第一章 8
(よく覚えているわ、このお話……)
今から二千年前。
『北の王国』ラゼオラに冬の獣ラムダが降臨し、この大陸を支配しようと試みた。それを知った愛の女神アクロディアが聖女ミリアムに力を貸し、かの地に平和をもたらしたとされる物語である。
聖女ミリアムが暮らし、そしてアクロディア神から力を授かったというのが王都にあるというイシス大教会。そのため我が国では愛の女神アクロディアを長い間崇拝している。
(アクロディア様、今見ても本当に綺麗……尊い……ビジュ良……心が浄化されてそのまま体ごと消え去ってしまいそう……)
片手で口元を押さえ、うっかり零れ落ちてしまいそうなにやけ顔を必死に隠す。するとそんなアイリーンをよそに、レベッカが何やら深刻な顔で口を開いた。
「……お嬢様、実は少しお伝えしたいことが――」
だがそんなレベッカの言葉を聞くよりも早く、蔵書室の外から何やらにぎやかな靴音が聞こえてきた。やがて扉が勢いよく開き、長い金髪の美少女が飛び込んでくる。
「やだ、ほんとにお姉様だわ!」
「……エレナ?」
その姿を見た途端、アイリーンの頭の中に強い光が明滅した。
覚えているのは六歳の姿。そこから十年の時を経て、愛らしく成長した妹がそこにいた。宝石のように輝くグリーンの瞳をこちらに向け、弾む足取りで近づいてくる。
「お姉様が帰ってきたと聞いてお部屋まで捜しに行ったんですけど、まさかこちらにおられたなんて! お久しぶりですわ。ヴァンフリート領での生活はいかがです?」
「え、ええと……」
「男爵様とのお話も聞いてみたいわ。ねえ、朝ごはんを一緒に食べませんこと?」
レベッカの話では明後日に戻ると言っていたのに、どこかで予定が早まったのだろうか。アイリーンはエレナと目を合わせることが出来ず、逃げるようにその場でうつむく。
「ご、ごめんなさい、私、もう帰らないと」
「えーっ? もう帰っちゃうんですか?」
「レクス様もお戻りになるし、それに……」
こうして話している限りでは、エレナに怒っている感じや怯えている様子はない。ただいじめていたことが事実であるなら、たとえ記憶がなくなったとしても謝罪しなければならないのではないか――とアイリーンはこくりと息を呑む。
「エレナ……ごめんなさい」
「えっ?」
「私、少し前に事故に遭って、ここ十年ほどの記憶を失ってしまったの。それで昨日、お父様たちから昔の話を聞いたのだけど……そこで私が、あなたをいじめていたと言われて……」
額や背中からじっとりと汗が滲み出すも、アイリーンはその場で頭を下げ続ける。
それを見たエレナは真実かどうか確かめるようにちらりとレベッカの方を見たあと、にこぉっと満面の笑みを浮かべた。
「やだぁお姉様! 記憶喪失だなんてまるで小説の主人公みたい!」
「冗談じゃないの。本当に何も思い出せなくて」
「ほんとなんだ。じゃあ……わたしにしたあんなことやこんなことも、ぜぇんぶ忘れちゃったってわけね?」
「……っ」
苦渋の表情を浮かべるアイリーンとは対照的に、エレナはどこか楽しそうに自身の指を順番に折り曲げながら口にする。
「髪を切られたりとかぁ、お気に入りのぬいぐるみを壊されたりとかぁ……あっ! 階段から突き落とされたこともあったわ! あの時は本当に怖かった……」
「ご、ごめんなさい‼ もちろん、謝っても許されることじゃないって分かってる。でも本当に今の私にはその時の記憶がなくて……」
「それってぇ、お姉様の中ではしょせんその程度のことだったってことですよね」
「ち、違うの、そうじゃなくて」
「つまり全然反省してないってことじゃなーい。エレナ、すっごいショック……」
(ど、どうしたら……‼)
白磁のようなエレナの頬に、透明な涙の粒がポロポロと零れ落ちる。その姿があまりにはかなげで、アイリーンは慌ててポケットに入れていたハンカチを出そうとした。
しかしその瞬間、いきなりエレナに顔を平手打ちされた。
掛けていた眼鏡が音を立てて床へと落ち、急いで拾おうとしたアイリーンの目の前でバキ、と踏み砕かれる。突然のことに動揺したアイリーンがおそるおそる顔を上げると、エレナが勝ち誇った表情でこちらを見下ろしていた。
「あっ、ごめんなさぁい。反省してないなら今すぐさせなきゃ、と思って」
「エレナ……?」
「そんなボロボロの眼鏡、もう捨てちゃって構わないでしょ? それとも貧乏なヴァンフリート男爵様からは新しい眼鏡も買っていただけないのかしら? ドレスだってあいかわらず地味だし、お化粧品すら準備してもらえなかったなんて……ほんと、かわいそうなお姉様」
「あなた、いったい……」
くすくすくす、と意地悪な妖精のような声でエレナが笑う。
その姿にかつての無邪気だった妹の面影はどこにもなく、アイリーンは名状しがたい恐怖に襲われた。するとそこにまたも別の人物が割り込んでくる。
「おいエレナ、着替えもせずにどこに行ったかと思えば」
「あ、ランバート様!」
エレナの声が一段階高くなり、アイリーンの眼鏡からぱっと足をどける。
声のした方に視線を向けると、まるで絵本に出てくる王子様のような金髪碧眼の男性が立っていた。香水でも付けているのだろうか、この距離でも分かる甘い匂いが漂ってくる。
(この人って……)
刹那、アイリーンの頭の奥にまたも激しい光の点滅が生じ、たまらず強く目をつむった。
「驚いた。そこにいるのはアイリーンか」
「そう……ですが……、あなたは?」
「おいおい冗談だろ。仮にも『元』婚約者の名前を忘れたと?」
(元婚約者……ですって……?)
本当になんの覚えもなく、アイリーンは彼――ランバートから飛び出した単語にしばし絶句する。その間にもエレナが彼のもとに駆け寄り、慣れた様子で腕をからめた。
「お姉様、記憶喪失になっちゃったんですってぇ。だからエレナたちのこともぜーんぶ忘れちゃったみたい」
「忘れたって……まさか、またエレナに何かしようとしに来たんじゃないだろうな⁉」
「ち、違うわ! 私はただ自分のことが知りたくて――」
「それともなんだ? あの泥棒男爵が嫌になって、オレに頭を下げにきたか」
(泥棒男爵……?)
言われている意味がまったく分からず、アイリーンはただ首を左右に振り続ける。そんな惨めな姉の様子を見かねたのか、エレナがランバートにしなだれかかった。
「本当に忘れているみたいだから、優しいこのわたしが教えてあげるわ。お姉様は昔、ランバート様と結婚の約束をしていたのよ」
「私が……?」
「でもお姉様が陰で私をいじめていることにランバート様が気づいてくださって……『そんな性根の腐った女は我がオブライエン家に必要ない!』って、みんなの前で婚約を破棄してくださったの。あの時は本当に格好良かったあ……」
「親同士が決めた婚約者というだけで、何かとオレに口を出してくる目障りな女だったからな、お前は。早々に婚約破棄して正解だったよ」
「で、今はわたしがランバート様の婚約者ってわけ」
うふふ、と微笑みながらエレナがランバートの胸元にぐりぐりと頭を押し付ける。そんな彼女の肩を抱き寄せながら元婚約者だという彼がにやりと笑った。
「嫁の貰い手もないと思っていたが、田舎者に拾われて良かったじゃないか。ま、オレだったらこんな派手な色のドレスと髪の女お断りだがね。しかしまあ、婚約者にこの程度のものしか用意出来ない、あいつの甲斐性がないせいでもあるが――」
その言葉を聞いた瞬間、アイリーンの頭の中で何かがぶち切れた。
確かに私は悪女だったのかもしれない。でも――レクスまで非難される筋合いはない。
「……その言葉、撤回してください」
「あ?」
「私の悪事に関してはどれだけ咎められても構いません。ですがレクス様は私に、最上級のもてなしをしてくださいました。このドレスを選んだのもお化粧をしていないのも、すべて私が望んでしていることです。レクス様は何ひとつ悪くありません」
暗く淀んでいたアイリーンの心の奥に青く冷たい炎が灯る。優しくありたい、誠実でありたい思う自身とは真逆の――まるで『悪女』のような意思。
でももうこれ以上、傷つけられたくない。誰も傷つけさせない。
「そもそも、先ほどあなたは私の元婚約者だったとおっしゃっていましたけど、正直、婚約破棄していただいて正解でしたわ。私だって、あなたのように失礼な方と一緒になりたいだなんて思いませんもの」
「こいつ……!」
ランバートは顔を歪めるとそばにいたエレナを押し剥がし、アイリーンの髪を掴んでその場に引き立たようとした。するとそんな彼の腕を、背後から大きな手が乱暴に捕らえる。
「――俺の婚約者に何をしている」
「‼」
その正体を目にした途端、アイリーンは驚きに目を見張った。
一拍遅れてエレナとランバートが振り返ると、そこには息を荒げたレクス・ヴァンフリートが立っている。外套は泥でひどく汚れており、顔の手入れをする時間もなかったのか顎にはひげが生えていた。それだけで山賊も裸足で逃げ出しそうな迫力だ。
「お前……レクス・ヴァンフリートか」
「そうだが。お前は誰だ?」
「――っ、ふざけるなよ、この泥棒が‼」
アイリーンの髪から手を離し、ランバートが拘束を解きながらレクスに向かって殴りかかる。だがレクスはそれをあっさりと受け止め、そのまま片腕をねじってランバートを床へと引きずり倒した。ぐきっと変な音がしてランバートがもだえる。




