第一章 6
「このまま真っ直ぐ進むと王都、エヴァソール領に向かうにはこの左手の道を進みます。……そういえば、アイリーン様が事故に遭われたのもこの辺りですね」
「ここで事故に遭ったの?」
「はい。客車が傾き、木に激突したと聞いております。もし森の奥深くに落ちていたら、もっと酷いお怪我をされていた可能性もありますね」
(本当に……本当に無事で良かった……)
光の差し込まない鬱蒼とした森を見て、アイリーンは思わず蒼白になる。
人の手が入っていない森に装備もなく立ち入るのは、子どもでも分かる危険行為だ。日暮れの早いこの時期、万一夜に森をさまようことになれば一巻の終わりといってもいい。
(怖いのよね……熊とか、熊とか……)
冬眠前の熊から襲われる想像をしてアイリーンが身震いしていると、クライドが慣れた様子で傾斜のある道に入っていく。再びなだらかな地面になったところで、アイリーンがしみじみとつぶやいた。
「ありがとう、あなたが道に詳しくて助かったわ」
「これくらい普通ですよ。ああでも、以前はよく旅をしていたので、それが今になって生きているのかもしれませんね」
「旅?」
「はい。わたしは元々サビニスの出身なんです」
サビニスはここアルトニスの西側に位置する、通称『騎士の国』と呼ばれる王国だ。
軍神サダマンティスに守護されており、剣術や武術、槍術など国民全員なんらかの戦いの技術を習得していると言われている。
「そうなのね。どうしてアルトニスに来たのかしら」
「ええと、それにはその、色々と事情がありまして……」
するとその時、アイリーンの頬にぽつ、と小さな水滴が当たった。上を向くと晴れ渡った空からパラパラと雨粒が降ってくる。
「通り雨でしょうか。少し飛ばしますね」
「ええ」
雨からアイリーンの体を守りつつ、クライドが一気に速度を上げる。
坂道を上り終えたあたりで少雨は止み、再び冷たい風が顔に当たり始めた。先ほどまで明るかった空はいつの間にか薄暗くなっており、アイリーンはクライドの邪魔にならないよう荷物になったつもりで押し黙る。
そうして太陽が沈みかける直前、ようやくエヴァソール領主――アイリーンの実家へと到着した。幼い頃に見ていた建物そのままの光景に、知らず鼻の奥がつんと痛む。
(ついに帰ってきたんだわ……)
正門に立っていた門番たちに声をかけ、アイリーンは自らの身元を名乗る。事前に連絡をしていなかったため少々もたついたが、無事邸の中に入れてもらうことが出来た。
「ありがとうクライド。今日はもう休んでちょうだい」
「ですが……」
「ここにいるのは知り合いだけよ。心配しないで」
クライドを別棟にある従者用の客室に送り出し、アイリーンは通された応接室で待機する。
幼少期の記憶からはずいぶんと変わってしまった室内を見回していると扉が開き、アイリーンの両親が姿を見せた。分かっているつもりだったが、八歳の頃と比べるとふたりともだいぶ老けてしまっている。
じろっと鋭い視線を向けられ、アイリーンは慌ただしく頭を下げた。
「お久しぶりです。お父様、お母様」
「……どうして急に戻ってきた? まさか向こうで問題でも起こして、婚約を解消されたんじゃないだろうな」
「ええっ……と……?」
父親のあまりに高圧的な物言いに、アイリーンは訳が分からないとばかりに母親の方を見る。だが母親はまるで誰も見えていないかのように、終始壁の方を向いていた。
(ふたりとも、どうなさったの……?)
どうしよう。心臓がドキドキして止まらない。なおも睨みつけてくる父親を前に、アイリーンは必死に笑みを作る。
「実はその……私、少し前に大きな事故に遭ってしまいまして、ここ十年ほどの記憶を失くしてしまいましたの」
「……何?」
「ですのでこちらにいた時のことを教えていただけたらと……」
記憶喪失、それは大変だ、さぞかし不安だっただろうと我が事のように心配してくれる両親の姿を想像する。だが父親は「はあーっ」と疲れた溜め息を吐き出したあと、額に手を当てながらアイリーンに向かって口を開いた。
「なるほどな。どおりで平然とこの家に帰って来れたわけだ」
「……えっ?」
「もう二度と、この家には戻らないと誓う――そう言ってヴァンフリート領に行ったと思っていたんだが」
「この家には戻らない……?」
その言葉を聞き、アイリーンは自分の耳を疑った。
私が? もう二度とこの家には戻らないと両親に誓ったなんて――。
「そ、それはいったいどうして」
「そんなの当たり前だろう! 妹のエレナをあんなに傷つけておいて、よくまたのこのこと顔を出せたものだな、この悪女が! 何かにつけては繊細でか弱いあの子をいじめ、わたしたちから咎められればあれこれと言い訳ばかりして――」
「ま、待ってください‼ 私が、エレナをいじめて……?」
「……いやだわ。あんなことをしておいてあっさり忘れるなんて」
「お母様……」
部屋に入ってからずっと無視してきた母親が、ここにきてようやくアイリーンを見る。ただしその表情は憎悪と怒りに染まっていた。
「本当にひどかったのよ? あの子のお気に入りのドレスを切り刻んだり、大切にしているおもちゃを壊したり」
「う、嘘ですよね? 私がそんなことするはず」
「ハサミであの子の髪を切ったり……ああそうだ! 階段から突き落としたこともあったわね。あの時は半年も入院になってとってもかわいそうだったわ……。それなのに全然覚えていないなんて性格の悪さもここまでいくと大したものね」
「そんな……」
エレナはアイリーンの二つ下の妹だ。
母親譲りの金髪に緑の瞳、お人形さんのような愛らしい顔立ちをしており、物心ついた時から蝶よ花よと溺愛していた記憶がある。そんな妹を、まさか自分がいじめていたというのか。
絶望するアイリーンに対して、両親はなおも畳みかける。
「わたしたちがどれだけ怒っても反省の色を見せず……。まあ、最終的には見かねた友人たちから注意されてようやく懲りたようだったがな」
「許してくれたエレナに感謝するのね。ほんと、あなたと違って聖女みたいな子だわ」
「…………」
私はそんなことしない、と声を大にして言いたい。
しかし記憶がないのでそれを証明出来るものが自分の中にすらない。地下倉庫の資料を見て、少しは昔の自分と心を通わせられた気がしたのに――やっぱり私は悪女だったのだろうか?
(でも……まだ帰るわけには……)
糾弾されたストレスと恐怖で込み上げてくる吐き気をこらえつつ、アイリーンは昔の自分に関する情報をなんとか聞き出そうとする。
「……お約束を破ってしまい、本当に申し訳ありません。お話が終わったらすぐに出ていきます。ですので最後に一つだけ……私と、レクス様との縁談の経緯について教えていただけないでしょうか?」
必死に言葉を発するアイリーンを見て、父親が「ふんっ」と鼻息を荒げた。
「あれは向こうからいきなり来たんだ」
「向こうから……ですか?」
「どこで知り合ったかはしらんが、突然『結婚を申し込みたい』と手紙が来てな。嫁の貰い手がないと困っているところだったから話を受けた。それだけだ」
「それではその、私が向こうの家に入るにあたり、うちから何か用意などはして下さったのでしょうか? 持参金、とか……」
「エレナの結婚式が来年の春にあるので用意出来ないと言った。向こうもそれで構わないと了承したんだ。相手がいらないと言っているのにどうして払う必要がある」
「そ、そうだったのですね……」
恐れていた答えが現実となり、アイリーンの目の前が真っ黒になる。
家が没落し、借金の肩代わりに嫁入りさせられる場合は持参金が支払えないことも往々にしてある。だが妹の結婚式には多額の援助をし、姉であるアイリーンには一センも出さないとなると――自分の存在が軽視されているとしか思えない。
(これも私が、エレナをいじめていたから……?)
どうしてそんなことをと尋ねたい。だが両親がこちらに向けてくる冷たい視線からとにかく早く逃れたくて、アイリーンはなんとか言葉を絞り出した。
「教えてくださり、ありがとうございました……」
頭を下げるアイリーンを一瞥し、父親がすぐさま背を向ける。その去り際、アイリーンに聞こえる声量で淡々と口にした。
「その様子では忘れてしまっただろうが、わたしには今七歳になる息子がいる。我がエヴァソール家の正当な後継者だ。お前は嫁に行ったのだから、もはやこの家の人間ですらない。夜が明けたらすぐに出ていけ」
父親が応接室を出ていくと、母親もそのあとに続いていなくなる。重苦しい空気だけが残されたところで、部屋の隅で待機していた長身の女性がアイリーンのもとにそっと近づいた。昔からいるメイド長のレベッカだ。
「お嬢様」
「…………」
「お部屋にご案内いたします。こちらへ」
「……分かったわ」




