第二章 5
夕方。
ようやく荷造りが終わり、着替えや日用品などを入れた大きなバックパックをクライドとバルトロがそれぞれ背負う。アイリーンもまた小さな荷袋を抱え上げながら、クライドに「ふふっ」と微笑みかけた。
「それにしても良かったわね。幽霊じゃなくて」
「えっ?」
「二年前の噂よ。きっとバルトロたちを見かけた人が勘違いしたんでしょう」
アイリーンの言葉を受け、クライドはまるで天啓を得たかのようにぱああっと顔をほころばせる。そんなふたりのやりとりを見ていたバルトロが不思議そうに瞬いた。
「幽霊って何のことですか?」
「二年前にこの森に出たって噂があったのよ。多分、バルトロたちのことを見かけたんだと思うんだけど」
するとバルトロが青ざめ、いきなり深刻な顔になった。
「……申し訳ないですが、それは違うと思います。だってぼくたちが逃げてきたのは今年の春の終わり――半年前のことなので」
にこにこだったクライドの顔が一瞬にして蒼白になる。
どうやら余計なことを言ってしまったらしい……とアイリーンは自身の失言を反省しつつ、新たに浮上してきた謎に思考を奪われた。
(幽霊はバルトロたちじゃない? じゃあ、いったいどうしてそんな噂が……)
まさか本当に――という不気味な疑惑を抱えたまま、一行はようやく邸へと戻る。
すると玄関の扉を開けたところで、邸の奥から「ぎゃーっ‼」という男性使用人――テオの悲鳴が聞こえてきた。三人はすぐさま顔を見合わせると、大急いで騒ぎの根源と思しき一階の応接室へと向かう。
「何があったの⁉」
「ア、アイリーン様……!」
扉を開けるとそこには、不安そうな顔でこちらを振り返るサリアとメイドたち、半泣きのエマを庇うようにして立っているマリアン、そして長身の女性にその長い前髪を引っ張られているテオの姿があった。
「いたっ、痛いから、ちょっ、やめてって!」
「貴族の使用人たるものがこんな不潔な髪型でどうします。どなたかハサミを持ってきてください。わたくしがこの場で切り揃えて差し上げましょう」
「わーーっ⁉」
黒髪をきっちりと編み込みにしたその女性は、有無を言わさぬ迫力でハサミを要求する。それを見たアイリーンが慌てて止めに入った。
「レベッカ! 少し落ち着いてちょうだい」
「あらお嬢様。おかえりなさいませ」
アイリーンの声を聞いた途端、長身の女性――レベッカはすっと背筋を伸ばした。いつものメイド服ではなく濃紺の上品なワンピースをまとっており、テオの前髪から手を離すとアイリーンに向かって恭しくお辞儀をする。
「遅くなり、大変申し訳ございません」
「とんでもない。むしろこんなに早く来てもらえるなんて思わなかったわ。向こうの仕事は大丈夫なのかしら」
「取らなければならない休みが溜まっておりましたので」
にこやかに会話するふたりを見て、離れた位置にいたサリアがおずおずと手を上げる。
「あの、アイリーン様。そちらの方は……」
「私の実家でメイド長をしていたレベッカよ。手紙を出して、うちに来てもらえないかお願いしていたの。ああそうだ、ちょうど人が集まっているし言っておくわね」
するとアイリーンは満面の笑みで言い放った。
「あなたたちには今日から一週間、使用人としての基礎や心得をこのレベッカから学んでいただきます!」
「えーっ⁉」
突然の命令にその場に激震が走る。するとレベッカは動揺する彼らの前に歩み出て、大きな黒い鳥を思わせる実に優雅な礼を披露した。
「今日から皆さまの講師を務めます、レベッカと申します。時間がもったいないのでさっさと始めましょう」
行きますよ、とレベッカがテオを引っ張りながら応接室を出ていく。他のメイドたちもびくびくと続くなか、サリアがそうっとアイリーンのそばに近づいた。
「アイリーン様、これはいったい……」
「あなたたちには申し訳ないけれど、今の状態では満足にお客様を迎えられないの。少し大変かもしれないけれど、いい成長機会だと思って頑張りなさい」
「ひ、ひい……」
不安そうな顔つきのまま、サリアもとぼとぼと応接室をあとにする。そんな彼らの後ろ姿を見送りながら、アイリーンは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
(ごめんなさいね、みんな……)
普通の貴族であれば無能な使用人はとっとと解雇して、新しく人材を雇えばいいのだろう。だがそれには結構なお金と時間、なにより手間がかかるため、今のヴァンフリート家ではとても実行出来そうにない。
ならば今いる使用人に一から知識と技術を学ばせ、成長してもらう方が効率的だとアイリーンは判断した。最初は自ら教鞭を取ることも考えたが、やはり実践的な部分はその道のプロでないと分からないことも多いからだ。
(レベッカが講師役を引き受けてくれるかは正直賭けだったけど……でも、本当にすぐ来てくれたのね)
見た目は怖いが、実は面倒見がいいレベッカのことを思い出し、アイリーンは静かに目を細める。これで使用人問題が一つ解決する――と安堵している一方、その心の中には冷たい炎のようなものがちらついていた。
(それに……レベッカがこの邸にいてくれる間は安全だもの)
階段下の地下室で見つけた『周りの人間を信用するな』というメモ。
周りの人間というのがこの邸にいる使用人やメイドのことを差すなら、部外者であり、幼少期からの信頼が厚いレベッカは抑止力としてこのうえなく適任だ。
(みんなを疑っているようで、心苦しいけど……)
またも自身の中の『悪女』が目覚めかけた気がして、アイリーンはそっと目を閉じる。
こうしてレベッカによる地獄の使用人特訓が始まったのだった。




