第一章 3
(やっぱり……基本がなっていないわね)
前髪の長い男はさっきからずっとあくびをしていて手がほとんど動いていないし、恰幅のいい女性は気合こそ十分だが高価な物の扱いがとにかく危なっかしい。さすがにこれは……とアイリーンは再度サリアに尋ねる。
「サリア、彼らの名前は?」
「男性がテオ、あちらの女性がマリアンと言います」
「使用人経験はあるのかしら?」
「詳しくは存じ上げませんが、おそらくなかったかと……」
「ない?」
「はい。レクス様がこちらの領主になられた際、元々この邸で働いていた使用人はすべてオブライエン家に連れていかれたそうでして……」
サリアの話を要約すると、この邸は元々オブライエン家の物だったらしい。ただ王命によりレクスの所有物となったことで、ここで働いていた人材を一気に引き上げてしまった。そのためこの広大な邸を維持するため、経験の少ない者でも雇わざるを得なくなったという。
今のところ、サリアを含めた数人のメイド以外は貴族のお邸に勤めること自体初めて、という状態のようだ。
「その際に高価な家具もほとんど持ち出されてしまい……。アイリーン様を迎えるにあたっての準備は必死にさせていただいたのですが、他の部分はどうしてもその、後回しになってしまったと申しますか……」
「そういうことね……」
ずっと感じていた違和感がようやく明らかになる。部屋で療養していた頃は全然気づかなかったが、アイリーンのために用意されたものと、この邸全体が抱えている雰囲気に大きなずれがあるのだ。
具体的に言うと、家の窮状に対してアイリーンへの待遇が良すぎる。
最高級の化粧品、クローゼットいっぱいのドレス、新品の家具――メイドたちにまともな教育すら施さないダメ令嬢が、自分だけ豪華に着飾っている姿が目に浮かぶようだ。
(もちろん用意してくださったのはレクス様なんだけど……。以前の私はそこに何の疑問も持っていなかったのかしら?)
以前の自分がとんでもない厚顔無恥な人物に思えてきて、アイリーンはぶるぶるっと身震いする。しかしこのままでいいはずがない――と先ほどのエマの笑顔を思い出すと、あらためてサリアの方を振り返った。
「サリア、邸全部を案内して。それから邸にいる使用人全員と顔を合わせたいの」
その後アイリーンは使用人たちの様子を確認しながら、応接間や居間、一階の客室部分などを見て回る。客室にはベッドやテーブルといった家具が残っていたが、やはりこちらも掃除が十分であるとは言い難かった。
建物内の視察を終えたアイリーンは、外に出て庭の状態も確かめる。
秋だというのに生垣に花はひとつもなく、管理する庭師がいないせいか、地面からは名も知らぬ雑草が好き勝手に生えていた。遊歩道は落ちた枯れ葉で埋め尽くされ、先日の少雨の名残もあってか泥だらけになっている。
(まあ、人手がなければ当然こうなるわよね……)
ずいぶん立派な庭なのに、とアイリーンが肩を落としていると、サリアがきまり悪そうに話しかけてきた。
「あの……一応、あちらに温室があるのですが……」
「まあ珍しい、温室があるの?」
温室といえば、全面ガラス張りの壁と屋根で太陽光から暖を取るという画期的な園芸施設だ。中ではオレンジなどの柑橘類を栽培することが多く、貴族でもごく一部の裕福な家しか所有していない。きっと以前の領主だったオブライエン家が作ったものだろう。
わくわくしながらアイリーンは庭の奥を目指す。だがそこにあったのは割れたガラスがわずかに残された廃墟同然の建物だった。
「これが……温室?」
「……はい。私がこちらに来た時にはすでにこのような状態で……誰かのいたずらか、嵐による被害かは分からないのですが」
(ひどい……)
ガラスがはめ込まれていたのであろう扉は枠しか現存しておらず、採光用のガラスはそのほとんどが打ち砕かれていた。中の花壇にもいっさい土が残っておらず、植物が育てられていたという痕跡すら見当たらない。
中ほどに休憩用の小さなテーブルセットが用意されていたが、こちらも長らく風雪にさらされていたせいか、元の装飾が分からないくらいボロボロになっていた。
きっと昔はこれを使って、令嬢たちがお茶を楽しんでいたのだろう――。
(修復してあげたいけれど、この大きさのガラスをすべて揃えるとなると……)
泥で汚れたテーブルの表面を寂しそうに撫で、アイリーンは無言で温室をあとにする。
さらに庭の奥を歩いていくとアイリーンたちが暮らす建物とは違う、平屋建てのシンプルな建物が見えてきた。宿舎のようだが……とアイリーンが見つめていたところ、サリアがすぐに説明してくれる。
「あちらは従者のための宿泊施設だったと聞いております」
「宿泊施設?」
「はい。なんでもこの辺りの森は野生動物が多く、以前はオブライエン家のご子息様が友人を招いて夏も冬も狩りを楽しんでおられたそうです。そのためお邸の一階だけでは部屋数が足りないと、後になって増築されたと」
「なるほどね……」
裕福な貴族たちは日々娯楽に興じていることがほとんどで、狩りもまたそうした遊びの一つだ。自慢の猟犬を従え、弓やボウガンを使って小動物を仕留める。アイリーンも小さい頃に一度だけ見学したことがあるが、射られた獲物の悲痛な鳴き声がつらくて二度と行けなくなった。
こうして広い敷地内を一周した頃には、太陽が山の端に沈みかけていた。
急いで邸に戻り、夕食を取るためダイニングへと向かう。だがそこには食事どころかテーブルクロスすら掛かっていない長テーブルしかなく、アイリーンはしばし呆然としてしまった。
(ええと……夕食は?)
今から準備するのだろうかとアイリーンはサリアの方を振り返ろうとする。すると厨房の方から顎に大きな傷跡がある歴戦の戦士のような男性がのしのしと現れ、アイリーンを見て「うん?」と目を眇めた。
「もしかして、そこにいるのは奥様かね」
「そうだけど……あなたは?」
「料理長のバートラムだ。どうした、いつも部屋で食ってるだろうに」
「ええっと……」
先ほど邸内を見て回った時にはいなかったから、たまたま不在だったのだろう。
しかしとても主人に対する言葉遣いとは思えない。レクスの仕事に同行している兵士では? とも考えたが、着ている白い制服は間違いなく料理人のそれだ。
困惑しているアイリーンに気づき、サリアがこっそり事情を説明する。
「す、すみません、アイリーン様……。実は記憶を失くされる以前は、おひとりで食べたいからと部屋で食事をとられていて」
「そ、そうなのね……。えっ、じゃあまさかレクス様もおひとりで?」
「は、はい。多分、おふたりで食事されたことは今まで一度もないかと……」
(食事も別々なんて……いよいよ婚約者カッコカリ、の信ぴょう性が高まってきたわ)
それぞれが部屋で食べることの多い朝食とは違い、家族みんなが同じテーブルにつく夕食はアイリーンにとって至高の時間だった。
暖かい野菜のスープに焼き立てのパン。香辛料のかかったお肉はどれもジューシーで――とアイリーンは昔を思い出すようにうっとりと目を閉じる。だが再び目を開けたところにあったのは、薄暗いダイニングと空っぽのテーブルだけで――。
今から準備させるのも大変かとアイリーンは小さく微笑んだ。
「……先に伝えていなくてごめんなさい。あとで部屋に運んでくださるかしら」
「ああ、任せとけ」
ダイニングをあとにし、アイリーンはようやく自分の部屋へと戻ってきた。
ゆったりとしたナイトドレスに着替えるのを手伝ってもらっていると、メイドのひとりが厨房から夕食を運んできてくれる。ソファに座り、テーブルの上に置かれたそれを見た途端、アイリーンは無言で固まった。
(……これ、お肉よね?)
そこにあったのは木炭――ではなく、黒く炭化した塊肉だった。
ちょんちょんとフォークで突いてみたがびくともせず、アイリーンは渾身の力を込めてナイフで押し切ろうとする。するとそれを見たサリアが慌てて駆け寄り、アイリーンの手からカトラリーを奪いとった。
「いけません、アイリーン様! お手を痛めてしまいますわ」
「でもこんなのどうやって……」
「コツがあります。――ハアッ!」
どこかからものすごく気合いの入った掛け声が聞こえたかと思うと、アイリーンの目の前にあった塊肉の端がはらりと薄く剥がれ落ちた。中は見事なピンク色でアイリーンは思わず「まあ!」と声を上げてしまう。
「すごいわサリア、どうやったの?」
「実は昔、少し特訓したことがありまして……残りも切ってしまいますね」
その後も目に留まらぬ速さでナイフが動き、皿には薄切りされた牛肉が花びらのように美しく広がった。サリアは「ふう」と自身の額を手の甲で拭ったあと、テーブルにあったナプキンでナイフを綺麗にし、アイリーンの前に置く。
「それでは、私どもはそろそろ失礼いたしますね」
「ありがとう。明日もまたお願いね」
「かしこまりました」
主人が呼びつければ、メイドたちはいつ何時でも駆けつける――と思っている庶民は多いが、実際は朝の支度から夜の着替えまでと、きっちり就業時間を設定している場合がほとんどだ。もちろん中には例外もあるが、その際は給金を上乗せするなどの気遣いが重要である。
メイドたちが次々と頭を下げて退室し、ひとりになったアイリーンはサリアが切ってくれた炭化牛肉を口に運んだ。
「…………」
なんとなく予想していたことだが――まずい。
見た目は最高なのだがとにかく味がない。香辛料がまったくかかっておらず、肉の臭みと炭の焦げ臭さが凝縮されている。そして異常に硬い。おそらく加熱の温度と時間を盛大に間違えているのだろう。
(多分あの方も、元々料理人をしていた方ではないのでしょうね……)
以前の自分もずっとこれを我慢していたのだろうか……と物悲しい気持ちになりながら、アイリーンはなんとか完食する。別のテーブルに置かれていた水桶で口をゆすぐと、ようやく「ふう」と両肩を落とした。
(なんだか今日一日、すごく疲れたわ……)
あらためて確認して回った結果、この家は抱えている問題が多すぎる。
まずお金がない。そして人材がいない。
(……レクス様がここを管理するようになったのが二年前。その際、元々の領主であったオブライエン家が家財や使用人といった一切を引き上げてしまった。そのせいで色々回らなくなってしまったのね――)
土地の支配者が替わることは、そこに暮らす領民たちにとってものすごい負担となる。
新しい決まりを受け入れられない者、前の領主を頑なに支持する者、自分たちに都合のいいように吹聴する者もいたりして、なかなかうまくいかないことも多い。ましてや地縁も経験もない若い領主であればなおのことだ。
村の男たちを率いて働きに出るなどレクスもレクスで必死に努力しているようだが、領地経営が上手くいっていないのは火を見るよりも明らかだ。
(このままではいつか生活が破綻してしまうわ。まずは領地の中を視察して現地の確認、領民の状態を把握する必要がある。それから税収を上げるために必要な物品や設備への投資。その後は資源として活用出来そうなものを探して――)
不思議なことに『領主の妻としてどうふるまうべきか』という発想が次から次へと湧いてくる。どうしてこんなに色々な考えが出てくるのかは分からない。覚えていないだけで、実はこうした勉強が好きだったのだろうか。
(その前に……まずはお金よお金、し、き、ん! 何か値が付きそうなものを売るか、担保に出来そうなものがあればいいんだけど)
アイリーンは目を瞑り、今日見て回った中でそれらしきものがないか思い返す。だがすぐに瞼を上げると、部屋の隅に置いてある鏡台へすたすたと向かった。
引き出しを開けると、相変わらず見事な化粧品が並んでいる。
(……正直、これと隣の部屋にあるドレスを売ればそれだけで結構な額になるわ。でも……)
これらは全部、アイリーンのためにレクスがわざわざ用意してくれたもの。
売りさばいてお金に換えたい気持ちは強いが、勝手に手放して彼の思いをないがしろにするのは本意ではない。せめて許可を得られればいいのだろうが――。
(でも他にお金になりそうなものもないし……)
以前の自分がへそくりでも隠していないだろうかと、アイリーンは鏡台の前にしゃがみ込み、引き出しを上からすべて引っ張り出す。すると下から二番目の引き出しを動かした際、何かが擦れるガチッという音がした。
「……?」
そうっと引き抜いて裏側を見ると、一本の鍵が張り付けられている。キーヘッドには文字が書かれた小さな札が結び付けられていた。
「『階段下』……?」
昼間、玄関広間で見つけた小さな扉のことを思い出し、アイリーンはすぐさま立ち上がった。照明として廊下の壁に取り付けられていた燭台の一つを取り外すと、それを手にしたまま慎重に階段を下りていく。
やがて件の扉の前に到着し、アイリーンは持っていた鍵を鍵穴に差し入れた。
鍵はカチリと音を立ててあっけなく回り、緊張した面持ちで扉を押し開ける。扉の先には石で出来た狭い階段が続いており、アイリーンはその場でこくりと息を呑んだ。
(これは……地下室?)
蝋燭のわずかな灯りを頼りに、足元に気をつけながら下りていく。地中の湿り気を帯びた独特の空気のなか、アイリーンはようやく小さな部屋へと辿り着いた。




