇
文字と数字を覚え始めてしばらくすると、今度は母が別のことを教えてくれた。
「ユアン、手を出して」
「こう?」
「そう。力を入れなくていいから、指先を見て」
母が俺の手を取り、何かを感じるように言う。何をするのかはすぐに分かった。魔法だ。
この世界へ生まれてから、魔法は何度も見てきた。父が指先に小さな火をつけることもあるし、母は水を少し温めたり、弱い光を出したりできる。村の人たちも、簡単な魔法なら使える者が多い。
「ユアンも七歳になったし、そろそろ少しずつ練習していいころね」
「俺にもできる?」
「たぶんね。全員が同じように使えるわけじゃないけれど」
母は俺の手のひらへ、自分の指を軽く当てた。
「体の中に、温かいものが流れている感じはしない?」
言われた通り目を閉じる。最初は何も分からなかったが、しばらくすると、胸のあたりから腕へ向かって何かが流れているような気がした。
「……少し」
「それを指先まで持ってくる感じ」
「難しい」
「最初はみんなそうよ」
何度か試していると、突然、指先がほんの少しだけ明るくなった。ろうそくの火より弱い、小さな光。それでも自分の手から出たと思うと、しばらく言葉が出なかった。
「できた」
「できたわね」
母が笑う。俺は自分の指先を見つめながら、前の人生にはなかった魔法というものを、改めて実感していた。
「これ、地図にも使える?」
思わず聞くと、母は目を丸くする。
「最初にそれを聞くの?」
「夜でも地図が読めるかなって」
「もっと明るくできればね」
「じゃあ練習する」
「魔法を覚える理由まで地図なのね……」
母は少しあきれたように笑った。
◇
その夜、俺は部屋の壁に張ったリデル村の地図を見ていた。
文字を読めなければ地名が分からない。数字が分からなければ距離を正しく測れず、方角を知らなければ、自分がどちらへ進んでいるのかも分からない。暗い場所を歩くなら、光を出す魔法だって役に立つかもしれない。
地図を作るというのは、紙に線を引くだけではないらしい。知らなければならないことがたくさんある。それでも、そのことが俺にはうれしかった。
世界地図の白い場所までは、まだ遠い。七歳の俺には、村の外へ一人で出ることさえできない。
だから今は、できることを増やしていこう。文字を覚え、数字を覚え、魔法も覚える。そしていつか、自分の足で知らない場所へ行く。
俺は壁の地図の外側に残っている、何も書かれていない部分を見つめた。小さな紙の中にさえ、まだ俺の知らない場所はある。
世界地図の白い場所へたどり着く前に、まずはその一つ一つを知っていけばいい。
そう考えると、明日も少しだけ楽しみになった。




