序章 悪女、記憶喪失になる
頭上に広がる、夜ではないのに真っ暗な空。
頬に当たる風は刃物のように鋭く、全身に叩きつけられるような豪雪のなか、アイリーンは必死に祈っていた。
「――神よ。我が女神アクロディアよ。我に力を貸し与えたまえ」
共に旅をしてきた仲間たちの声が背後から聞こえる。ありがとう。これでようやくすべてが終わる。祈りを終え、ついに立っていられなくなったアイリーンはざくっという音を立てながら積雪の上に膝をついた。
(これで……)
やがて天上から光が差し込み、アイリーンの全身を柔らかく包み込む。
足元には穢れを知らない真っ白な雪。その上に広がる、目に焼き付くような鮮血。アイリーンは凍えた両手を伸ばし、自らの盾となって命を落とした白銀の狼に触れた。
「ごめんね、ルディ……」
自分のわがままに付き合わせたせいで、こんなことになってしまった。本当ならもっと安全な場所で穏やかに暮らす生き方もあっただろうに。
「愛してる――」
いつもふわふわだった銀色の毛には、汚れた雪の塊がいくつもこびりついていて。アイリーンは氷のようになってしまったその体を抱きしめるのだった――。
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ぱち、と目を開けた瞬間、薄手の布が下がる天蓋が視界に入った。頭の中は高熱でうなされた翌朝のように真っ白になっており、アイリーンは仰向けのまま何度も瞬く。
(……?)
どうやらベッドで横になっているらしい、とアイリーンは体を起こそうとする。だが突如全身に激痛が走り、たまらず元の場所に倒れ込んだ。近くにいたメイドのひとりがすぐに気づき、慌ただしくこちらに駆け寄ってくる。
「アイリーン様! お目覚めですか⁉」
「……?」
小動物のようなつぶらな目鼻にそばかすの目立つ幼い顔だち。茶色い髪を後頭部で丸くまとめており、着ている制服は女性使用人のものだ。うちにこんなメイドがいただろうか――とアイリーンが考えていると、メイドがよいしょとこちらの体を支え起こす。
「意識が戻られて良かったです。皆さんとても心配されていて」
「ええっと……ごめんなさい。あなたはいったい?」
「……アイリーン様?」
主人の違和感に気づいたのだろう。メイドがおそるおそるアイリーンの方を覗き込む。
その反応に不安を覚えたアイリーンは、彼女に支えられたままベッドサイドのテーブルに置かれていた手鏡を手に取った。鏡面を自身に向ける――そこには心細そうな表情を浮かべた自身の顔が映っており、頭にはなぜか包帯が巻かれていた。
(私……)
あらためてその容姿を確かめる。
波打つような黒く艶やかな髪。小さな銀色の星がちりばめられた深紫の瞳。けぶるような睫毛にまっすぐな鼻筋。つやつやと輝く形のよい唇。肌は積もったばかりの新雪のように白く透き通っていたが、今は少しやつれているようにも見える。
間違いない。私だ。アイリーン・エヴァソール。
半年前に十八歳になったばかり。
だが――。
(どうして知らない人の家……しかもベッドにいるの?)
実家の――エヴァソール家の部屋はここまで広くはなかった。ベッドは天蓋のない普通のものだったし、家具だって子ども部屋にふさわしい可愛いものばかりで――。
(子ども部屋……じゃない?)
一瞬だけ思い浮かんだ景色がすぐさま消えていき、アイリーンは周囲を見回す。
外にバルコニーが見える大きな窓。今自分が腰かけているのは白い天蓋がついたクイーンサイズのベッドだ。それ以外にも立派なソファセットや鏡台、燭台が置かれた備え付けの暖炉などがあり、どう見ても貴婦人の部屋である。
(それに衣装も……)
いつ着たのか覚えていないゆったりとした白のナイトドレス、そして両手足に巻かれた包帯をまじまじと見つめたあと、アイリーンは先ほどのメイドに尋ねた。
「あの……ここはどなたのお邸かしら。それに私、どうしてこんなところに?」
「アイリーン様……」
「ご、ごめんなさい……何も覚えていなくて」
するとにわかに足音が近づいてきて、離れた位置にあった扉がノックもなしにいきなりバタンと開いた。廊下から黒い外套をまとった長身の男性が現れ、荒々しく息をしながらアイリーンのいるベッドまでずんずんと近づいてくる。
「アイリーン! 無事か⁉」
「はっ、はいっ!」
突然名前を呼ばれ、アイリーンは手元にあった毛布をぎゅっと握りしめる。
そこに立っていたのは銀髪の美丈夫。端正な顔立ちに、瞳は小さい頃に図鑑で見たサファイアそっくりの見事な青色で、見ているだけで吸い込まれそうな不思議な色合いだ。
外套はよく見ると襟元がボロボロで、下には中流貴族の男性が着るような灰色のシャツと黒のベストを合わせていた。体は騎士と見まごうほど鍛えられており、女性としては比較的背が高いとされるアイリーンが並んでも、その肩に額が届くかどうかという長身ぶりである。
「意識が戻らないと聞いていたが、目が覚めたのか?」
「は、はい」
「良かった……」
部屋に入ってきた時からずっと険しかった表情が、その言葉とともにほろりと崩れて笑顔に変わる。それを目にした途端、アイリーンの頭の間で祝祭の始まりを告げるラッパの音がプワワワーンと鳴り響いた。
(なっ……なっ……なっ……‼)
心臓が早鐘のように音を立て、彼だけを映しとるように視界がぎゅんと狭くなっていく。
触れると柔らかそうな銀の髪。少し日に焼けた肌。白い歯が零れる大きな口。動くたびに聞こえる衣擦れの音。吐き出される息の温かさ。自分の倍はありそうな大きくてしっかりとした手。低くて心地のよい声――。
(好き……)
まさに一目ぼれ。これが運命の恋というものだろうか。
(かっこいい……存在が尊い……後光が眩しい……もはや神……)
ついに脳内の記憶どころか語彙までも空っぽになってしまい、アイリーンは呆然とした顔つきで彼を見つめ続ける。一方男性はそんなアイリーンを見てわずかに顔を翳らせると、振り返って後ろにいたメイドに確認した。
「治療は?」
「少し前にクライドさんが、街へ修道士様を呼びに行ったところで」
「それなら戻りは夕方か……」
男性は小さくため息をつくと、ベッドに座るアイリーンの前に片膝をついた。
「どこか強く痛むところは? 吐き気はあるか?」
「い、いえ、特には」
「何か少しでも違和感があったら教えてくれ。それから食べたいものや、欲しいものがあればなんでも用意するから――」
「で、でしたらまず、あなたのお名前を聞きたいのですが……」
「……‼」
その質問を聞いた途端、男性が大きく目を見開く。
「……アイリーン、何を言っているんだ?」
「えっ?」
「俺の名前は――」
するとそんなふたりの様子に気づいたのか、先ほどのメイドが両手をわたわたと動かしながら慌てて男性に説明した。
「だ、旦那様! 実はその、アイリーン様は記憶を失われてしまったようで」
「記憶を?」
「はい。どうしてご自分がここにおられるのかも覚えてないと……」
「…………」
男性はそのまま押し黙ると、ゆっくりとその場に立ち上がった。
交わされていた会話に不安を覚えていたアイリーンがその姿を目で追うと、なぜかとても寂しそうな顔をした彼と視線がぶつかる。
「……俺の名前はレクス・ヴァンフリート。爵位は男爵で、ここヴァンフリート領を管理している」
「レクス、様……」
綺麗な青い瞳がまるで涙をたたえているかのように潤んで見え、アイリーンはそれ以上何も言えなくなってしまった。やがて男性――レクスはまっすぐ口を引き結ぶと、踵を返してこちらに背を向ける。
「夕方には治療出来る者が到着する。それまでここで安静にしていろ。サリア、悪いが彼女のことを頼む」
「か、かしこまりました!」
レクスはメイドにそれだけ告げると、入ってきた時の勢いが嘘のように静かに部屋をあとにした。足音が完全に聞こえなくなったのを確認し、アイリーンはサリアと呼ばれたメイドをそうっと呼び止める。
「ええと、サリアさん?」
「サリアで結構です、アイリーン様」
「ええと、じゃあサリア。ここってヴァンフリート領なの?」
「はい。そして先ほどお越しになられたレクス様のお邸です」
(レクス・ヴァンフリート様……)
アイリーンの脳裏に簡素な地図が浮かび上がる。
大陸のほぼ中央に位置し、愛の女神アクロディアに守護された『愛の国』アルトニス。ここはその中でも最南端にあり、隣国イルゼクルドと国境を接しているヴァンフリート領のようだ。
山と森に囲まれた辺鄙な土地で、さびれた村がいくつかある程度の過疎地域。
以前はそれなりに人の流れがあったそうだが、二十年ほど前に大陸を一周する綺麗な馬車街道が出来てからは、わざわざこちらを通る旅人は少ないと、小さい頃に家庭教師から教えられた記憶がある。
そもそも――。
「ええっと……ごめんなさい。その、私の持っている知識だとヴァンフリート領は後継者がいない状態で領主様が亡くなって、オブライエン伯爵家の管理下に置かれたと思うんだけど」
「以前はたしかにそうだった思います。ただ二年前の戦争の功績でレクス様が男爵位を授かり、その際領地の委譲が行われたと聞いております」
「戦争? 領地の委譲?」
抜け落ちてしまった記憶の中に入っていたのか、二年前の戦争とやらがとんと思い出せない。アイリーンは指先をこめかみに押し当てながら、必死に次の質問を探す。
「それから……私はたしか、王国の中央にあるエヴァソール領で暮らしていたはずなの。父がエヴァソール子爵だったから」
「はい。そのように伺っております」
「伺ってって……それならどうして私はこんなところにいるのかしら?」
そう、それだ。
大変申し訳ないが、涼しい避暑地でも風光明媚な観光地でもない、通過するだけでも大変なヴァンフリート領を訪れた覚えは一度としてない。それなのにどうしていきなり、しかも領主の館で寝ていたりするのか。
ようやくすべての疑問が解消されそうで、アイリーンはドキドキしながらサリアの返事を待つ。しかし彼女は「うーん」と首をかしげたあと、なんとも難しい顔で自身の顎に手を添えた。
「それにはその、色々と事情がありまして」
「事情?」
「いったいどこからお伝えすればいいかと悩むのですが……単刀直入に申し上げますと、アイリーン様はこのお邸に住んでおられました。半年前からです」
「……住んでいた? 私が? 半年も前から?」
「はい。まだ式の予定はございませんが、レクス様の婚約者として早くこちらでの生活に馴染みたい……そう希望されてこちらに来られたと聞いております」
その言葉を聞き、アイリーンは我が耳を疑った。
「……ちょっと待ってちょうだい。今、聞き捨てならない単語が聞こえたのだけど」
「えっ?」
「レクス様の婚約者としてって……誰が?」
「ですから『アイリーン様が』です。アイリーン様はレクス様の婚約者様なんです」
婚約者、レクス様の婚約者、という文字がキラキラと輝きながらアイリーンの脳内をぱやぱやーんと楽しそうに駆け巡る。
レクス様ってあの、さっき私の目の前に現れた、とんでもない美形の――。
(嘘でしょ⁉)
もしや夢でも見ているのだろうかと、アイリーンはこっそり自身の頬を引っ張る。だがその痛みも、なんなら包帯に巻かれている箇所から伝わってくる鈍痛もはっきりと感じられ、アイリーンはこくりと息を呑み込んだ。
(私が、あの方の婚約者……)
ゆったりとした襟元を片手でぎゅっと握りしめる。
そのままアイリーンは、自分でも経験がないほど顔を真っ赤に染めるのだった。
新作はじめました!
記憶喪失になった悪女(?)のお話です。
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