第一章 10
(レクス様と私って、以前はどんな感じだったのでしょうか……)
てっきり嫌われていると思っていたから、彼に直接尋ねる勇気がなかった。でもこうしてアイリーンのことを心配して迎えに来てくれるくらいなのだから、そこまで悪い関係ではなかったのかもしれない。
(もしかしたら、また知りたくなかった私がいるかもしれないけれど……)
自分の知らない自分を指摘されるのは、正直とても怖い。
でもまた同じこと――エマやメイドたちに冷たく接したり、エレナをいじめたりするような自分には戻りたくないのだ。
「レクス様、教えてください。記憶を失う前の私はいったいどんな人間だったのですか?」
「アイリーン?」
「……怖いんです。今までの自分が何を考えて、何をしてきたのか全然分からなくて。もしかしたらレクス様に対しても、何か取り返しがつかないようなひどいことをしてしまっていたのではないかと思って――」
両親から非難されたことを再び思い出してしまい、アイリーンは知らず身震いする。するとレクスはそんなアイリーンをじっと見つめたあと、どこか切なそうに笑った。
「……分かった。邸に戻ったらすべて話そう」
「ほ、本当ですの?」
「ああ。だからとりあえず早く戻ろう。夕方になると冷えるからな」
そう言うとレクスは「はっ」と息を吐き、馬の腹に拍車を押し当てた。緩やかだった速度が一気に上がり、アイリーンは倒れ込むように彼の服を掴む。当然のように体が密着してしまい、アイリーンは目をぐるぐると回した。
(アァ~~⁉ こっこれいいんですの⁉ 合法ですの⁉ お金を払ってしていただく行為ではなくって⁉ ああっ私が大富豪でしたらこの時間を過ごすためにいくらでもお支払いしますのに‼ というかなんて硬い胸板ですの⁉ まるで鉄板じゃなくって⁉)
彼の返事にほっとしたのか、アイリーンの感想が心の中で大爆発する。
自身の心の声がだだ漏れでないことに感謝しつつ、アイリーンは愛する婚約者とともにヴァンフリートにある新しい自分の家へと帰るのであった。
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エヴァソール領から戻ってきた翌日。
アイリーンは邸の一階にあるレクスの書斎を訪れた。広さこそあるものの壁に置かれた本棚はスカスカ、カーテンと絨毯は太陽光による経年劣化で色あせており、執務机や椅子、中央に置かれたソファも含め、全体的に年季を感じる家具ばかりが使われている。
髭を剃り、すっかり美男子に様変わりしたレクスが執務机から立ち上がり、アイリーンにソファを勧める。お互い向かい合わせに腰かけたところで、レクスが慎重に言葉を発した。
「正直、どこから話せばいいか迷うが……俺が知る最初のあなたは、とても明るくて聡明な女の子だった。誰にでも優しくて親切で素直で……まるで女神アクロディアに愛された聖女ミリアムのようだった」
「明るかった私……というのはいったい何歳くらいのことでしょう?」
「はっきりとは分からないが八歳くらいだったと思う」
「そ、そんな小さい時に出会っていたのですか?」
「出会ったというか……俺が一方的に見ていただけだ」
「見ていた? 話はしていないんですの?」
「していない。俺は父や兄と一緒に行動しないといけなかったし、あなたは妹さんと楽しそうに過ごしていたから」
「楽しそうに……」
八歳。この時点ではまだエレナとの仲は良かったことになる。ただ両親の話を信じるとすれば、自分はこの先、彼女をいじめるようになるわけで――。
「それから俺が十六の時、もう一度あなたと会う機会があった。だが……あなたは長い髪を一つに縛って眼鏡をかけ、周りの誰とも話すことなく、ただ静かに地面を見つめていた。以前とは全然違って、さすがに少し驚いたな……」
「…………」
一つ結びの髪に眼鏡。その部分だけを聞くと、サリアたちから教えられた記憶を失う前の自分と合致する。レクスとの歳の差は三歳だと聞いているので、おそらく十三歳頃の話だろう。
「その時の私とは、何か言葉を交わしましたか?」
「言葉……」
すると先ほどまでよどみなく話していたレクスが口を閉じ、わずかに視線をそらした。
「……しなかった。遠くから少し姿を見かけただけだ」
(……?)
レクスの反応に、アイリーンは少しだけ違和感を覚える。だが話をしていないということはアイリーンが変わってしまった理由についても分からないだろう。「うーん」と眉根を寄せつつ、レクスに向かって再度尋ねる。
「それではレクス様が私を見たのは八歳と十三歳、その二回だけなのですか?」
「いや……あなたに結婚を申し込んだ。あれが三回目だ」
「けっ……」
まさかの単語が飛び出し、アイリーンは思わず赤面した。
「そ、それはいったいいつのことですの⁉」
「今からだいたい一年前だな。パーティーに参加していたあなたに俺が結婚を申し込んだ」
(そんなサラリと言われても……!)
どうしてここの記憶だけでも残しておいてくれなかったのか、とアイリーンは自身を恨む。だがそれと同時に大きな疑問が浮かんできた。
「ええとつまり……私とレクス様は三回しか会っていないうえ、そのうち二回は会話もしたことがないと」
「まあそうだな」
「……とても純粋な疑問なのですが、レクス様はどうして私に結婚を申し込んでくださったのですか? 親同士交流があったわけでも、特段親しかったわけでもないのに」
「……………………」
先ほどよりも長い沈黙が室内に落ち、レクスがようやく口を開いた。
「それは……もちろん……好きだったからだ」
「ス……キ……?」
SUKI、好き、という言葉だけが一歳になったばかりの子どものように脳内をよちよちと歩き回る。だが大切な話の真っ最中であることを思い出し、アイリーンはすぐに頬の内側の肉を噛みしめた。
「俺は政略結婚を望める立場でもないし、理由としたらそれ以外にないだろう」
「それは……そう、ですね……」
「ただ……実際に婚約をしてこちらに来てもらったところで、あなたにとって迷惑だったのかもしれないと思うことがあって」
「わ、私、何かしでかしましたの⁉」
聞くのが怖い。だがここで聞かなければいつまでも真実を知ることが出来ない。蒼白になっているアイリーンをちらりと見たあと、レクスが申し訳なさそうにうつむく。
「……ふたりでの会話はほとんどなく、ダイニングで一緒に食事を摂ったこともない。夜に部屋を訪ねても毎回入室を断られるし、あげくのはてには――」
「本当に、申し訳ございませんっ……‼」
なんてことをしてくれたのか過去の自分。プロポーズしてくれた相手に対して、しかもこんな誠実な男性に向かってなんて失礼な。自分で自分の頬を殴りたくなる衝動をアイリーンが必死に押さえていると、それを見ていたレクスが苦笑する。
「謝る必要はない。きっとあなたにとって、本意の婚約ではなかったのだろう」
「そ、そんなことは……」
「それなのに俺はこんな辺鄙な土地にあなたを呼びつけ、不便な生活を強いてしまった。だから本当に申し訳なくて……」
せめて以前と同じような贅沢が出来るよう、外での仕事を増やし、婚約してくれたことへの誠意を見せたかった。だがそんな時にアイリーンが事故に遭ってしまい、心からショックを受けたという。
「昨日、あなたの見舞いに行かなかったのは気を遣わせたくないからと言っていたが……実はもう一つ理由があった。俺はあなたが事故で記憶を失ったと知った時……もしかしたら、俺がその原因なのかもしれないと思ったんだ」
「レクス様が原因……?」
「あなたはおそらく、俺とのすべてをなかったことにしたかったのだと思う。婚約もこの関係も……。そう思うと、あなたと接することが怖くなって――」
本当はすぐにでも、自分の知っている情報を伝えるべきだと理解していた。
だがもし本当のことを言って、彼女がまた絶望してしまったら? 幸い記憶はしばらく戻る気配がないという。ならばいっそ一から新しい関係を築けば良いのでは――。
「……そう考えていると自覚した時、俺は自分の浅ましさが恐ろしくなった。だから子細な説明を避け、あなたが自ら記憶を取り戻すまで待とうと決めたんだ。でもそのせいで、あなたに余計な不安を与えてしまった……」
深く頭を下げる彼を前に、アイリーンはただひたすらに困惑していた。
彼との婚約は政略ではなく、純粋な恋愛感情から結ばれたものだった。それだけでも驚きなのに、昔の自分はそれを快く思っていなかったという。
(……だって今、こんなに好きなのに⁉)
現在の『レクス様・愛・LOVE!』な自分からはとても想像出来ず、アイリーンはかつてないほど眉間に皺を寄せる。一方レクスは隠し続けてきた本心を打ち明けてほっとしたのか、ようやくわずかに顔をほころばせた。




