第五章 3
「良かったのですか?」
「……貴族の結婚について簡単に考えすぎなのよ、あの子は。相手については家柄などを考慮して慎重に決められる。愛だの恋だので簡単に婚約破棄なんてしたら、それこそ周囲からとんでもない色眼鏡で見られてしまうのに――」
そう口にした途端、アイリーンの頭がずきりと痛んだ。
(婚約……破棄……)
婚約を破棄すると衆人環視の中でいきなり言われた。両親は焦燥して、何度も考え直してくれるよう頼み込んだ。私も頭を下げるよう強要された。でもあの男は頑として譲らず、代わりにエレナを婚約者にするよう命じて――。
(あの……男……)
アイリーンが顔を上げた途端、離れた位置にいたその男と目が合った。
金髪碧眼。女性が好む甘い顔立ち。だがその目に輝きはなく、こちらに気づくとゆっくりと近づいてくる。今日の主役だというのにどうしてこんなところに。
「久しぶりだな、アイリーン」
「ランバート……様……」
「レクスはどうした。まさか一人で来たわけじゃないだろう?」
記憶を失ってから一度しか会っていないはずなのに、なぜか嫌悪感が先行する。
無視して立ち去ろうとするもランバートがいきなり手を伸ばし、アイリーンの手首を掴んだ。慌ててクライドが制止するも、苛立った様子で怒鳴りつける。
「下がっていろクライド! オレはこの女に話があるんだ」
「……私にはありません。手を離してください」
「記憶がなくなっても、その生意気な目は変わらないな。――気に入らない」
吐き捨てるようにそう言うと、ランバートはアイリーンをどこかに引っ張っていこうとする。だがそんな彼の腕を力強い手が掴んだ。
「ランバート、俺の妻に何をしている」
「――っ、レクス、貴様……」
恐ろしく冷たい顔をしたレクスから捻り上げられ、ランバートはようやくアイリーンから手を離す。アイリーンがレクスの後ろに隠れたのを見て、チッと短く舌打ちしてその場を離れた。やがて優しい顔に戻ったレクスがアイリーンの方を振り返る。
「すまない。大丈夫だったか?」
「は、はい。ありがとうございます」
「クライド、お前を付けているのはこうした事態から彼女を守るためだ。相手が貴族でも遠慮しなくていい、責任は俺が取るから」
「も、申し訳ありません……」
「……とはいえ、俺も長らく離れていてすまなかった」
レクスが申し訳なさそうに視線をそらし、それだけでアイリーンは心の中にたまっていたモヤモヤが一気に吹き飛んでしまう。いつの間にか太陽が西の山際に迫っており、レクスはそっとアイリーンの手を取った。
「必要な話は終わった。そろそろ帰るか」
「はい!」
アイリーンたちはヴァンフリートの紋章が入った馬車に乗り、その馭者席にクライド、残りの使用人たちはもう一台の別の馬車に乗り込む。レクスの傍には儀礼用の剣が置かれており、アイリーンはそれをぼんやりと眺めながら心地よい馬車の振動に身を委ねた。
(なんだか……怒涛の一日だったわ……)
エレナからの提案には心底驚いたが、ちゃんと自分で言い返すことが出来た――とアイリーンはポケットに入っているレクスのアクスタを撫でる。
するとその直後、ガタンと大きな音がし、馬車が上下に勢いよく跳ねた。
「きゃあっ⁉」
「アイリーン‼」
向かいの席にいたレクスがとっさに抱き止め、続く振動からアイリーンを守る。
だがバキッ、ガリガリガリッと何かが割れる音、地面をこするような音がしたかと思うと、再び馬車が激しく揺れ動いた。ついにはふたりの体が座席から浮き、アイリーンたちを乗せた客車はバキバキと音を立てて森の中へと転落する。
(――っ‼)
レクスから抱きしめられていても分かる、外部からの強い衝撃。
やがて客車の壁が崩壊し、ふたりは勢いよく暗い木々の中に放り出された。強烈な振動にアイリーンが目を回していると、頭上からレクスの低い声が聞こえてくる。
「アイリーン、大丈夫か」
「は、はい。大丈夫で――」
だが次の瞬間、アイリーンは全身を硬直させた。なぜなら今の体勢が――転落のどさくさのせいで、レクスの下に組み敷かれる形になっていたからだ。流れ落ちた彼の前髪が眉間ぎりぎりまで迫っており、アイリーンの理性は完全に崩壊する。
(こここ、これはどういうことですの? 馬車が壊れた? 森に落ちた? そして私はどうしてレクス様とこんな状態で寝ているの? 近すぎませんこと? もしかしてこれは夢? 私また事故に遭ってそれで――)
レクスもまた混乱していたのだろう。自身の下にいるアイリーンの顔をしばらく凝視していたが、一瞬で真っ赤になると目にも止まらぬ速さで慌てて起き上がった。
「す、すまない! わざとではないんだ!」
「わ、分かっておりますわ!」
アイリーンもまたすばやく上体を起こしたものの、のしかかっていた彼の体の硬さと体温がまだ残っており、その場に不自然な沈黙が落ちる。
やがて状況を把握したのか、まだ少し顔を赤くしたレクスが口を開いた。
「どうやら森の奥深くに落ちてしまったみたいだな」
「ど、どうしましょう」
「同伴車がいたから、すぐに気づいて助けに来るだろう。クライドたちも落ちているなら早く合流して、どこか安全な場所で体を――」
その直後、木々の奥からバキバキッと枝の踏み割るような音がした。もしかしてもう助けが――と嬉しそうに顔を上げたアイリーンだったが、その正体を見てすぐさま蒼白になる。
「レ、レクス様……‼」
「――っ!」
そこにいたのは人ではなく、巨大な黒い熊だった。
おそらく冬眠から目覚めたばかりなのだろう。邸でいちばん大きなワイン樽ほどの大きさがあり、こちらに対して明らかな敵意を向けている。
「アイリーン、ゆっくりとここから離れるんだ」
「で、ですがレクス様は」
「いいから早く!」
その剣幕に圧倒され、アイリーンはとっさに後ろを向く。すると熊がぴくりと反応し、こちらに向かって勢いよく駆け出してきた。
「くそっ‼」
レクスは近くにあった木の枝を拾い上げると、熊に向かって振りかざす。だが熊もまた気が立っているのか、何度追い払われても果敢にこちらに立ち向かってきた。アイリーンは距離を取りつつ、きょろきょろと周囲を見回す。
(どこかに……武器になるようなものは……)
アイリーンが必死に目を凝らすと、茂みの中に儀礼用の剣が見つかった。すぐさま取りに行こうとしたアイリーンだったが、背後からレクスの「ぐっ!」というくぐもった声が聞こえ、慌てて振り返る。
「レクス様‼」
見れば熊が大きな牙を剥き出しにし、レクスの左腕に噛みつこうとしているところだった。それを見たアイリーンの全身に底知れぬ恐怖が這いあがる。
(どうにかして、一刻も早く熊を引き剥がさないと――)
しかし今手元にこれといった武器はない。レクスですら苦戦しているのに、自分が腕力で勝てるとも思えない。いったいどうすれば――とアイリーンの頭は完全に真っ白になる。
刹那、自分の中の『悪女』が力強く叫んだ。
『――戦いなさい、アイリーン!』
「――っ‼」
そこから先は冷静さなどなかった。アイリーンは無我夢中でポケットの中からレクスのアクスタを取り出すと、胸の前に抱えて小さく祈る。
「――神よ。我が女神アクロディアよ。我に力を貸し与えたまえ」
冷たくて硬いアクスタを両手でぎゅっと握りしめる。
そしてそのまま熊に向かって、力いっぱい投擲した。
「――アクスタアタック‼」
木々の合間をすり抜けたわずかな月明りを受けて、アクスタがキラリと輝く。
その光はレクスに襲いかかる熊のもとへとまっすぐに飛来し、その毛むくじゃらな眉間にバチン、と音を立ててぶつかった。熊はギャアオンと鳴きながら上体をのけぞらせ、そのままレクスの左腕を開放する。
(今だわ!)
アイリーンは落ちている剣のもとへと駆け寄ると、「レクス様!」と叫んでそれを放り投げた。地面に落とすことなくレクスがそれを掴み取り、鞘に入った状態のまま熊と対峙する。




