第3話 はじめての地図
父からもらった真っ白な紙を、俺はその日の夜まで何度も眺めていた。
まだ何も書かれていない。
それなのに、不思議と見ているだけで楽しかった。
ここに家を書いて、道を書いて、川を書けば、少しずつリデル村が紙の上にできていく。
そう考えると、すぐにでも始めたくなった。
「ユアン。ご飯のときくらい、その紙を置きなさい」
「あと少しだけ」
「何も書いてないでしょう」
母のエマに言われ、俺は仕方なく紙を机の端へ置いた。
向かいでは父が笑っている。
「自分からやりたいと言ったんだから、しばらくは止まらないだろうな」
「あなたが紙を渡すからでしょう」
「俺のせいか?」
「半分くらいは」
二人がそんな話をしている横で、二歳になった妹のリアがパンを小さな手でちぎっていた。
リアは最近、ようやく短い言葉をいくつか話すようになった。
「にー、なに?」
俺の紙が気になるらしい。
「地図だよ」
「ちず?」
「そう。この村の地図」
「むら?」
「リアにはまだ早いか」
そう言うと、リアは分かったのか分からなかったのか、楽しそうに笑った。
この子がもう少し大きくなったら、俺が作った地図を見せてやろう。
そんなことを思いながら夕食を終えた。
◇
次の日。
俺は朝から家の前に立っていた。
片手には紙をはさんだ板。もう片方には炭の筆。
父から借りた短い縄も腰に巻いている。
「まず何から書けばいい?」
仕事へ行く前の父に聞くと、父は家の前で腕を組んだ。
「お前が使う地図なんだから、お前が決めればいい」
「決めていいの?」
「ああ。ただし、自分で見たものだけにしろ」
「見たものだけ?」
「昨日も話しただろう。知らない場所を、知ってるつもりで書くな」
俺はうなずいた。
父は俺の頭を軽くなでる。
「最初から村全部をきれいに書こうとしなくていい。まずは自分の家から始めろ」
そう言って、父は役場へ向かった。
俺はあらためて家を見る。
木でできた二階建ての家。
前には小さな畑があり、母が薬に使う草を育てている。その横には、リアがよく座って遊んでいる平たい石がある。
まず、それを書いた。
四角を一つ。
その横に小さな四角。
家。
畑。
まだ地図と呼ぶにはさびしい。
でも、最初の一歩だ。
次に家の前の道へ出た。
昨日、父と測った方法をまねして、家から角までの長さを調べてみる。
父のような長い縄はないので、短い縄を何度も置き直した。
「一、二、三……」
数えて、紙に小さく数字を書く。
そして角を曲がる。
少し進むと、パンを焼く店がある。
朝なので、焼きたてのパンのにおいが外まで流れていた。
「おや、ユアン。何してるんだい?」
店の前を掃いていたおばさんが声をかけてくる。
「地図を作ってる」
「地図?」
「村の」
「へえ。こんな小さな村の地図なんて、何に使うんだい?」
「まだ分からない」
正直に答えると、おばさんは笑った。
「なら、うちの店は大きく書いといておくれ。村で一番大事な場所だからね」
「それはおばさんが決めることじゃないと思う」
「七歳のくせに言うねえ」
笑いながら、小さなパンを一つくれた。
俺は紙に店を書き、その横へ小さく印をつけた。
あとで分かるように、パンの店と書いておく。
地図に店のにおいまでは残せない。
昨日、父が言っていたことを少し思い出した。
◇
村の中を歩いていると、今まで気にしたことのなかったものが次々に目へ入ってきた。
井戸。
橋。
物置。
村長の家。
小さな広場。
宿。
水車。
いつも遊んでいる場所なのに、地図に書こうと思って見ると、知らないことがたくさんある。
広場は思っていたより細長かった。
川は村の中をまっすぐ流れているわけではなく、少しずつ曲がっている。
村長の家と役場は近いと思っていたけれど、間には意外と何軒も家があった。
自分が知っているつもりだった村を、一つずつ見直しているようだった。
「面白いな」
思わず声に出した。
紙の上に線が増えていく。
そのたびに、自分の中にも村の形ができていく。
昼近くになるころには、紙の半分ほどが埋まっていた。
けれど、そこで困った。
「入らない……」
村の北側を書こうとしたところで、紙の端が近づいてきたのだ。
家から適当に書き始めたせいで、全体が片方へ寄ってしまっている。
このままだと、森まで書けない。
少し考えたあと、俺は家へ戻った。
◇
「失敗した」
昼食を作っていた母へ紙を見せると、母は手をふいてから地図を見た。
「ずいぶん書いたじゃない」
「でも、ここが足りない」
紙の端を指さす。
「北の道が入らないんだ」
「じゃあ、もう一枚もらえば?」
「でも、最初からやり直したい」
「どうして?」
俺は少し考えた。
「今なら、最初よりうまく書けるから」
母はそれを聞くと、少し笑った。
「お父さんに似てきたわね」
「父さんもやり直すの?」
「書類を何度もね。間違えるたびに、ぶつぶつ言いながら」
それは少し想像できた。
母は棚から紙を一枚取り出してくれた。
「これは家で使う分だから、本当は大事に使うものよ」
「うん」
「でも、ちゃんと最後まで書くならあげる」
「書く」
新しい紙を受け取る。
一枚目も捨てずに持っていくことにした。
失敗した地図も、見比べるためには役に立つ。
◇
二枚目は、最初から村全体の大きさを考えて書いた。
家を小さくする。
道の長さも、同じ決まりで紙の上へ移す。
細かすぎるものは書かない。
でも、自分が大事だと思った場所は残す。
父が昨日言っていた意味が、少し分かった気がした。
全部を書こうとしたら、紙がいくらあっても足りない。
だから選ばなければならない。
午後には、川の向こうまで歩いた。
村の東には小さな石橋があり、その先には牛や羊を放す草地が広がっている。
橋の上から川を見る。
水はきれいで、底の石まで見えた。
俺は橋の形を紙へ書いた。
それから、川の横に小さく名前を書く。
リデル川。
この村と同じ名前だ。
生まれたときから聞いていた名前なのに、紙へ書くと少し特別に見えた。
次は南。
畑。
西。
森へ続く道。
北。
小さな墓地。
そこまで歩いたころには、日が傾き始めていた。
最後に少し高い丘へ上がる。
村を見渡せる場所だ。
赤茶色の屋根が並び、その間を細い道が走っている。真ん中には川が流れ、西には畑、さらにその向こうには森が広がっている。
俺は紙と目の前の景色を何度も見比べた。
「……うん」
完ぺきではない。
きっと長さも少しずれている。
家の形だって、本当とは違う。
でも分かる。
これは、リデル村だ。
俺が毎日暮らしている村だ。
紙の上に、自分の故郷があった。
◇
その夜。
仕事から戻った父は、俺の地図をずいぶん長いあいだ見ていた。
「どう?」
待ちきれずに聞く。
「七歳が初めて書いたものにしては、かなりいい」
「本当?」
「ああ。ただ、この道はもう少し東だな。それと川の曲がり方も少し違う」
父は容赦なく間違いを指さしていく。
「あと、ここ。村長の家が大きすぎる」
「大きい家だから」
「地図で本物と同じ大きさにしたら、村長の家だけで村が埋まるぞ」
「……それもそうか」
父が笑った。
それから地図のすみに目を止める。
「ここは何だ?」
「パンの店」
「印がついてるな」
「パンを一個もらったから」
「なるほど。ずいぶん大事な場所らしい」
父の横から母ものぞきこむ。
「あら。うちの家にも印がある」
「そこは一番大事だから」
何気なく答えると、母は少しだけうれしそうな顔をした。
そのとき、床を歩いていたリアが俺の足にしがみついてきた。
「にー、ちず?」
「そう。できたよ」
俺はしゃがんで、地図をリアにも見せた。
「ここが家。それで、ここが川。ここがパンの店」
リアは分かっているのかいないのか、紙の上を指で触った。
「りあ?」
「リアは家にいるだろ」
「りあ、かく」
「人は書かないんだよ」
「かく」
どうしても自分を書いてほしいらしい。
仕方がないので、家の横に小さな丸を書いた。
「これでいい?」
「りあ!」
妹は満足そうに笑った。
父も母も笑っている。
俺はその小さな丸を見た。
地図としては、たぶん必要のない印だ。
でも消す気にはならなかった。
この地図は、誰かに売るためのものでも、役場で使うためのものでもない。
俺が初めて作った、俺のための地図だ。
だから、これでいい。
俺は紙の上の村をもう一度見た。
家がある。
川がある。
橋がある。
畑がある。
父と母がいる。
そして、妹がいる。
世界地図ではほんの小さな点にさえならない村かもしれない。
けれど今の俺にとっては、ここが世界の中心だった。
地図の下の空いている場所に、俺はゆっくり文字を書いた。
――リデル村。
その下に、少し迷ってからもう一つ書く。
――ユアン・フェルナー、七歳。
父がそれを見て、うなずいた。
「なくすなよ」
「うん」
「初めての地図は、一枚しかないからな」
俺は地図を丸めず、折らないように気をつけながら、自分の部屋へ持っていった。
それから箱の一番下へ、大切にしまった。
このときの俺は、もちろん知らなかった。
七歳の俺が一日かけて作ったこの小さな地図が、いつか俺にとって、世界中のどんな地図よりも大切な一枚になることを。




