第二章 6
使用人特訓一日目。
ベッドの中でアイリーンが目覚めたと同時に、コンコンというノックの音が聞こえてきた。
「おはようございます、アイリーン様。入ってもよろしいでしょうか」
「ええ、お願い」
アイリーンは体を起こしてベッドのへりへと腰かける。「失礼いたします」という声のあとに扉が開いたかと思うと、レベッカを先頭としたサリアたちメイドがずらりと整列し、きっちり九十度の角度でお辞儀をした。
「おはようございます。ご気分はいかがでしょうか」
「ええ、悪くないわ」
「それはようございました。本日の衣装はいかがなさいましょう」
「何か適当にお願いしようかしら」
するとレベッカは「かしこまりました」と再度頭を深く下げ、メイドたちとともに隣の衣装室へと移動する。すぐに三つほどの衣装を持ってきてアイリーンに選ばせると、いよいよメイドたちへの指導が始まった。
「着替えの際は相手に負担をかけないこと。サリア、少し引っ張り過ぎです」
「も、申し訳ございません!」
「手が空いている者はこの間に靴や小物の準備を。外出用の一式もこの時に揃えておくように。朝食を持ってくるのは着替えが終わってからになさい。すぐに化粧品と櫛、コットンの準備を……化粧品がない? それは仕方ありませんね……」
アイリーン付きのメイドたちはみな使用人経験があり、正直そこまでの不便は感じなかった。
だがレベッカからするとまだまだらしく、あれこれと厳しく指摘が入る。やがてレベッカが「ふう」と息を吐き出した。
「いいですか、奥様付きのメイドに求められるのは臨機応変な対応力です。別のドレスに着替えたい、靴を履き替えたい、化粧を直したい――どんな細やかな要望にも即座にお応え出来るよう、常に準備をしておくように」
「は、はいっ!」
サリアたちが姿勢を正し、勢いよく返事をする。
その後朝食を済ませたアイリーンは、邸内を確認するためレベッカたちとともに一階の玄関広間へと向かう。そこでパチパチと目をしばたたかせた。
「どうしたの、これ……」
糸くずが溜まっていたソファは新品同様艶々と輝いており、古い蝋がこびりついていた燭台はアイリーンの顔が映りこむほどピカピカに磨き上げられている。棚の上には塵一つなく、いつ誰が来ても恥ずかしくない立派な広間に仕上がっていた。
「今朝、物の取り扱い方を一から教え直しました。メンテナンスの方法もです」
「すごい……」
アイリーンは感心しながらすみずみまで見回す。すると廊下の奥から掃除用具を持ったテオが疲弊しきった顔つきで歩いてきた。前髪はなんとか守り切ったようだが、ヘアピンを留めて少しだけ額を覗かせている。
「あー……おはようございます。奥様」
「おはようテオ。ずいぶん頑張ったのね」
「いやだってその人おっかねー……いえ、とても丁寧に指導してくださるので」
睨みをきかせるレベッカの方をちらっと見つつ、テオが「はは……」と苦笑する。それを見てアイリーンもまた小さく笑った。
「綺麗にしてくれて嬉しいわ。これでいつでもお客様をお迎え出来るわね」
「そりゃよかっ……えーっと、ようございましたね」
「それにそのヘアピンも素敵よ」
「えっ?」
「あなた、綺麗な水色の目をしていたのね。もっと顔を見せてくれたらいいのに」
「…………」
最初、テオは何を言われているのか分からないようだった。だがようやく言われている意味を理解したのか、白かった頬がジワジワと赤みを帯びる。アイリーンはそんな彼の様子に気づくことなく、完璧になった玄関広間を全力で称賛した。
(素晴らしいわ! まさかこんなに早く改善するなんて)
レベッカの指導はもちろんだが、すぐに実行してくれたのはテオたちの努力のたまものだ。アイリーンが満足げな表情でダイニングへ向かうと、奥にある厨房の方からなにやらいい匂いが漂ってくる。
「……?」
ダイニングに入ると料理長のバートラム、そしてメイドのマリアンが立っていた。ふたりはテーブルの前に置かれた二つの皿を前に、ああだこうだと言い合っている。
「だから、肉はとにかく火を通すべきなんだよ。腹に当たったらどうする!」
「それにしたってこんな硬くちゃ食べられないでしょう? 何ごとも加減が必要なのよ」
「ンだとぉ?」
皿には丸焦げになった黒い塊と、美味しそうな焦げ目のついた鶏肉がそれぞれ盛られていた。いったい何が起きているのとアイリーンがぽかんとしていると、後ろにいたレベッカが歩み出て二つの料理をじいっと見比べる。
「なるほど……それでは配置転換を命じます。今日から料理長はマリアンです」
「なっ⁉」
「あらー嬉しい! でもこんなおばさんでいいのかしら」
「料理長は料理が上手く、他の調理人の指揮をとれる人間が就くべき役職です。男女や年齢の差は考慮しません」
どうやら料理長を選抜するための試験が行われていたらしい。よほど不服だったのか、バートラムがアイリーンに直訴する。
「おい! アンタからも言ってくれよ! どうしてこんな昨日今日来たような女に色々指図されなきゃいけねーんだよ!」
「レベッカは私がお願いしてきてもらった講師よ。単に物を教えるだけではなく、必要があれば配置転換や役職の変更も自由にしていいと指示しているわ」
「なんだと……」
するとそんなやりとりを見ていたレベッカが、テーブルの上にあった二つの皿を手に取り、アイリーンの前に差し出した。
「それでは、アイリーン様にも判断していただきましょうか」
「……っ!」
すぐさまサリアがフォークを準備してきて、アイリーンはそこにいる全員の視線を集めながら、おそるおそるマリアンの料理を口に運ぶ。こくんと呑み込んだあと、分かりやすく頬を薔薇色に染めた。
「とっても美味しいわ! うち(実家)のシェフ――いえ、それ以上の味よ!」
「あらあらあら! も~奥様ったら~嬉しいこと言ってくれるじゃない~」
「ちょ、ちょっと待て! オレの料理も食ってみろって!」
「ええっと……」
一応バートラムの料理にも目を向けるが、テカテカと輝く木炭のようなそれにフォークが全然刺さらず、アイリーンは困惑した表情で微笑む。
それを見たレベッカが持っていた皿をさっさとテーブルに戻した。
「これで満足しましたか? これからは一コックとして、料理長の命令に従うように」
「くそーっ!」
悪態をつきながらバートラムが厨房に消えていき、マリアンもこちらにぺこっと頭を下げたあと彼のあとを追いかける。とんでもない下剋上を目にした一行は、ダイニングを退室して廊下へと出た。そこに「おくさま~!」という可愛らしいエマの声が飛んでくる。
「エマもお仕事、終わりました!」
「えっ、仕事⁉」
全員に厳しく指導してほしいとは言ったが、エマだけは自由にさせてやってほしいとお願いしていたはず。思わずレベッカの方を振り返ると、珍しく彼女が小刻みに首を左右に振った。その間にもエマが「はい!」と嬉しそうに小さな黒板を差し出す。
アイリーンはそれを両手で受け取り、しばし言葉を失った。
(何、これ……)
それは白墨で書かれた美しい女性、愛の女神アクロディアの絵だった。
ただし大人――それも凄腕の画家が描いたとしか思えない素晴らしい出来栄えで、アイリーンはたまらずエマに尋ねる。
「この絵、エマが描いたの?」
「はい!」
さりげなくサリアや他のメイドたちにも視線を送るが皆の表情を見る限り、誰かに手伝ってもらったという線はなさそうだ。
「本当に……本当にすごいわ」
「えへへ……エマ、絵を描くのだけは得意なんです」
謙虚に照れるエマだったが、正直これは得意というレベルではない。天賦の才能、まさに『天才』のそれだ。
(誰か高名な画家に師事して、この才能を伸ばしてあげたい……。でもまずはエマのご両親の承諾がいるし、本人の意思も確認しないといけないわよね。そもそも絵描きの知り合いなんていないから伝手もないし……)
うーんうーんと悩みながらそうっとエマの方を見る。小さな天才画家はアイリーンがそんなことを考えているなど露知らず、ただ無邪気な笑みを浮かべているのだった。




