第一章 悪女、周囲を困惑させる
レクス・ヴァンフリートとの運命的な出会いから数日後。
ようやく自由に動けるようになったアイリーンは、ベッドにふちに腰かけ「ううーん」と大きく伸びをした。大きな窓からは真っ白な朝日が差し込んでいる。
(すっかり体がなまっちゃったわ。こんなに寝たのはいつ以来かしら――)
記憶がなくなった当初はそれなりに緊張していたが、同じ部屋で過ごすうちに少しずつ慣れてしまった。相変わらず頭の中は真っ白だが、これからの不安というよりは高熱が下がった時のような晴れやかさがある。
(ええっと……)
朝の支度を手伝いにメイドたちが訪れるのを待つ。だがいつまで経っても来る気配がなく、アイリーンはゆっくりと立ち上がると近くの窓辺に近づいた。
窓の外には手すり付きの立派なバルコニーがあり、隅の方には小さな枯れ葉が転がっていた。ずっとベッドにいたから気づかなかったが、どうやら今は秋の中頃らしい。興味本位で少しだけ窓を開けると、爽やかな朝の風が吹き込んだ。
「とりあえず着替えようかしら……」
メイドの到着を待っているのが面倒になり、アイリーンはきょろきょろと室内を見回したあと繋がっている隣室へと向かう。そこには壁を埋め尽くすほどのクローゼットが置かれており、扉を開けて中を見ると、こちらもびっくりするほどたくさんの衣装が収められていた。
「結構渋い色ばかりね……」
見たところ黒、濃紺、黒、黒、黒、時々深緑といった地味な色味のドレスばかりで、アイリーンは「うむむ」と眉根を寄せる。するとそれらをかき分けた奥の方に、まるで隠されるかのように深紅のドレスが眠っていた。
「あら、これなんか素敵じゃない」
ドレスを引っ張り出し、体の前に合わせながら近くにあった姿見の前に移動する。右に左にと体勢を変えたあと、それを脇に抱えて廊下に繫がる扉へと向かった。いくらなんでもメイドが来るのが遅すぎる。
(いい加減、誰かに来てもらいたいのだけど……。でも、そもそも私が起きたことに気づいていないのかもしれないわね)
もしかしたら記憶を失くす前の自分はとてもねぼすけだったのかもしれない。扉を開けてひょいっと顔を出すと、ずっと廊下で待機していたらしきメイドたち――その中にいたサリアがびくっと両肩を跳ね上げた。
「ア、アイリーン様⁉」
「あら、いるじゃない。そろそろ着替えをお願いしたいのだけど」
「えっ、ええと……」
「隣室にあったクローゼットのドレスって、私の物でいいのよね?」
「そ、そうですけど……」
(……?)
どこかぎこちないサリアの応答。見れば他のメイドたちもなぜかうろたえており、アイリーンは不思議そうにひとり首を傾げる。その後メイドたちはぎくしゃくした様子で部屋の中に入り、おずおずとアイリーンの周囲に立った。
「そ、それでは失礼いたします」
「ええ。お願いね」
あまり慣れていないのだろうか、ドレスの脱がせ方も着せ方もどこかぎこちない。しかしそういうこともあるだろうとアイリーンは怒ることなくメイドたちの指示に素直に従った。そうして真っ赤なドレスをまとったところで「よし!」と嬉しそうに顔を上げる。
「それじゃあ次は、お化粧をお願いしていいかしら」
「えっ⁉」
「? どうしたの?」
「い、いえ、その……今まで頼まれたことがなかったもので」
本気で困惑しているサリアを見て、アイリーンはぱちぱちと目をしばたたかせた。小さい頃、母親が侍女たちにしてもらっている姿を見ていたので、てっきりそういうものかと思っていたが――どうやら記憶を失う前は自分で化粧をしていたらしい。
「そうだったのね、ごめんなさい。じゃあ自分でするからいいわ。あとで髪だけお願い出来るかしら」
「は、はあ……」
すぐに近くにあった鏡台へと向かい、小さな椅子にすとんと腰を下ろす。台の上には傷だらけの丸眼鏡が置かれており、アイリーンはまたも「?」と首を傾げた。
(眼鏡? いったい誰のものかしら)
自分も本を読む時には使うことがあるが、普段は掛けなくても特段問題ない。
落とさないようそっと端によけ、いちばん上の引き出しを開ける。そこには精緻な掘り込みが施されたガラスの小瓶――おそらく相当高価な化粧品が几帳面に並んでおり、アイリーンは思わず「ひいっ」と声を上げた。
「あ、あの……サリア? これも私の? でいいのかしら……」
「は、はい! アイリーン様がこちらに来られると決まった際、旦那様が最高級の物を手配しろとおっしゃられて」
(これを、レクス様が……⁉)
きゅんきゅーんと心臓が音を立て、アイリーンはにやけた顔をサリアたちに見られないよう慌てて隠す。だが化粧水を手に取ったところで、ふとした違和感に気づいた。
(中身が……全然減っていない?)
サリアの話によると自分がここに来たのは半年前のはず。いくら節約して使っていたとしても、ここまで量が減っていないとは考えにくい。不思議に思いながらも小瓶の蓋を開け、化粧水を手のひらに出してそっと頬に塗り込む。
だがその間もアイリーンのモヤモヤは増え続けていた。
(お化粧の手順は覚えてる……。でも、していた記憶がない……?)
まさかこれも抜け落ちてしまったのだろうか。記憶を失う前の自分のことがとんと分からず、アイリーンはしかめっ面のまま黙々と化粧を続ける。すると背後からそれを見ていたサリアがおずおずと話しかけてきた。
「あの、アイリーン様。今日は眼鏡はされないんですか?」
「えっ?」
「いえ、いつもそちらの眼鏡をかけておられたので」
「いつもって、私が?」
さすがに何かおかしい、とアイリーンはあらためてサリアに尋ねる。
「ええと……記憶を失う前の私って、いったいどんな感じだったのかしら?」
「どんな感じかと言われますと……」
サリアは他のメイドたちと目配せしたあと、緊張した顔つきで答えた。
「朝は……着替えはご自分でなさるからと、当初からお手伝いを断られておりました。ですので私どもは扉越しの物音だけでアイリーン様のご起床を判断し、着替えに要する時間を加味したうえで朝食をそうっとお持ちするという感じで」
「それ……逆に面倒くさそうね」
「い、いえ! それにお化粧も全然しているところを見たことがありませんでしたし、髪だって下ろさずに一つに結んでおられたので、ちょっとびっくりしてしまって……」
「…………」
メイドたちの証言をまとめると、どうやら記憶を失う前の自分は化粧もせず、髪は後ろの低い位置で一つに縛っていたらしい。顔は分厚いレンズの丸眼鏡で常に隠されており、ドレスにいたっては暗い色味の物しか着ていなかったと。
何度聞いても到底自分のこととは思えないのだが、記憶を失ったことで服の好みや美意識についても変わってしまったのかもしれない。
(でも私、小さい頃からおしゃれが好きだった気がするのに……)
いつの間にかメイドたちの視線が異邦人を見るようなものに思えてきて、アイリーンは小さな不安に襲われる。すると扉からコンコンとノックの音がし、廊下から銀のトレイを持った爽やかな青年が入ってきた。
「失礼いたします、アイリーン様。メイドの皆さまが手が離せないとお見受けしましたので、代わりに朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう。ええと、クライドといったかしら?」
「覚えてくださり光栄です」
青年がにこりと目を細め、近くにあったテーブルにトレイを置く。彼はクライドといって、アイリーンがこの邸に来た頃からずっと専属護衛として傍にいてくれているそうだ。
「お体の方は大丈夫そうですか?」
「ええ。あなたが修道士様を呼んできてくれたおかげだわ」
「とんでもございません。無事にお戻りになられたのはきっとアイリーン様の持つ運命、そしてアクロディア神のご加護があったからでしょう」
「……そうね」
ベッドで目覚め、レクスと衝撃的な出会いをしたあと、街の教会から連れてきた修道士とともにクライドが部屋を訪れた。
そこでアイリーンはようやく、自身が乗っていた馬車が壊れて転倒、その衝撃で全身――特に頭を強く打ち、満身創痍の状態で邸に運ばれてきたことを知った。運転していた馭者も怪我を負ったようだがこちらは比較的軽傷で済んだという。
ちなみに王都には医療行為を専門とする『病院』そして『医師』がいるが、貴族の保証人がいなければその診察は受けられない。そのため怪我や病気で困った際、一般的には教会で働く修道士様に治療をお願いするのだ。ただしヴァンフリート領には教会がないため、かなり離れた街まで呼びに行かなければならない。
(結構な事故だった、と言われたものの……本当に、全っ然思い出せないのよね……)
診察してくれた修道士いわく、記憶を失うのにも色々なパターンがあるらしい。
自分の名前も出身地も綺麗さっぱり覚えていない者。蓄えた知識が出てこなくなる者。逆にこれまでのことはしっかりと覚えているのに、事故に遭った時以降のことをたびたび忘れてしまう者もいるそうだ。
アイリーンの場合、自身の名前や年齢、実家、両親と妹のエレナの名前や容姿、さらにこれまでに得た知識や道具の使い方は残っているらしい。ただ八歳以降に起きた出来事やエピソードがほぼ消失しているという状態だった。
(たしかに、ずっとエヴァソールのおうちで暮らしていたはずなのに、どんな生活をしていたのか、どういう経緯でレクス様と婚約したのかはまったく覚えてないし……)
しばらく考え込んでみたが、やはり失くした記憶が何なのか全然思い出せない。アイリーンはクライドが持ってきてくれた朝食を綺麗に完食すると、汚れた指先をハンカチで拭きながらおもむろに立ち上がった。
(とりあえず、まずは自分の目で確認してみましょう!)




