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悪女って誰のことですか? ~記憶喪失になったので真面目にお仕事していたら、何故か旦那様から溺愛されました~  作者: シロヒ


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第五章 4



「――立ち去れ」


 その瞬間、レクスのまとう空気が明らかに変わった。

 少しでも身動きすれば命を奪われてしまいそうな緊張感。殺気。息をすることすらためらわれ、アイリーンはただ静かに熊の動向に注目する。

 熊もまた同じ恐怖を感じていたのか、レクスが冷たく睨みつけたその視線を受け、一歩、また一歩とぎこちなく後ろに下がっていく。そしてある程度の距離を取ったところで、背中を向けて一目散に逃げだした。

 ガサ、ガササッという茂みの揺れる音が離れていったことを確認し、アイリーンはようやく警戒を解く。


(良かっ……た……)


 ホテルが満員御礼だった日の三倍くらいの疲労感を覚え、アイリーンはゆっくり立ち上がろうとする。だがそこでようやく自分が腰を抜かしていたことに気づいた。


「アイリーン?」

「あ、あの、すみません……立てなくなってしまいました……」


 ああ情けなさすぎる、とアイリーンは顔を真っ赤にする。一方レクスは呆れるどころか「ふっ」と小さく笑うと、こちらに近寄りそっと手を差し出した。


「助かった。ありがとう」

「い、いえ、こちらこそ――」


 恥ずかしさを我慢して、アイリーンはレクスの手をおずおずと握る。するとその瞬間、色鮮やかな景色と質量、匂いと温度が大量に意識の奥へと流れ込んだ。


(……っ⁉)


 大好きだった子ども部屋。お気に入りのぬいぐるみ。階段。おじい様の秘密基地。両親の怒鳴り声。真っ黒になるまで書き込んだノート。経営学の本。植物図鑑。若い頃のランバート。笑っているエレナ。星の輝く夜。傷ついた銀色の狼。差し伸べられた小さな手――。


「――アイリーン?」

「……思い、出しましたわ」


 どうして忘れていたのだろう。

 こんな、こんなに大切なことを。


「私、思い出しました。……全部」

「…………」


 レクスが大きく目を見張ったまま、ただ黙ってこちらを見つめている。

 アイリーンはようやく戻ってきた自身の『過去』に、知らずぶるりと震えるのだった。





 頭上で月が輝く、どこかの森の中。

 アイリーンは倒木の中ほどに腰かけると、レクスに向かって語り始めた。


「私は昔、ランバート・オブライエンの婚約者でした」

「…………」


 十歳の誕生日を迎えたその日、父から婚約者が決まったと告げられた。

 相手はオブライエン伯爵家の跡取りで、まるで絵本に出てくる王子様のような少年だった。アイリーンは「自分にこんな素晴らしい婚約者が」と誇らしく思い、それと同時に『領主の妻』としてふさわしくなろうとさまざまな勉強を始めた。


「帝王学、経営学、地政学、数学、神学――祖父が残した蔵書を片っ端からひもといて、朝から晩まで休むことなく勉強しました。あの人を助けられる、妻になりたかったから……」


 記憶を失ったあとも、アイリーンが『領主の妻』であることに強くこだわっていたのは、おそらくこの頃の意識が根底に残っていたからだろう。

 そうして幼かったアイリーンは将来『伯爵家の嫁』となるべく、一生懸命研鑽を続けていた。

 そんななか、妹のエレナに変化が起き始めた。


「ある日エレナが、私の大切にしていた犬のぬいぐるみを「それ、ちょうだい」とねだってきたんです。今までそんなこと、言われたことなかったのに……」


 誕生日に両親からもらった大切なものだったので、本当はすごく嫌だった。しかし姉として小さな妹に優しくしなければならないという気持ちもあり、「貸すだけなら」とアイリーンはしぶしぶ了承した。

 だが――。


「数日後、ぬいぐるみは裏庭のゴミ溜めに捨てられていました。私はすぐに洗おうとしましたが、両親に見つかってしまい……『どうしてそんなことをするんだ?』と悲しい顔をされました」

 (エレナ)がしたのだと必死に訴えたが、当のエレナが泣きながら話し合いを拒否するので、結局何も確かめられず――そしてこの時を境に、エレナのアイリーンに対する悪行が日に日にひどくなっていった。


「自分で髪を切っておきながら私にやられたと父親に泣きついたり、自分の物を壊して人のせいにしたり……。いちばんひどかったのは自ら階段で足を踏み外すふりをして『お姉様が突き落とそうとした‼』と言い出した時でしょうか」


 近寄らないようにしていても、勝手に向こうから歩み寄ってきてぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる。いよいよ警戒したアイリーンが物を貸さなくなると、ついには勝手に部屋に入って盗むようになってしまった。

 化粧品、ドレス、アクセサリー、靴……気づいたアイリーンがどれだけ非難しても「そんなことしてない」「どうしてわたしを疑うの」と言って譲らない。両親は泣きじゃくるエレナを庇うばかりで、何一つこちらの言い分を聞いてくれなかった。

 そもそも両親は聡くて子どもらしくないアイリーンに苦手意識があり、反対に可愛くて素直なエレナを可愛がっていた。そうした背景もエレナを味方する一助だったのだろう。


「メイドたちにも助けを求めましたが、現場にいたのはいつもエレナ付きの子ばかりで、当然のようにみな妹の味方をしました。……今思えば、私を悪者に仕立て上げるよう脅されていたのでしょうね」


 自分の大切なものをなにもかも奪われ、汚され、捨てられる。

 いつしかアイリーンは物に対する執着がなくなり、エレナに狙われない地味で野暮ったいドレスばかり着るようになった。髪も後ろで一つに結ぶだけにとどめ、化粧品も「何か混ぜ込まれているかもしれない」と思うと怖くなり、眼鏡で顔を隠すようになった。

 そんな姉とは対照的に、エレナは日に日に美しく成長した。

 暗くて愛想のないアイリーンに比べ、まるでお人形さんのようだと邸に訪れる客人から毎日のように言われていたことをよく覚えている。


「ようするに私は……エレナにいじめられていたのです。でも誰に言っても信じてもらえず、孤独な日々を過ごしていました。そんな私にとって、オブライエン家との婚約だけが唯一の心の支えでした」


 あと少し。あと少し頑張ればこの家から出られる。エレナとも離れられるとアイリーンは今まで以上に勉強にのめり込んだ。

 そんな時、オブライエン家へ不満の声が集まっているという噂を耳にしたのだ。


「当時オブライエン伯爵は爵位継承の準備として、一部の領地管理を息子であるランバートに一任していました。しかし遊びたい盛りの彼は現地の視察すらせず、何かあればすべて領地の家令に任せきりだったのです」


 見かねたアイリーンはそれとなく彼に注意をした。でもそれが彼の不興を買ってしまい、婚約者だというのにまったく連絡をよこさなくなった。

 そうしてアイリーンが十三歳になるパーティーの日――会場であった自宅の庭で、突然ランバートから婚約破棄を言い渡されたのだ。


「理由は、私がエレナを陰でいじめているからと言われました。『そんな性根の腐った女は我がオブライエン家に必要ない!』と言い放った彼の顔が本当に恐ろしくて……。ふふ、出来ることならこの記憶だけは取り戻したくなかったですね」

「……続きを」


 アイリーンより苦しそうに唇を引き結んでいるレクスを見て、なんだか救われたような気持ちになる。アイリーンは小さく息を吐き出すとその先を語った。


「パーティーにはたくさんのお客様が来ていました。注目に耐えられなくなった私は急いで人の少ない裏庭へと逃げ込んで――そこで、あなたと出会ったんですね?」


 ゆっくり視線を向けると、わずかに緊張しているレクスの瞳とぶつかった。ああ懐かしい。あの時もこんな顔をしていた気がする。


「あなたは四阿で隠れて泣いていた私に、庭に咲いていた赤い薔薇を差し出してくれました。私びっくりして……つい『それ、勝手に取っちゃダメなのよ』って言っちゃいました。今考えても情緒がないですね」

「……本当に、思い出したみたいだな」

「はい。あなたはすっごく慌てて、真剣な顔で『ごめん、謝ってくる』って言って走っていこうとするから、私も思わず『大丈夫だよ』って笑って」


 そこでふと、以前レクスから聞いた話を思い出した。


「レクス様……前に聞いた時、私とは一度しか話したことがないって言ってましたよね?」

「それは……」


 眉間に皺を寄せ、レクスが複雑そうに口ごもる。だがこれ以上隠しても無駄だと思ったのが、恥ずかしそうに指先で自身の頬を掻いた。


「……言いたくなかったんだ。情けなくて」

「情けない?」

「もしかして、そこは覚えていないのか?」


 逆に尋ねられ、アイリーンはようやく戻ってきた記憶の糸を手繰り寄せる。そこですぐに「あっ」と大きく目を見開いた。


「えっと……プロポーズみたいなこと、言いました……?」


 こくり、と観念したレクスがおもむろに頷く。


「……俺はあの日、あなたが婚約破棄された現場を見ていた。その場を立ち去ったあなたのことがどうしても気になって……父や兄に黙ってひとりで追いかけたんだ。そこで四阿にいるあなたを見つけて――」

「『俺が必ずあなたを迎えに来る。だから泣くな』ですよね?」

「~~ッ‼」


 耳まで真っ赤になっているレクスが可愛くて、アイリーンはつい「ふふっ」と笑ってしまう。

 ただ、この話にはまだ続きがあって――。


「それなのに私は、泣いている自分を見られたこととか、憐れまれていることが恥ずかしくて、つい『結構です』と断ってしまった……」


 まさかその場で振られるとは思っていなかったのだろう。当時十六歳だったレクスは絶望した顔で差し出していた手をおずおずと引っ込めた。きっとその時のショックを覚えていて、だからアイリーンが記憶を失くしたあとも本当のことを打ち明けられなかった。


「叶うなら、そこだけ忘れたままでいて欲しかった……」

「す、すみません! ……でも私、あの時本当に嬉しかったんです。だからランバートとの婚約が白紙になったあとも、なんとか生きていくことが出来た――」


 ほどなくして、エレナとランバートが婚約関係になった時も心はずっと凪いでいた。

 彼女からの巧妙な嫌がらせも続いていたが、いつしかアイリーンの心の中に青く燃える炎のような冷たい性格が生まれていた。


「両親も妹もメイドも誰も信じられない。そもそも感情なんてあるから悲しい思いをする。ならば何も感じなくなればいい。ただ冷徹に、冷静に。状況を俯瞰して何ごとにも揺るがず、つまらないことに心を砕かないようにしようと――」


 アイリーンの中に存在していた『悪女』の正体。

 それは周囲から見放された自分を守るために作り出した、非情で冷酷な自分だった。


「そうやって私はあの邸で必死に生き抜きました。唯一、メイド長のレベッカだけはエレナの味方をしないでいてくれましたが、彼女も立場があるので表立って私を庇うことは出来なかったと思います。そうして十八になった時、パーティーに呼ばれて……」


 あの頃のエレナは、アイリーンを自身の引き立て役として連れ回すことにはまっていた。

 自分は華やかで可愛いドレスを身にまとい、姉には黒や濃紺といった地味で暗い色味のドレスを着せる。若い頃の自分であればまだ拒否も出来たのだろうが、その頃のアイリーンはすでにエレナに抵抗する気力を失っていた。


「会場では、何度もエレナのシャペロン(保護者)に間違われました。逆に少しでも知っている人からはオブライエン家との婚約を破談にされた悪女だと白い目で見られ……そんな私に、レクス様は話かけてくださった」


 たくさんの男性に囲まれて楽しそうなエレナとは対照的に、アイリーンはひとり建物の陰に隠れるようにして時が過ぎるのを待っていた。そこに現れたのが、かのラゼオラ戦争で爵位と所領を得て男爵となったレクスだった。


 


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