第五章 5
「『結婚を決めた相手がいるのだろうか』と聞かれました。私がいないというと、あの頃よりずっとたくましくなった手を差し出して『約束通り、迎えに来た。――』」
「『――どうか俺と、結婚してもらえないだろうか』……本当に、思い出したんだな」
レクスが言葉の続きを口にしたことに驚き、アイリーンは思わず破顔する。
ああ。当時の自分も本当はそうしたかったのに。
「はい。でもあの頃の私は、自分の感情を表に出すことが怖くなっていましたし、エレナもすぐ近くにいたので、あまり素直に喜ぶことが出来ませんでした」
もしエレナに彼のことを知られたら、何か良からぬ話を吹き込まれるかもしれない。そもそもこんな自分に婚約を申し込むなんて何かあるのかも――と疑心暗鬼になったアイリーンは、簡単な承諾の返事だけを残して急いでその場を離れた。
「きっと何かの間違いだ、と自分に言い聞かせました。でも……」
そうしてパーティー会場をあとにしたのだが――それから数日後、レクスから正式な結婚の申し込みが実家に届いたのである。
「あの時私はようやく、自分にも『嬉しい』という感情が残っていたのだと知りました。ただそれをエレナに知られると絶対に妨害されると思い……決して幸せな気持ちを見せず、淡々と婚約の準備を進めたのです」
幸いと言っていいのかは分からないが、当時のレクスは爵位を授かったばかりで、社交界ではほとんど顔が知られていなかった。また領地も僻地で貧しい生活になることが目に見えていたためか、エレナも積極的に送り出してくれた。
こうしてアイリーンは地獄のような実家から、無事脱出できたのである。
「エレナの息がかかった者が来ては面倒だと思い、メイドはあえて連れていきませんでした。ですがどこかに内通者がいるのではないかと不安になり……結局私は、ヴァンフリート邸に来たあとも以前と同じような振る舞いをし続けたのです」
幸せそうにしていたら、またエレナが横やりを入れてくるかもしれない。
だからアイリーンはこちらに来てからもずっと、暗くて冷たい『悪女』を演じていた。メイドたちとの接触を出来るだけ避け、幼いエマに冷たくあたり、婚約者であるレクスとも極力親しくしないように努めた。
しかしそんなある日、事故に遭い――。
「過去の記憶を失くした私は、自分が『悪女』を演じていた理由も忘れてしまった。だからずっと昔の――明るくて無邪気な自分として行動出来たのです」
「……なるほどな」
「まあ、すべてがすべて前の私ではありませんけども」
つらい過去から生まれた『悪女』は、今もアイリーンの中に存在している。
でもアイリーンが恐れていたような悪しきものではなく、あのつらい時を生き抜くために必要な武器だったのだと今になって理解した。そして――。
「これでようやくお伝え出来ます。レクス様、私は……あなたのことが好きです」
「アイリーン……」
「記憶が戻るまでは、もしかしたら何か自分に後ろめたいところがあるかもしれないと、口にすることが出来ませんでした。でも今は違います。泣いていた私を見つけてくれたことも、悪女になった私に結婚を申し込んでくれたことも、どれも本当に……本当に嬉しかった」
ああそうか、とアイリーンは溜飲を下げる。
自分でもずっと不思議だった。どうしてこんなに彼のことが愛しくて、眩しくて、たまらないのかと。単なる一目ぼれにしてはあまりにも強い。やはり失くした記憶に何かあったのかと不安に思ったこともあったが――これはきっと『反動』なのだ。
(私は、レクス様への気持ちをずっと自分の中に抑え込んできた。婚約破棄されて、四阿でこの人に出会ったあの時から、一日も忘れることなく――)
だから枷となるつらい記憶がなくなった瞬間、それが一気に溢れ出した。だからあんな挙動不審になるほど好きの気持ちが暴走してしまうのだ。
さすがにそこまで伝えるのは恥ずかしく、アイリーンは小さくはにかむ。するとそれを見たレクスもまた泣きそうな笑みを浮かべた。
「俺も……ずっとあなたのことが好きだった。だから記憶を失くしたと言われた時は本当にショックで……事故が原因だと分かっているのに、もしかしたら俺との婚約が嫌で、負担に感じていたのかもしれないと思って……」
「レクス様……」
「四阿で話したことも、プロポーズしたことも……本来ならもっと早くに打ち明けるべきだった。でもそれを伝えたことで、あなたが縛られてしまうことが怖かった。もし本当にあなたが俺のことを嫌っていたのだとしたら、俺は……今すぐその手を離すべきだと――」
苦しそうな彼の告白を聞いていたアイリーンだったが、勢いよくその場で彼に抱きついた。香水ではない汗の匂い。たくましい胸板。硬くて広い背中。自分よりずっと高い体温。
ああ――好き。大好きだ。やっと言える。
「嫌うはずなんてありませんわ」
「アイリーン……」
「あなたは私をこの世界に留めてくれた恩人で……そして、大好きな人ですもの」
言葉では足りないこの気持ちを、アイリーンは自身の両腕に込める。
レクスにもそれが通じたのか、彼は慎重にアイリーンを抱きしめ返した。互いの服の厚みすらもどかしい。そんな抱擁を続けたあと、やがてレクスがゆっくりと体を離す。
その瞳がじっとこちらを見ていることに気づき、アイリーンはそっと目を閉じた。
「アイリーン……愛してる」
淡く輝く月と小さな星が瞬く、暖かい春の夜。
わずかな光が差し込む森の中で、ふたりは初めてキスをしたのだった。
それからまもなくして、木々の向こうからクライドの声が聞こえてきた。
「レクス様、アイリーン様、ご無事ですか‼」
「ああ。問題ない」
クライドの隣にはアイリーンたちの馬車を操作していた馭者の姿もあり、ふたりとも無事だったのねとアイリーンは安堵する。
「本当に申し訳ございません。どうしてこんなことになったのか……」
「直前の走行音に少し違和感があった。もしかすると人為的なものかもしれない。悪いが、破損した馬車の部品を出来るだけ集めてくれ。……少し、確認したいことがある」
「承知いたしました」
レクスがクライドに命じるのを横目に見つつ、アイリーンはそろーっと森の奥へと向かう。先ほどレクスが熊と格闘していたあたりに到着すると、すばやくその場にしゃがみ込み、硬質なそれを拾い上げた。
(良かった……‼ レクス様のアクスタ、ありましたわー‼)
割れていたらどうしようと心配していたが、綺麗なガラス面には傷一つ付いていない。アイリーンがついた土を嬉しそうに払っていると、クライドへの指示を終えたレクスがこちらを向き、不思議そうに首をかしげる。
「アイリーン、何を持っているんだ?」
「えっ⁉ な……なんでもありませんわ‼」
もう記憶も戻ったのだし、正直に話しても良いのでは――という考えがアイリーンの脳裏をかすめるが、本物と瓜二つに描かれたアクスタのレクスを見て、アイリーンは脳内であらためて首を左右に振った。
(いえ……たとえ両想いだったとしても、さすがに気持ち悪がられそうな気がします……)
この抑えの利かないレクス愛は今後どうにかするとして……とアイリーンはポケットにアクスタを戻す。その瞬間、真っ白な雪原の景色が頭をよぎった。横たわる一匹の狼。
(白い……狼?)
それは一気に取り戻した記憶の中にあった、ほんの刹那。
傷ついた狼が雪の上に倒れていて、それで――。
(……?)
幼少期のものとはおそらく違う。いったいいつの記憶だろうとアイリーンが首をかしげていると、近づいてきたレクスがアイリーンに向かって手を差し出した。
「アイリーン。……帰ろう」
「……はい!」
その言葉を聞いた途端、十三歳だった自分が微笑んだのが分かる。
記憶が戻っても私は私のまま、まだこの人を好きでいられた――あの日四阿で取れなかった彼の手を、アイリーンは数年後の今日ようやく握り返したのだった。




