第2話 道を測る
世界地図を見た次の日から、俺は父の仕事が気になって仕方がなくなった。
それまでも、父が村の役場で何をしているのかは何となく知っていた。畑の広さを調べたり、橋がこわれていないか見たり、村長に言われて書類を書いたりする仕事だ。
けれど、昨日まではそれだけだった。
今は、父の机に広げられていた地図の線一本一本を、誰かが実際に歩いて調べたのだと思うだけで、まるで違うものに見えた。
「父さん」
朝食を食べながら声をかけると、父はパンを口に入れたまま俺を見る。
「ん?」
「今日も道を測りに行く?」
「ああ。昨日の続きだな」
「俺も行きたい」
父の動きが止まった。
「遊びじゃないぞ?」
「分かってる」
「けっこう歩くぞ」
「歩ける」
向かいに座っていた母のエマが、小さく笑った。
「連れていってあげたら? この子、昨日から地図の話ばかりしているもの」
父はしばらく考えてから、仕方なさそうにうなずいた。
「分かった。今日は助手が一人増えたと思うことにするか」
「助手?」
「荷物持ちとも言う」
「それはずるくない?」
「仕事っていうのは、そんなものだ」
こうして俺は、初めて父の仕事についていくことになった。
◇
村の西側には畑が広がっている。
麦畑の間を細い道が走り、その先には低い森がある。数日前に強い雨が降ったため、道の横にはまだ水たまりが残っていた。
父が持ってきた道具は、長い縄、木のくい、小さな板、炭の筆、それから手のひらほどの丸い道具だった。
「それ、何?」
俺が丸い道具を指さすと、父はふたを開けて見せてくれた。
中には細い針が一本入っている。
「方角を見る道具だよ。ほら、こっちが北だ」
父が道具を水平にすると、針がゆっくり動いて一つの向きで止まった。
前の世界でいう方位磁針に近いものらしい。
「まず、昨日ここに印をつけた」
父は道のわきに立っている木のくいを指さした。
「ここから向こうのくいまで、縄を張る」
縄には同じ間かくで小さな結び目が作ってある。
父が片方を木のくいに結び、俺が反対側を持って道を歩いた。
「もっと右だ、ユアン」
「こっち?」
「そう。そこで止まれ」
俺が立ち止まると、父は縄の結び目を数えた。
「二十七と半分」
そして小さな板に数字を書く。
「これだけ?」
「これだけだ」
「道の長さを測ってるの?」
「そうだ」
「でも、まっすぐじゃないよ」
「よく見てるな」
父は少しうれしそうに笑った。
道はゆるく曲がっている。
「曲がってるなら、分ける。ここまで測って、次は向きを変えてまた測る。それを何度もくり返すんだ」
言われてみれば簡単だった。
けれど、実際にやってみると面白い。
道をいくつもの短い線に分ける。
どちらへ曲がったかを記録する。
どれくらい進んだかを測る。
そうして最後に紙の上でつなぐと、一本の道になる。
昨日までなら、目の前の畑も森も、ただの景色だった。
でも今日は違う。
ここからあそこまで、どれくらいあるのだろう。
あの道はどのくらい曲がっているのだろう。
森は村からどちらの方向にあるのだろう。
そんなことばかり考えてしまう。
◇
昼前になるころには、少し足が疲れてきた。
父が言っていた通り、道を測る仕事は思ったより歩く。
止まる。縄を張る。数字を読む。向きを見る。板に書く。また歩く。
同じことを何度もくり返す。
はっきり言って地味な仕事だ。
魔物と戦うわけでもなければ、大きな魔法を使うわけでもない。
それでも、俺は退屈しなかった。
「変な子だな、お前は」
休けいのために木の下へ座ると、父が言った。
「何が?」
「普通の七歳なら、とっくに帰りたいって言ってるころだ」
「面白いよ」
「縄を持って歩くのが?」
「うん」
父は笑いながら水を飲んだ。
俺も水筒を受け取る。
「父さんは、村のこと全部分かる?」
「全部は無理だ」
「でも地図があるんでしょ?」
父は少し考えてから答えた。
「地図があっても、全部が分かるわけじゃないさ」
「どうして?」
父は目の前の畑を指さした。
「あそこの畑は、地図なら四角い線だけだ。でも実際には春に花が咲くし、夏には虫が増える。去年は雨が少なくて、作物があまり育たなかった。そういうことまでは普通の地図には書かない」
俺は畑を見る。
確かに紙の上では、畑はただの形だった。
「地図って、全部を書くものじゃないの?」
「全部なんて書いたら、何が大事なのか分からなくなるだろ?」
その言葉に少し驚いた。
昨日、世界地図の大きな白い場所を見たばかりだったからだ。
「じゃあ、何を書くの?」
「その地図を使う人に必要なものだな。畑を調べるなら畑。道を直すなら道。旅をするなら、町や川や山を書く」
「世界地図なら?」
父は一瞬だけ考えた。
「さあな。俺には大きすぎる話だ」
そう言って立ち上がる。
けれど俺は、しばらくその言葉を考えていた。
世界地図には何を書けばいいのだろう。
国。山。川。町。海。
それだけで、本当に世界を描いたことになるのだろうか。
七歳の俺には、まだ答えは分からなかった。
◇
休けいのあと、俺たちは森に近い道まで進んだ。
そこで俺は、何となく違和感を覚えた。
「父さん」
「どうした?」
「この道、さっき板に書いた向きと少し違わない?」
父が足を止めた。
「どこが?」
「三つ前のくいから、ずっと少しずつ左に曲がってる」
俺は歩いてきた道を指さした。
父は道と板を見比べてから、もう一度方角を見る道具を取り出した。
「……本当だな」
「間違えた?」
「俺がな」
父は頭をかいた。
「二つ前のところで向きを書き間違えてる。よく気づいたな」
「見てたから」
自分でもうまく説明できなかった。
前の人生でも、一度見た地図の形を覚えるのは得意だった。駅から店までの道も、一度見ればだいたい覚えられた。
ただ、それを特別なことだと思ったことはない。
父は板の数字を書き直す。
「助かったよ、助手」
「荷物持ちじゃなかったの?」
「今日から少しだけ出世だ」
父が笑う。
俺も笑った。
◇
夕方。
家へ帰る前に役場へ寄ると、父は今日書いた数字を一枚の紙に写し始めた。
点を打つ。
線を引く。
長さを合わせる。
向きを直す。
昼間、俺たちが歩いた道が少しずつ紙の上へ現れていく。
「あ」
思わず声が出た。
ここは、俺がくいを持っていた場所だ。
ここは休けいした木の近く。
ここを曲がった先に森がある。
ただの線なのに、その場所の景色まで思い出せた。
「すごい」
「何が?」
「今日歩いたところが、そのまま紙の中にある」
父は手を止めた。
「まあ、それが地図だからな」
当たり前のことなのだろう。
でも俺にとっては違った。
昨日見た世界地図。
そこに引かれた無数の線。
あの一本一本にも、今日のような時間があったのだ。
誰かが歩いた。
誰かが測った。
誰かが見た。
そして紙へ残した。
そう考えると、あの巨大な世界地図が昨日よりずっと大きなものに思えた。
「父さん」
「ん?」
「俺も地図を書いてみたい」
「何の地図だ?」
世界地図を作りたい。
昨日なら、そう答えたかもしれない。
でも今日は、その前にやってみたいことができていた。
「この村」
「リデル村を?」
「うん。自分で歩いて、自分で書いてみたい」
父はしばらく俺を見たあと、机の引き出しから小さな紙の束と炭の筆を取り出した。
「なら、まずは家のまわりからだな」
差し出された紙を、俺は両手で受け取った。
何も書かれていない、真っ白な紙だった。
昨日見た世界地図の余白とは違う。
この白い場所には、俺が知っているものがたくさんある。
家がある。
道がある。
川がある。
父と母がいる。
村のみんながいる。
それを、今度は俺が紙の上に残す。
俺が初めて地図を作ることになったのは、その日のことだった。




