第1話 世界地図の白い場所
いつか、行ってみたい。
前の人生で、俺は何度もそう思っていた。
机の上には旅行の本が積んであり、スマートフォンには行ってみたい国の動画が何十本も保存されていた。青い海に囲まれた島、雪の残る高い山、砂ばかりの広い大地。夜になると、仕事から帰った俺は布団の上でそんな景色を眺めていた。
いいなあ、と思う。
来年こそは、と思う。
けれど、実際に飛行機の切符を買ったことは一度もなかった。
金がたまったら。仕事が落ち着いたら。もう少し余裕ができたら。
そうやって理由をつけているうちに、俺は三十六歳になった。
パスポートすら持っていなかった。
子供のころから地図を見るのは好きだった。知らない町の名前を見つけると、そこにはどんな人が住んでいて、どんな景色があるのだろうと考えた。地図の上なら、俺はどこへでも行けた。
けれど結局、本当の俺はどこにも行かなかった。
だからだろうか。
前の人生について最後に覚えているのも、遠い国の景色だった。
夜の部屋で、俺は小さな画面に映る海を見ていた。白い船が、見たこともない港へ入っていく。その動画を見ながら、またいつものように思った。
いつか、行ってみたい。
そのあとのことは覚えていない。
次に目を開けたとき、俺は赤ん坊になっていた。
◇
異世界へ生まれ変わったのだと分かるまで、それほど時間はかからなかった。
最初は言葉も分からなかったが、毎日聞いていれば少しずつ意味が分かるようになった。母はエマ、父はロイ。二人は俺のことをユアンと呼んだ。
家には電気も水道もなく、夜になれば油のランプを使った。父は時々、指先に小さな光をともして火をつけた。
それを初めて見たときは、さすがに驚いた。
魔法がある。
前の世界とは違う。
そんな事実を知った日のことは、今でもよく覚えている。
ただ、不思議なことに、俺はあまり怖くなかった。
むしろ胸が高鳴った。
ここは、俺が何も知らない世界なのだ。
海の向こうに何があるのかも知らない。山を越えた先にどんな町があるのかも知らない。そもそも、この世界がどれほど広いのかさえ分からない。
前の人生では、すでに世界地図が完成していた。
どこに大陸があり、どこに海があり、どこに国があるのか。調べようと思えば、家から一歩も出なくても分かった。
でも、この世界は違う。
俺はまだ何も知らない。
それが、とても楽しかった。
◇
七歳になったころ、俺はリデル村の中なら一人で歩けるようになっていた。
リデルは山と森に囲まれた小さな村だ。家は五十軒ほどしかなく、村の真ん中を一本の川が流れている。大きな店もなく、旅人が泊まれる宿が一軒あるくらいだった。
父のロイは村の役場で働いていた。
役場といっても立派な建物ではない。村長の家より少し大きい程度の木造の建物で、中には机が五つと、書類をしまう棚が並んでいる。
その日、俺は父に昼飯を届けに来ていた。
「父さん、母さんから」
「おお、ユアン。助かった。そこに置いてくれ」
父は机いっぱいに紙を広げていた。朝から畑の境を調べているらしく、細い線の入った紙と数字を交互に見ながら、何かを書きこんでいる。
「それ、地図?」
「ああ。村の西側の畑だよ。雨で道が少し崩れただろう? 今のうちに書き直しておくんだ」
俺は父の横から紙をのぞきこんだ。
道が一本。畑が六つ。小さな水路が二本。
たったそれだけなのに、妙に面白かった。
「これ、父さんが書いたの?」
「全部じゃないぞ。前の地図に、変わったところを書き足しているだけだ」
「地図って、変わるの?」
「そりゃ変わるさ。道ができることもあるし、橋がなくなることもある。川だって、大雨が続けば少し流れが変わる」
そんなものなのか。
前の世界では、地図は最初からそこにあるものだと思っていた。もちろん新しい道路ができれば書き直されるが、自分で地図を作ることなんて考えたこともなかった。
俺は紙の上の細い線を目で追った。
「じゃあ、誰かが見に行って書くの?」
「もちろんだ。見てもいない場所を地図にはできないだろう」
父は当たり前のように答えた。
その言葉が、なぜか胸に残った。
見てもいない場所を、地図にはできない。
なら、この世界の地図はどうなっているのだろう。
「父さん」
「なんだ?」
「世界の地図ってある?」
父の手が止まった。
「世界の?」
「うん。全部が書いてあるやつ」
「ああ……あるにはあるぞ」
言い方が少し変だった。
「見たい」
「今か?」
「見たい」
俺がもう一度言うと、父は困ったように笑った。
「お前は昔から変なものに興味を持つなあ」
そう言いながらも、父は立ち上がった。
部屋の奥にある棚へ向かい、一番上の段から大きな筒を取り出す。ほこりを手で払い、それを机の上へ持ってきた。
「古いものだから、破るなよ」
「分かった」
父がひもをほどく。
中から出てきた紙は、俺の両腕を広げても届かないほど大きかった。
机では足りず、隣の机まで使って広げる。
そして俺は、初めてこの世界を見た。
「……え?」
思わず声が出た。
海があった。
大陸があった。
山があり、川があり、いくつもの国の名前が細かな文字で書かれている。
西には大きな大陸がある。
北にも白くぬられた大地がある。
南にはたくさんの島が散らばっている。
そこまではいい。
問題は、その先だった。
「父さん」
「ん?」
「ここは?」
俺は地図の右側を指さした。
何もない。
海を表す線すら、途中で切れている。
紙が古くて消えたわけではない。そこだけは明らかに、最初から何も書かれていなかった。
「そこは東方だな」
「どうして白いの?」
「分からないからだよ」
父は簡単に言った。
俺は父の顔を見た。
「分からない?」
「ああ」
「国があるかどうかも?」
「分からない」
「町は?」
「分からない」
「山とか、川とかは?」
「それも分からない」
信じられなかった。
俺はもう一度、地図を見る。
白い。
本当に、何もない。
よく見ると北の端にも白い場所があり、南の海にも途中から線がなくなっている場所がある。
「誰も行ったことがないの?」
「行った人はいるさ」
父の声が少しだけ低くなった。
「ただ、帰ってこなかった」
地図の東側。
線が途切れるぎりぎりのところに、小さな文字が書かれていた。
俺は覚えたばかりの文字を、ゆっくり読んだ。
「これより先……帰還記録なし」
帰還。つまり、帰ってきた記録がない。
地図の向こうへ向かった人間はいた。けれど、その先に何があったのかを話せる人は戻らなかった。
普通なら怖がるところなのだと思う。父も、俺が怖がると思ったのかもしれない。
「まあ、ユアンには関係ない話だ。王都に住んでいる人だって、そんな場所へ行くことは――」
父の言葉を、俺はほとんど聞いていなかった。
目が離せなかった。
何も書かれていない。
どんな町があるのか分からない。どんな人が暮らしているのか分からない。
もしかしたら、誰も見たことのない山があるかもしれない。地図に載っていない海があるかもしれない。
前の人生で、俺は完成した地図を眺めながら、いつか行こうと思っていた。そして、どこにも行かなかった。
でも今、目の前にある地図は完成していない。
俺が生きている間にも、この白い場所は残っているかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
「父さん」
「なんだ?」
俺は地図の白い場所を指さした。
「俺、ここに行ってみたい」
父はしばらく黙ってから、大きな声で笑った。
「はははっ! そうか。じゃあ、まずは一人で隣村まで行けるようにならないとな」
「うん」
父は冗談だと思っている。
七歳の子供が、地図の外へ行きたいと言ったのだから当然だ。
けれど俺は、本気だった。
前の人生で何度も口にして、結局かなわなかった言葉。
いつか、行ってみたい。
今度は、その「いつか」を待つつもりはなかった。
俺は机いっぱいに広がった世界地図を見つめる。
そして、その半分近くを占める白い場所から、いつまでも目を離せなかった。




