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悪女って誰のことですか? ~記憶喪失になったので真面目にお仕事していたら、何故か旦那様から溺愛されました~  作者: シロヒ


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第二章 8


 すっかり冷え込んだ晩秋の朝。

 アイリーンはいつも以上に早く起き、窓ガラスに張り付いて外を見ていた。吐く息が都度ガラスを白く曇らせている。


「……!」


 するとアイリーンは突然踵を返し、外套を羽織って自身の部屋を飛び出した。サリアたちが追いかけてくるのも構わず階下に向かうと、玄関の扉を慌ただしく押し開ける。ひんやりとした風が肌に貼りつくのを感じながら、アイリーンは片手を力いっぱい上げた。


「レクス様!」

「――アイリーン」


 列の先頭にいた馬がわずかに速度を上げ、アイリーンのもとへと駆け寄る。乗っていたレクスがすぐに馬を下り、彼女の前に立った。


「どうしたんだ、こんな早くに」

「もちろん、レクス様のお戻りを待っていたんですわ。お仕事お疲れさまでした」


 二週間ぶりの帰宅。久しぶりに見るレクスは相変わらず素敵で、アイリーンは自分の心が少女のように浮足立っているのが分かる。嬉しさのあまり彼の手を取り、玄関先まで一緒に歩いて行こうとする。

 だがそこでふと、アイリーンは「はっ」と足を止めた。


(わ、私……私からレクス様と手を繋いだこと、ありましたっけ……?)


 出立前の見送りはバルコニーから手を振っただけ。その後の二週間で色々あり過ぎてすっかり失念していたが、あまりにいきなり距離を詰め過ぎたのでは――。


「……アイリーン?」


 とはいえ繋いでしまった手を今さら離すことも出来ず、アイリーンはだらだらと汗を流しながらその場で硬直する。すると異変を察したレクスが大きく目を見開き、手袋を外してアイリーンの額に手のひらを押しあてた。


「アイリーン、顔が赤いが大丈夫か? まさか熱でもあるんじゃ……アイリーン? おい、アイリーン‼」


 やがて目の前が真っ暗になり、どこか遠くでサリアの叫び声が聞こえる。


「誰か! アイリーン様、立ったまま気絶してます‼」

(供給……過多……)


 満面の笑みを浮かべたアイリーンはまるで満開の花畑に寝転ぶかのように、仰向けのままゆっくりと大地に向かって倒れ込むのだった。





 立ったまま気絶するという妙技を披露した日の午後。

 ようやく意識を取りもどしたアイリーンは、大量の書類を抱えてレクスの書斎の前に立っていた。緊張気味に咳払いしたかと思うと、ノックをして「アイリーンです」と入室する。中で待っていたレクスが「ああ」と穏やかに微笑んだ。


「先ほどは大変失礼いたしました」

「本当に大丈夫か? しばらく邸を離れる予定はないから、体調が良くなってからでも構わないんだが……」

「いえ、出来るだけ早めにご報告しておきたいことがありますので」

「……分かった。そこに掛けてくれ」


 白のシャツと黒のベスト、同じく黒いパンツ姿のレクスがソファの片方に座り、反対側のソファを手で示す。だがアイリーンはそこにさささっと近づくと、持っていた資料の束から大量の数字が書かれた書類を二、三枚抜き取り、レクスの前にあるテーブルにそっと置いた。

 そして再びさささっと元いた場所へと戻っていく。


「……アイリーン?」

「わ、私はここからで大丈夫ですわ!」

「しかし……」


 やや困惑気味なレクスを見て、アイリーンは心の中だけで「すみませんっ」と謝った。


(だってあんなちょっと手を伸ばせば触れ合ってしまいそうな距離で、そのうえ真っ正面でお話なんて出来るはずありませんわ~~‼ 少しはご自分の顔の良さを自覚なさって~~⁉)


 以前は向かい合わせでもちゃんと話せたのだが、二週間という間隔を置いたせいか、アイリーンの中でのレクス耐性が大幅に低下していた。ちょっとつつけば溢れ出てしまいそうな本音をぐぐっと飲み込み、アイリーンは扉前に立ったまま報告を始める。


「まずは、ドレスと化粧品の売却額について――」


 イルゼクルドからの移民受け入れ。レベッカによる使用人教育。テオの異動許可。領地内視察の結果。ルゼイモや家畜用飼料の現備蓄量。本格的な冬が訪れるまでにしなければならない設備の修繕――。


「とりあえずもっとも優先すべきなのは、領民たちの生活を守ることだと思います。つきましてはこういった予算配分を考えているのですが――」


 つらつらと語り終えたところで、レクスが驚いたようにつぶやいた。


「……すごいな」

「えっ?」

「いや、あなたの働きぶりだ。まさかこんなに色々と考えてくれていたとは」


 レクスからの素直な称賛に、アイリーンは自分でも困惑するほど取り乱す。


「こ、これくらい、領主の妻になるのなら当然のことですわ! 主が不在の間、この邸と領地、そして民たちを守るのは妻の役目なのですから!」

「それでもここまで出来る女性はそうそういない。相当勉強していたんだな」

「……っ!」


 レクスから尊敬の眼差しを向けられ、アイリーンの心臓はかつてない速度で早鐘を打ち始めた。だが同時に、失くしたはずの記憶――そして絶望が残像のように甦る。


(……そう。昔の私は必死だった。素晴らしい領主の妻になりたくて、たくさん勉強した。領民のために良き為政者であろうと努力した。でも――)


 頑張れば頑張るほど、お前は可愛げがないなと言われた。

 女がでしゃばるな。男に任せておけばいい。

 ああ、どうして忘れていたんだろう。

 こんなことをしたらまた――。




「……アイリーン?」

「‼」


 レクスから名前を呼ばれ、アイリーンは「はっ」と目を見開いた。


「大丈夫か?」

「は、はい……」


 どうやら自分でも気づかないうちに、混濁した思考に呑み込まれてしまったらしい。

 嫌な白昼夢から無理やり起こされたような気持ちになり、アイリーンは自身を落ち着かせようと顔を上げる。そこでようやく、すぐ目の前に立っているレクスの存在に気づき、思わず「はわぁ⁉」と大きな声を上げた。


「レ、レ、レクス様⁉ あ、あの、い、いったいいつの間にこんな近くに」

「いつの間にって、あなたが急に黙り込んでしまったから心配で」

(ほ、ほあああ……)


 ちらりと視線を動かすと、先ほどまで彼が座っていたソファが空になっていた。どうやらぼーっとしている間にこちらに移動してきたらしい。またさっきのように倒れるわけにはいかないと、アイリーンは必死になって意識を保とうとする。

 するとレクスが自身のベストの内側に手を入れ、細長い木の箱を取り出した。


「そういえば、これ」

「……?」


 出来るだけレクスを直視しないよう注意しながら、アイリーンは慎重にそれを受け取る。そうっと蓋を開けると、中には傷一つない丸眼鏡が収められていた。


「これって……」

「以前のものは壊れてしまったようだったから、仕事の合間を見つけて作ってもらったんだが……迷惑だったか?」

「い、いいえ!」


 アイリーンはぶんぶんと小型犬の尻尾のように首を横に振る。

 覚えてくれていた嬉しさとわざわざ新しいものを用意してくれたその優しさが嬉しくて、アイリーンはたまらず満面の笑みを零した。


「ありがとうございます。本当に……本当に嬉しいです!」


 するとそれを見たレクスもまた、照れたように相好を崩した。


「……良かった」

(ああああ~~~~っ‼ 好き~~~~っ‼)


 うっかり真正面から観測してしまい、アイリーンの心臓部からいよいよ『そろそろ限界でーす!』という報告が上がってくる。だがプレゼントの眼鏡を渡したあともレクスはその場から離れることなく、アイリーンを扉側に追い込んだままだ。


「あ、あの、レクス様?」

「…………」


 レクスからじいいっと真剣に見つめられ、ついにアイリーンの心臓部が『だから限界だって言ってんだろうが!』と暴動を起こし始める。それと同時にレクスに対する美辞麗句もアイリーンの中で爆発寸前だった。


(あ~~ッ‼ 無理ですわもうなんか顔が良いとかそんな次元ではないんですけどもうこれって神様と同じなのでは? 軍神サダマンティス様ってこんな感じだったのかしら? ていうかこの雰囲気ってもしか、し、て……)


 やがてレクスの手がアイリーンの顎へと伸びてくる。

 アイリーンの視線の先には形のよい彼の唇があり、まるでそうするのが礼儀だとばかりにアイリーンはぎゅっと目を瞑った。



 

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