第一章 5
地下倉庫で過去の資料を発見した翌朝。
あれから一睡も出来なかったアイリーンは掛けていた眼鏡を外すと、ソファに座ったまま大きく伸びをした。テーブルの上には昨日回収した資料が見事に散らばっている。
(結局、何も分からなかったわ……)
昔の自分が作った資料を見れば、あの不穏なメモについても何か分かるのではないかと一晩かけて隅から隅まで読み込んだ。しかし日記には必要最低限のことしか書いておらず、警戒すべき人物のヒントなども見当たらない。
一方、計算書の出来栄えは大したもので、ヴァンフリート家の窮状をこれでもかとばかりに再認識させられる羽目となった。
(このままだと本当にダメになってしまう……。でもどうしたら……)
窓から差し込む真っ白な朝日を見てぼーっとしていると、忘れていた眠気が襲ってくる。こくり、こくりとアイリーンが小さく舟をこぎ始めたところで、いきなりコンコンッという小気味よいノック音が部屋中に響き渡った。
「アイリーン様、よろしいでしょうか?」
(あ~……)
サリアの声だと分かり、アイリーンは思わず背もたれに寄りかかる。本音を言うと今すぐベッドで爆睡したい。だが『明日もお願いね』と頼んでいる手前断ることも出来ず、アイリーンはふらつく足取りで扉へと向かった。
「おはようございます、アイリーン様。本日もよろしくお願いいたします」
「……ええ。よろしくね」
他のメイドたちを引き連れ、サリアがクローゼットのある隣室へと向かう。彼女たちがドレスを選んでいる間、アイリーンはじっとその動向を見守っていた。
(『信用するな』、ね……)
目覚めた時から親身になってお世話してくれていたので、サリアのことは無条件に信じてしまった感じはある。だがもし彼女が悪い人間で、記憶を失くしたアイリーンに嘘の情報を吹き込んでいるとしたら?
(うーん……でも昨日までに聞いたことで何か彼女の利になるようなことがあったかしら? だいたい他の人に確認したらすぐバレてしまうわけだし……)
ならば別の人間だろうか、と他のメイドたちの様子も観察する。しかし特段不審な動きは見られず、やがてサリアが「アイリーン様」と嬉しそうにこちらを振り返った。
「本日はどのようなドレスをご希望でしょうか?」
「ええっと……そうね……」
とにかく疲れがすごいので、少しでも気合が入るよう華やかなドレスを――と伸ばしかけた手をアイリーンはぴたっと止める。昨日は何も考えずに選んでしまったが、ここにあるドレスたちはいまやこの家の立派な資産なのだ。
(うっかり傷をつけて売り値が下がることだけは避けたい……。そうなるとやっぱり汚れが目立たない黒か、濃紺……ああ、そういうことね――)
少しずつだけど、また過去の自分と繋がれた気がする。
アイリーンがあっさりと黒のドレスを選ぶと、サリアたちが一瞬パチパチっと目配せした。だが何も口にせず、昨日と同様丁寧に着替えを手伝ってくれる。
「あの、お化粧はどうされますか? よろしければ得意な者がおりますので、そちらにお任せいただいても……」
「しばらくいいわ。ありがとう」
「は、はい……」
心なしかしょんぼりしているサリアを横目に、アイリーンは黒いドレス姿で鏡台へと向かう。そのまま先ほど外した丸眼鏡を慣れた手つきで耳に掛けた。鏡に映る自分は髪もドレスも全身真っ黒で、物語に出てくる醜悪な悪女そのものだ。
(……なるほどね。化粧品を使わないとなると、顔色の悪さを何か他の物で隠す必要がある。だから日頃から眼鏡をしていたんだわ)
しかし今は自分の身なりに構っている暇はないと、アイリーンはすぐに振り返った。
「サリア、お願いがあるのだけど――」
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朝食を手短に終え、アイリーンはクローゼットにあった外套を手に一階の玄関広間へと向かう。そこにはサリアから話を聞いたクライドが準備万端で立っており、こちらに向かって恭しくお辞儀をした。
「お待ちしておりました。それでは参りましょうか」
「ええ、お願い」
玄関を出ると頭上には突き抜けるような青空、そして鞍を載せられた大きな馬がアイリーンたちを待ち構えていた。その迫力にこくりと息を呑んでいると、貴婦人が乗る時用の小さな階段をクライドが運んでくる。
馬の脇に置かれた階段を上り、なんとか首の付け根あたりに腰かける。アイリーンが落ちないように片手で支えながら、クライドは鐙に片足をかけ、先ほどの階段を使うことなく軽々と馬の背に跨った。
「もしつらいようであれば、すぐにおっしゃってください」
「ありがとう。それじゃ、行ってくるわね」
「はい。どうかお気をつけて」
サリアたちに見送られ、アイリーンとクライドはすぐさま邸をあとにする。向かうのはアイリーンの実家があるエヴァソール領だ。
「出来るだけ急ぎますが、到着は夜になるかと」
「分かっているわ。とにかく早く行きたいの」
馬上で受ける風は普段の何倍も冷たく、アイリーンはそっと襟元を手繰り寄せる。
クライドの言う通り、エヴァソール領への移動は出来れば二日は欲しい距離だ。そこを『とにかく急ぎで』と無理を言い、クライドに馬を出してもらえることとなった。
本当はレクスにも事前に伝えておきたかったのだが、現在の正確な居場所が分からないため伝令を出すことは難しいこと、なにより明日には仕事を終えて帰ってくる予定なので、その時にサリアから報告してもらえばいいだろうと判断した。
二人分の重心を器用にとるクライドをちらりと見つつ、アイリーンは昨夜のメモを思い出す。
(もしもクライドが注意すべき人物であった場合、ふたりきりになるというのは最悪の選択かもしれない……。だけど今はいるかも分からない敵を探している場合じゃないのよね)
アイリーンはあらためて、今するべきことを頭の中で整理する。
まずは両親のいる実家に行き、現在抜け落ちている八歳以降の記憶を教えてもらう。それからレクスとの縁談がまとまった経緯を確認し、あとは――。
(お金を……少しでも工面してもらえたらいいのだけど……)
資料を確認したところ、やはりエヴァソール家からヴァンフリート家への持参金は一センも支払われていなかった。ちなみに一センはこの国の最小通貨単位である。
加えて嫁入り道具や衣装、お祝いの装飾品の類もなく、一般的には実家から連れて行くことの多い侍女の帯同もなかったらしい。貴族令嬢の輿入れとは思えないほどひどい条件だ。
(今になって持参金の請求に行くなんて、恥ずかしいことだと分かっているわ。でもそれを貰うことが出来れば、領地経営の貴重な一助となるわけで――)
憂いた表情でアイリーンは小さくため息をつく。すると疲れたと勘違いしたのか、背後にいたクライドが慌てたように口を開いた。
「アイリーン様、大丈夫ですか?」
「えっ? ええ」
「すみません。本来であれば馬車をご用意出来たのですが、あいにくまだ修理が終わっておらず……」
(うっ……)
恐縮したクライドの声を聴き、アイリーンは気まずそうに視線をそらす。
ヴァンフリート家は元々馬車を一台所有していたのだが、先日のアイリーンの事故によって大破し、修理が必要な状態になってしまった。しかし直したくともそれに必要な資金がなく……というところだろう。
「ごめんなさい。私が壊したせいね」
「ア、アイリーン様が原因ではありません! おそらく元々車輪が劣化していて、それで壊れただけだと思いますので!」
必死にフォローしてくれるクライドに申し訳ないと思いつつ、アイリーンはふとした疑問を口にした。
「そういえばずっと気になっていたんだけど、私は事故に遭った日、馬車でどこへ行って、何をしようとしていたのかしら?」
「それが……わたしどもにも分からないのです」
「分からない?」
「正確には『何をなさろうとしたか』は分からない、ですね。あの日はたしかレクス様が王都に行くと予定していた日で、そのため事前に馬車の点検もしていたそうです。ただ直前になって急遽馬を使うことになって」
「そのあとに私が?」
「はい。出立したレクス様を追いかけて欲しいと言われ、馭者が慌てて準備したそうです。ですのでおそらくレクス様に何か用があったのではないかと――」
「…………」
過去の日記を読んだ限り、アイリーンは半年間ほとんど外出していなかった。出ても庭や集落の周り程度で、基本的には自分の部屋かあの地下倉庫で過ごしていたらしい。そんな自分がどうしていきなり、王都に行くレクスを追いかけたのか――。
(ああもう、記憶が残っていれば何をしようとしたかも分かるのに!)
途中で何度か休憩を挟むも、あまり時間を置かずにクライドは走り続ける。
やがて向かっていく先に二手に分かれた道が見えてきた。正面は平坦、左側は上りの傾斜があり、どちらも森に囲まれている。それを見たクライドが「ああ」と顔をほころばせた。




