第二章 10
それから数日後。
アイリーンは水差しを乗せたトレイを手に、客室の扉を小さくノックした。中に入ると長い金髪の男性がベッドで体を起こしており、窓際には従者の男性が立っている。
「ベルナール様、お加減はいかがでしょうか」
「アイリーン殿」
ベルナールと呼ばれた金髪の男性が小さく微笑む。ここに運ばれてきた当初は口も聞けないほど衰弱していたが、薬や修道士の処置もあり、ようやく起き上がれるまでに回復した。
「申し訳ありません。ながらくお世話になってしまい……」
「お互い様ですわ。それより元気になられて本当に良かったです」
「はい。これでまた聖地巡礼に戻れそうです」
ベッド脇に置かれていた古い水差しを回収し、新しいものと取り換える。そこでアイリーンはベルナールに向けて尋ねた。
「そういえば、ベルナール様はどうしてこちらを訪れたのですか?」
「どうして、とは?」
「いえ、聖地巡礼をなさるのであれば、ここではなくて海寄りの街道を使われるものだと思っておりましたので」
アイリーンの素朴な疑問を聞き、ベルナールは少し恥ずかしそうに笑った。
「本来ならばそうしたかったのですが、時間がなくて」
「時間がない?」
「はい。実は半年後、末の弟が大きな手術をするんです。ただ医師からはあまり成功率の高くないものだと聞かされていて……。だからそれまでに聖女ミリアムのお力を借りようと思ったのですが、間に合わせようと思うとこのルートしかなくて」
ベルナールはサビニス王立騎士団に所属する騎士らしく、巡礼のために一年も職務を離れることは難しい。そこで考えついたのが内陸地を経由し、最短の時間ですべての聖地を回る『強行聖地巡礼』なのだという。
「教会が推奨しているのは海沿いの大陸街道を使うルートですが、これだとどんなに早くても一年はかかってしまいます。なので――」
そういうとベルナールは近くにあったメモ紙になにやら絵を描き始めた。
「サビニスにある聖地に行った後、ヴァンフリート領を横断するとアルトニス、ルーレイテインの聖地まで最短で向かうことが出来ます。イルゼクルドは少し離れていますが、それもいったんここまで戻って南に下ると正規のルートより大幅に短縮出来ると」
「な、なるほど……」
「ただしあまり道が整備されておらず、途中に大きな宿泊施設もありません。騎馬での移動と野営が必須になるので、女性の方にはとてもおすすめ出来ないですけどね。ただサビニスではこのルートがいちばん効率的ではないかと話題になっています」
ふふっと上品に笑うベルナールはどこか中性的で、騎士だと言われなければ分からないほど綺麗な顔をしていた。普通の女性であればうっとりと見とれる場面なのだろうが、あいにくレクス一筋のアイリーンはすでに別のことを考えている。
(サビニスではすでに周知されているルートなのね……。スタートの位置がどこかにもよるけれど、時間短縮が出来るいい経路な気がするわ。道を整備すれば馬車も通れるようになるし、今後の主流になる可能性も……うーんでもそのためにはやっぱりお金が……)
ヴァンフリート領を助けるヒントが隠れている気がして、アイリーンはしばし考え込む。するとベッドにいたベルナールが「あの」と小さく口にした。
「すみません、ずっと気になっていたんですが……。わたしたち、以前どこかでお会いしたことがありませんでしたか?」
「えっ?」
突然尋ねられ、アイリーンはぽかんとした顔で彼の方を見る。
そこでようやく自身の発言が、まるで軟派男のそれのようだと気づいたのか、ベルナールが恥ずかしそうに頬を染めた。
「あ、いえ、違うんです! その、なんというか……ああ、そうだ! たしかエヴァソール家のパーティーで!」
「エヴァソール家のパーティー?」
「はい! といっても四、いや五年前でしょうか。たしかあなたはおひとりで、人気がない裏庭の四阿に向かっていました」
(五年前なら私は十三歳……記憶がない時期だわ)
いったい何を言われるのだろうか、とアイリーンはわずかに身構える。だがベルナールは顔をほころばせると、どこか懐かしむようにこちらを見つめた。
「あなたは泣いていて、心配になったわたしは勇気を出して追いかけようとしました。でもその途中、レクス殿がすごい勢いで走ってこられて」
「……お待ちください、レクス様とは?」
「もちろんレクス・ヴァンフリート――ああいえ、あの頃はまだレクス・ウィットロック殿というのでしょうか。今と同じ、目立つ銀色の髪でしたから間違いようがありません。泣いているアイリーン様のもとに向かい、おふたりで何かを話していたと思います」
(どういうこと? たしか以前、私とは話をしなかったとおっしゃっていたのに……)
何かの勘違いかもしれない、とアイリーンは詳しくベルナールに尋ねようとする。だがコンコンというノックの音が響き、扉を開けてレクスが姿を現した。
「失礼。ベルナール殿、少し話をしたいんだが」
「はい。ええと……」
ベルナールからのうかがうような視線に気づき、アイリーンは慌てて一歩下がった。
「それでは私はこれで失礼いたしますね」
ふたりに向かって静かに会釈し、アイリーンはそそくさと退室する。だが廊下に出たところであらためて扉の方を振り返った。
(レクス様……どうして?)
ただ五年も前のこととなると、記憶がおぼろげになってしまっても仕方がない。それどころかベルナールの方が別の人間と勘違いしている可能性だってある。
あまり深く考えるのはよそう――とアイリーンは回収した水差しを返すべく、厨房へと向かうのだった。




