第三章 3
外套の肩に小さな雪を乗せて、かつての老紳士がホテル・ヴァンフリートを訪れた。
「お久しぶり。どうですかね、頼んでいた品物は」
「ご用意出来ておりますわ。――こちらでございます」
アイリーンはカウンター越しに微笑むと、赤い布に包まれたそれを老紳士の前に差し出した。四方を丁寧に開けていくと、中から透明なガラスに描かれた女神アクロディアが現れる。
「これは……」
「出来るだけ丈夫に、というご依頼でしたのでガラスを素材に制作いたしました。二枚のガラスを張り合わせて厚みを出しておりますので、鞄やポケットに入れても絵の具が落ちることはないですし、移動で割れることもほぼないかと」
さらに、とアイリーンがどこか得意げに付け足した。
「こちらの台座にセットしますと、このように――」
「おおお……!」
同じくガラスで作った小さな台座に差し込み、ガラスの護符を垂直に立てる。すると平面に描かれていた女神アクロディアが起き上がり、さもその場に立っているかのように見えた。絵と現実が混在するその不思議な光景に、老紳士はただただ目をしばたたかせる。
「色々なところに飾っていただくことが出来ます。これでしたら持ち歩かない間もお部屋で楽しんでいただけるかと」
「いやはやこれは素晴らしい……中の絵もだが、ガラスの透明度も……。いやあ、想像以上の出来栄えだ」
「ご満足いただけて良かったですわ。それではこちら、残りをお返しいたします」
「残り?」
じゃらり、とカウンターの上に山と積まれた銀貨を見て、老紳士はついに「わっはっは」と笑い出した。
「なんだ、全部取っておいても良かったのに」
「もちろん材料費、技師と絵師への依頼料はいただいております。そのうえでのおつりです」
「黙っていれば分からんものを……。まったく、商売が上手いのか下手なのか」
老紳士は何度も嬉しそうに「うんうん」とうなずいたあと、ガラスに描かれた女神アクロディアを大切そうに手に取った。
「依頼の品、確かに。それでは今夜も一泊、お願いしようかの」
「はい。ごゆるりとおくつろぎください」
老紳士が上機嫌で客室に向かったあと、脇の控室にいたエマとバルトロがカウンターにいるアイリーンのもとにこそこそっと近づいた。
「おくさま、どうだった⁉」
「とても気に入っていただけたわ。ふたりとも、本当にありがとう」
「やったー!」
「お役に立てて良かったです」
はしゃぐふたりを前に、アイリーンもまた「ほっ」と胸をなでおろす。
(間に合ってよかった……)
まさか完成したのが今朝ギリギリだとはあの老紳士も思うまい。
ガラスに絵を描くという発想は良かったのだが、綺麗な発色がとにかく難しく、ガラスの専門家であるバルトロが夜を徹して調整してくれなければ絶対に間に合わなかっただろう。
また絵自体も、反転したものを描かなければ表から見た時に逆になってしまうので、エマがとにかく混乱していた。最終的にはとても薄い紙に下書きをし、それをガラスに張りつけて後ろから光で照らすというやり方に落ち着いたようだ。
エマとバルトロがお互いの健闘をたたえ合うかのように両手でハイタッチする。アイリーンはそれを微笑ましく見ていたが、やがてエマがくるっと振り返り、小さなガラス板を差し出した。
「おくさま、これどうぞ」
「こ、これって……⁉」
おそるおそる受け取ったあと、アイリーンは思わず真っ赤になる。それは先ほどと同じ二層のガラス板に描かれたレクス・ヴァンフリートの絵であった。
艶やかな銀の髪に端整な顔立ち、勇壮になびくマントもリアルに描かれており、まるで小さなレクスが手の中に収まっているかのようだ。そのあまりに見事な完成度に、アイリーンは仕事中だというのに完全にパニックになってしまう。
「エッ、エマッ⁉ これはいったいどうやって」
「もちろんふたりで作ったのよ。バルトロが、絶対喜ぶだろうからって」
「す、すみません……ちょうど素材が余ってて」
「はわぁ……」
つい感動が口から漏れだしてしまったが、幸いふたりには気づかれなかったようだ。
嬉しそうにエマとバルトロが立ち去ったのを見届けてから、アイリーンはこの素晴らしいレクスをもっとよく堪能しようと近くの天窓に向けてそれを掲げる。
だがその瞬間、背後からレクスの「アイリーン?」という声が聞こえてきた。
「すまない。少し確認したいことが――どうした?」
「なっ、なんでもありませんわ‼」
高い位置で両手を合わせたまま静止する――という実に珍妙な格好のまま、アイリーンは「おほほほほ」とわざとらしく笑う。レクスはやや不思議そうにそれを眺めたものの、いくつか仕入れに関する話をしたところですぐに本邸へと戻っていった。
彼が離れていったことを確認し、アイリーンは合わせた両手をそろそろと開く。
(あ、危なかったですわ……。いくら婚約者とはいえ、さすがにここまで精巧な似姿を愛でているなんて知られたら恥ずかしいですし……)
本人がいなくなったのち、あらためてガラスのレクスを窓に向けてかざす。
暖かい光に包まれたレクスはとても優しく微笑んでいて――アイリーンはエマとバルトロに心の中でお礼を言いつつ、嬉しそうに目を細めるのだった。
その日の夜。アイリーンは夜着姿で階段下にある地下倉庫に来ていた。レクスから貰った眼鏡をかけ、棚の前で何やらごそごそと動かしている。
「これを……こうしてっと……」
昼間にエマとバルトロからプレゼントされたガラスのレクス像を棚に置き、その周囲を庭に咲いていた小さな花で飾りつけている。あれこれとしばらく角度をいじっていたが、ようやく納得のいく配置になったのか、アイリーンは満足げにうなずいた。
「これでよし! ああ……花に囲まれたレクス様、可愛すぎますわ……!」
本人に言ったら絶対眉をひそめられるだろうが、このガラスのレクス像ならどれだけ愛でても怒られることはない。アイリーンはしばしうっとりとそれらを見つめたあと、こほんと咳払いをしてテーブルの上の資料を手に取った。
「さて……これからどうしようかしら」
謎のメモを発見して以来、なんとなく近寄りづらかった地下倉庫だが、ホテルを開業してからは人目を気にせずゆっくり休める場所として活用するようになった。
最初のうちはちょっと暗くて陰気かもと思っていたが、昔の自分がきちんと掃除してくれていたこともあり、クッションやらの私物を持つ込んだ今は驚くほど快適な空間となっている。記憶がなくなってもやはり根底は同じ人間である――ということなのだろうか。
(ホテルの売り上げはやっぱりこの辺が限界ね。だとすると物販……絵の具も残っているし、せっかくだからこのガラス像をもっと売り出したいのだけれど……)
これからもっと寒くなれば、ホテルの稼働率はどんどん下がってくるだろう。その売上補填としてこのガラス像を物販の主力商品にしたい。
だがこのガラス像はエマの天才的な腕前なくしては出来上がらない芸術品であり、幼い子どもにそこまで無理はさせたくないのも事実だ。
(そうなるとたくさん作るより、数を絞って希少価値を出した方がブランド力も出て良い気がするわ。ただいくつか販売しているうちに、きっと大量生産の模造品が現れるはず……。のちのちはその対処も考えないと――)
椅子に座ったままそっと目を瞑る。暗くて冷たい、底の見えない思考の海へアイリーンはひとり潜っていく。
(まず大切なのがネーミング……商品として扱うなら、分かりやすい名前を付ける必要があるわ……。ガラスの護符、手に乗るアクロディア神……小さなレクス様、じゃない女神アクロディア……似姿、現身、影……分身……)
すると一つの言葉が、すっとアイリーンの目の前にとどまった。まるでどこか別の世界ではこれが『そう』呼ばれているのだと訴えかけるかのように。
「アクロディア……スタンディート……」
女神の分身。そうだ。この世に下り立った次元の違う存在。
でもダメだ。名前が長すぎる。もっと分かりやすくするには頭文字を取って――。
「アク……スタ……?」
その瞬間、薄暗い思考の海に一条の光が差し込む。
こうしてこの世界にアクロディア・スタンディート――通称アクスタが誕生したのだった。




