第五章 2
目的であったエレナへの挨拶を終え、アイリーンはほっと安堵の息を漏らした。
(良かった……とりあえず無事に終わったようね)
あいにく贈り物はあまり気に入って貰えなかったようだが、わざわざデュナン伯爵に手配してもらった希少なものなので、もうあまり深くは考えないことにする。緊張感から解放されたアイリーンは、飲み物でももらおうかと近くを歩いていた給仕に声をかけた。
だが給仕が振り返った途端、「あら?」と声を上げる。
「誰かと思ったらテオ、久しぶりね」
「へいへい、お久しぶりですよー……」
そこにいたのはアイリーンの実家で、使用人研修の延長を課せられているテオだった。以前は目が隠れるほど長い前髪だったのだが、今は真ん中で分けて額を出す形にしっかりセットされている。どうやらレベッカの教育は順調のようだ。
「首尾はどう? 上手くやれているかしら」
「まあまあですね。みんな意外とすんなり受け入れてくれました。あとちょっと予定外のことがありまして――」
テオが二、三報告したのを聞き、アイリーンは静かに唇を引き結んだ。
「……ありがとう。引き続き、頑張ってくれるかしら」
「はあ、まあここまで来たらもういいですけど……」
めんどくさそうにテオがぼやき、再び招待客らのいる雑踏の中へと消えていく。するとふたりの会話を脇で見ていたレクスがアイリーンに向かって上体を屈めた。
「大丈夫か? 何か問題でも起きたか」
「ありがとうございます。実は――」
するとそこに「ヴァンフリート卿、アイリーン殿」とデュナン商会の次期後継者であるルーカスがグラスを手に近づいてきた。今日は堅苦しいスーツではなく、首元にジャボをあしらった貴族の装いである。
「お久しぶりです。その節は大変お世話になりました」
「ルーカス様。あなたも招待されていたんですのね」
「父の代理ですよ。こうしたパーティーは商売の場でもありますからね」
相変わらず抜け目ない笑顔を浮かべながら、アイリーンに向かってにっこりと会釈する。だがすぐに視線をレクスに向けると、今後の領地についての話をし始めた。
「実はウィットロック侯爵様の件で、確認したいことがあるのですが――」
「ああ、それなら……」
ちらりとレクスがこちらを見たのに気づき、アイリーンはその場で一歩下がった。
「レクス様、私は少し向こうで休んでまいりますわ。どうかルーカス様とゆっくりお話してくださいませ」
「しかし――」
「私でしたらサリアとクライドがおりますから。ね?」
近くにいた使用人ふたりに目をやったあと、レクスはやや困ったように応じた。
「……分かった。ただし何かあったらすぐに呼んでくれ」
「はい。ありがとうございます」
あらためてルーカスにお辞儀をし、アイリーンはサリア、クライドとともに移動を開始する。だがその途中、アイリーンはサリアに向かって小さく指示を出した。
「サリア、あとをお願い」
「はい!」
やや緊張した面持ちで、サリアだけが再びパーティー会場へと戻っていく。それを見てクライドが不思議そうに首をかしげた。
「アイリーン様、サリアさんはどちらに行かれるのですか?」
「ちょっとね。秘密のお願いごとをしているの」
「はあ……」
やがてふたりは邸の裏手にある庭へと到着した。クライドには適当に待機するよう伝え、アイリーンは近くにあった四阿へと入る。年季を感じる白い石の柱に触れると、そのままそっと目を閉じた。
(懐かしいわ……)
小さい頃、この裏庭でよくエレナとかくれんぼをした。
夏の暑い日やパーティーで人がいっぱいいて嫌だった時もだいたいここに逃げ込んでいた。誰も訪れることのないこの場所は、幼いアイリーンにとって心安らぐ聖地だった。
(あ、そうそう。これを出さないと)
アイリーンは何かを思い出し、スカートのポケットに手を伸ばす。こっそり持ってきていたレクスのアクスタを取り出すと、クライドに見つからないようそーっと四阿の一角に飾ってうっとりと眺めた。
「はあ……素敵……」
以前王都に持っていって以来、お出かけの時は持ち歩くのがすっかり常態化してしまった。アイリーンはしゃがみ込んでアクスタを優しく撫でたあと、四阿の中にあるベンチに座って休憩する。火照った頬に春の風が当たって気持ちよかった。
(もう二度と、来られないと思ってた……)
実家の敷地に入れると知った時、最後に訪れておきたいのがここだった。両親からは絶縁され、妹はもうすぐオブライエン家へ嫁ぐ。この実家に帰るのもこれが最後だろう――とアイリーンは少し寂しくなりながら裏庭に目をやる。
そこでふと既視感を覚え、その場で強く目を瞑った。
(……? 私……前にもこんなことが……?)
こめかみのあたりがずきずきと痛み、アイリーンは思わず指で押さえる。前。前とはいつのことだ。
(なにかとても悲しいことがあって、それで私はここに逃げ込んで――)
誰かが手を差し伸べてくれた。小さな、でもたくさん傷のついた力強い手。アイリーンは泣きながら、その手を――。
「――こんなところにいたのね、お姉様」
「‼」
その覚えのある声を聞き、アイリーンは一瞬で現実へと引き戻された。見ればパーティーの主役であるはずのエレナがこちらに向かって歩いており、忌々しげにアイリーンを睨みつける。
「なんだか今日はやたらと派手なドレスを着てるじゃない。眼鏡だってかけてないし」
「……レクス様が用意してくださったの」
「ふうん……あと噂で聞いたんだけど、最近随分調子がいいってホントかしら?」
「調子って……もしかしてホテルのことかしら。それなら――」
こちらを探ってくるようなエレナの視線に違和感を覚えつつも、アイリーンはヴァンフリート領で行ったあれそれを話そうとする。だがエレナは苛立った様子で「もういいから」と短く吐き捨てた。
「そういう貧乏くさい話じゃなくて、どれだけ贅沢出来るのかって聞いてるの」
「贅沢って……たしかに前よりは少し良くなったけど、正直そういう感じではないわ」
「じゃあそのドレスとさっきの化粧品はどういうことよ!」
はあ、はあと肩で息をするエレナを見て、アイリーンは静かに口を閉ざす。何も言わない姉に痺れを切らしたのか、エレナは四阿へと足を踏み入れた。そのままアイリーンの前に立つと、にこぉっと天使のような笑みを見せる。
「ねえお姉様、お姉様は昔わたしをいじめていた……そのことは伝えたわよね」
「……ええ。それについては本当に申し訳なかったと思っているわ」
「じゃあ、お詫びに婚約者を交換してくださらない?」
まさかの提案に、アイリーンの思考が一瞬停止する。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味よ。幸いわたしもお姉様もまだ式を挙げていないんだから、姉妹が代わっても別に問題ないでしょ」
「本気で言っているの? 結婚はそんな単純ものじゃ――」
「そんなものでしょ、結婚なんて。女は嫁に行ってその家の跡継ぎを産むだけ。それなら誰が嫁いだって同じじゃない。幸いレクス様? はわたし好みの顔だし」
「エレナ、あなた……」
さすがに見過ごせなくなったのか、近くに来たクライドがそっとアイリーンに目配せしてくる。だがもはや猫を被る必要もなくなったとばかりに、エレナは小さく首をかしげて片方の口角を吊り上げた。
「ねえお願い。そうしたらわたしをいじめてたことをチャラにしてあげる。お父様たちにもとりなして、この家に戻ってくることを許可してあげるわ」
「…………」
アイリーンの心の奥に、ふつふつと燃える青い炎が宿る。
普段は眠らせている『悪女』が薄目を開け、敵はどこにいるのとこちらを睨みつけた。
ええ、そうね――。
「――言いたいことはそれだけ?」
「……?」
姉の雰囲気が突然変わり、エレナがわずかにたじろぐ。しかしアイリーンはつとめて冷静に話を続けた。
「あなたをいじめていたことは本当に悪いと思っている。でもこの結婚は――レクス様は絶対に譲らないわ」
心の中の『悪女』が、ちゃんと言えるじゃないと微笑む。
そうだ。絶対にこんな女に渡したくない。
「もう少し自分を大切にしなさい、エレナ。ランバート様だってこんな話を聞いたら悲しむでしょう? それにあなたもじき領主の妻となるのだから、もう少し自分の領民となる人たちのことを考えて――」
「あーあーあー! うるさいうるさいうるさい! そう言うの、もう聞きたくないの‼」
幼子のように頭を振り、エレナが会話を拒絶する。
それを見たアイリーンはこれ以上何を言っても聞く耳を持たないだろうと、クライド連れて四阿から離れようとした。するとその背中に向かってエレナが恨み言のようにつぶやく。
「どうしていつも……お姉様ばかり上手くいくのよ……」
「…………」
「エレナだって、幸せになりたいのに……」
四阿が完全に見えなくなり、アイリーンたちは再びパーティーの雑踏の中に紛れ込む。一部始終を見ていたクライドが不安そうに裏庭の方を振り返った。




