第一章 9
「い、痛い! おい謝れ! この、でかいだけの田舎者が!」
「ランバート様ぁ~⁉」
激痛にわめくランバートのもとにエレナが慌てて駆け寄る。そんなふたりを横目にレクスは大股で蔵書室の奥に向かうと、ぽかんとしているアイリーンに向かって手を差し出した。
「アイリーン。……俺と一緒に帰ろう」
「は、はい……」
するとその瞬間、アイリーンの脳裏にどこかの光景が甦った。
どこかの四阿。差し出された傷だらけの手。小さい自分はなぜか泣いていて――。
(こんなことが以前、どこかで……)
アイリーンは戸惑いつつも、レクスの手のひらにそっと自身の手を置く。そのままぐいっと引っ張り上げられ、彼に守られるような形でその場をあとにした。すると蔵書室の扉を出たあたりで、しゃがみ込んでいたエレナが忌々しげに叫ぶ。
「ほぉーらね‼ お姉様と結婚したいだなんてどんな変わり者かと思えば、身支度もろくに整えられない残念な男だったわ! 髭もぼうぼうでまるで熊みたい! ああでも、暗ぁーいお姉様にはお似合いね!」
「エレナ、あなた……」
「――いっそそのまま、事故でいなくなってくれたらよかったのに」
(……?)
妹が口にした最後の言葉がよく聞こえず、アイリーンはわずかに眉根を寄せる。
廊下に出ると騒ぎを聞きつけた男性使用人やメイドたちがたくさん集まっており、彼らをかき分けるようにしてクライドがふたりのもとを訪れた。レクスの姿に気づいた途端、ぎょっとした様子で目を見開く。
「レ、レクス様! 申し訳ございません」
「話はあとで聞く。今は一刻も早くここを発つぞ」
「はっ」
足早に歩いていくとやがて玄関ホールが見えてくる。外にはアイリーンとクライドが乗ってきた馬、そしてもう一頭レクスの愛馬らしき黒馬が待機しており、レクスはアイリーンを軽々と抱え上げると自分の馬の鞍へと押し上げた。
「狭くて悪い」
「⁉」
慌てて跨ったそのすぐ後ろにレクスが騎乗し、アイリーンはあまりの距離の近さに一瞬パニックになる。空はまだ朝日の名残が残っており、レクスの合図とともに二頭の馬は正門に向かって勢いよく走り出した。
ドカッ、ドカカッという力強い蹄の音をさせながら、一行は寝起きのエヴァソール領を走り抜けていく。どのくらいそうしていただろうか。ようやく街が遠くに見えるようになった頃、アイリーンがおずおずとレクスを見上げた。
「あ、あの、レクス様」
「……どうした」
「(ア~~ッ、顔がっ、顔が近いですわ~~っ‼ お顔が整いすぎて眩しくて目が焼けそうですわ~! というか髭! なんですのこれは‼ ワイルドで野性的で雄味が強くてこんなフェロモンだだ漏れな状態で外を歩いていて世の女性陣は失神しませんの⁉ 本当にけしからんですわ! もはや歩く顔面凶器ですわよ⁉)い、いえ、その……」
脳内でレクスに対する大量の賛美が溢れ出し、アイリーンはそれを悟られないよう自身の口にぐぐぐっと力をこめる。するとそれを普段の容姿と違うことへの困惑と捉えたのか、レクスが恥ずかしそうに自身の顎を手で隠した。
「す、すまない、剃る時間がなくて……あまり見ないでもらえると嬉しいんだが」
(ア゛ーーッ!)
初めて目にするはにかみ顔に、アイリーンはいよいよ言葉にならない悲鳴をあげる。『可愛い』『尊い』『養いたい』と書かれた白旗を上げて倒れていく小さな自身を想像しつつ、慌てて彼の顔からぱっと目を離した。
「も、申し訳ございません! 私ったら不躾な真似を」
「いや……」
馬上に気まずい沈黙が流れ、アイリーンは血が出そうなほど唇を噛みしめる。
どうしよう。いったいどうしてこんな状況になったのか。彼は私のことをあまり快く思っていないはずではなかったのか――。
「あ、あの、レクス様……どうしてこちらに?」
「たまたま仕事が早く終わって家に戻ったら、あなたがクライドを連れて実家に戻ったとサリアから言われて……」
「まさかその足でそのまま?」
サリアの話では、彼が邸に戻るのは今日のはずだった。
つまり仕事から戻ってきてすぐ、アイリーンのいるエヴァソール領に馬を飛ばして駆けつけてくれたということになる。距離と馬の体力的なものから考えて、おそらく夜中、視界の悪いのも構わず走ってくれたのだろう。
「事前にお伝え出来なくて申し訳ありません。ですがどうしても急ぎで帰りたくて」
「急ぎ? それはなぜだ」
「それは……」
本当のことを言おうとしたものの、両親から言及された自身の悪行がフラッシュバックしてしまい、アイリーンは思わず口を閉じる。するとレクスが途端に険しい顔になり、苦々しい口調で声を絞り出した。
「やはり……俺との婚約を破棄したくなったのか?」
「えっ?」
「あなたには苦労をかけてしまい、本当に申し訳ないと思っている。今後はもっと仕事を増やして金を稼ぐようにするから――」
とんでもない結論が彼の口から飛び出し、アイリーンはぶんぶんと首を横に振った。
「ちょ、ちょっと待ってくださいませ! わ、私はその……両親に確認すれば何か昔のことを思い出せるかもしれないと思って、それでちょっと話をしにきただけです!」
誤解を解きたい一心でアイリーンは一気にまくしたてる。その勢いにレクスはしばし目をしばたたかせていたが、ようやく自身が勘違いしていたことに気づいたのか、真っ赤になった顔を片手で隠しながらうつむいた。
「す、すまない、その……。俺はてっきり、あなたが俺と結婚するのが嫌になって、実家に帰ろうとしたのだと思って、必死で……」
(ああ~~っ、可愛い~~‼)
まさか婚姻を拒否して逃げだしたと思われていたなんて。誤解させて申し訳ないという思いと不安になってわざわざ迎えに来てくれたのかという喜びがやんやとせめぎ合い、アイリーンは思わず彼の腕を掴む。
「と、とんでもありませんわ! だって私、レクス様のことが好――」
「す?」
勇気を出して告白しようとしたところで、アイリーンの視界に真後ろを付いて来ているクライドの姿が飛び込んできた。別に聞こえても構いませんわという男前なアイリーンがいる一方、乙女なアイリーンが『恥ずかしいですわ』と頬を染めている。
そんな心象風景を描きつつ、アイリーンはぎこちなく微笑んだ。
「す……す……ストイックな方だと、思っておりますので……」
「? ありがとう」
脳内の男前アイリーンから『しっかりなさい!』と叱り飛ばされたが、こればかりはそう簡単に伝えられるものではない。しかしあの窮地から助け出してもらったことにはちゃんとお礼を言わなければと、アイリーンはあらためて口にした。
「でも、心配して迎えに来てくださって本当に嬉しいです。……私、レクス様から嫌われているとばかり思っていましたから」
「俺が? あなたを?」
「だ、だって、初めて会って以来一度もお見舞いに来てくださいませんでしたし、おとといに庭でお見かけした時も無視されて」
「待ってくれ。見舞いはたしかに、怪我人のあなたに気を遣わせてはいけないと控えていた。だが無視にいたってはまったく記憶にないんだが」
「お仕事に出られる直前でしたわ。庭にいるレクス様と目が合ったと思ったら――」
アイリーンに責めるように見つめられ、レクスは分かりやすく苦悶した。
「……すまない。窓のところに誰かいるとは思ったんだが」
「ひょっとして、見えていなかったんですの?」
一拍置いて、レクスが申し訳なさそうにこくりとうなずく。そういえばアイリーンと目が合った時、レクスは何か眩しいものでも見たかのように目を眇めていた。もしかしたら距離や光の関係で見えづらい状態になっていたのかもしれない。
どうやら自分の勘違いだったと分かり、アイリーンはほっと胸をなでおろす。そこでようやく、かねてからずっと気になっていた疑問が頭をかすめた。




