第二章 3
ただその頼もしい行為とは裏腹に、完全に幽霊だと思っているのかその声は見事に裏返っていた。一方アイリーンは冷静に相手の正体を見定める。
(熊? でも足音の重さがそれほどないし猪、いえ鹿の可能性も……)
するとその声で相手もこちらに気づいたのか、途端に離れていく足音が聞こえてきた。
幽霊でも動物ではない――人間だ。
「――っ!」
恐怖心がなくなったのか、クライドが素早くその場から走り出す。
アイリーンもまた遅れて彼を追いかけていくと、森の奥から木の焼ける匂いが漂い始めた。ほどなくして簡素な木の小屋、そして煙を上げる窯のようなものが見えてくる。
(何かしらこれ。それにいったい誰が――)
クライドとともに警戒しながら小屋へと近づく。するとふたりの斜め後ろから「やめてください!」という声が聞こえてきた。
「そこに……近づかないでください」
「あなたは……」
アイリーンが振り返ると、白いシャツに革で出来たエプロンを重ねた青年が立っていた。
肌は浅黒く、目張りを入れたかのように眼力のある黒い瞳。髪も同じく黒で、短く切った先がくるんと丸まっている。首にはペンダントをかけており、体つきや見た目からいって歳は十代後半に見えた。
「勝手に土地に立ち入ってしまったことは謝ります。でもぼくたちは、あなた方に危害を加えるつもりはありません。どうか見逃していただけませんか」
「見逃してって……いったいここを誰の領地だと――」
険しい顔つきで剣を構えるクライドとは対照的に、アイリーンがさらりと口にした。
「あなたもしかして、イルゼクルドの方かしら?」
「えっ」
「昔、本で読んだことがあるの。イルゼクルドの方々は生まれつき肌が黒く、黒曜石のような虹彩を持っていると。髪は……白か灰色だった気がするけど」
「…………」
どうやら図星だったらしく、青年はアイリーンに向かって深く頭を下げた。
「あなたの言う通り、ぼくはイルゼクルド人です。元々住んでいたところを追われて……今はこの森の中で生活しています」
イルゼクルド。通称――『職人の国』。
技工神イムラストルバに守護された国で、アルトニスの南側に位置している。石工、金細工師、ガラス職人といった専門職を養成する学校が各地に存在し、国民の多くは物を作り出す仕事に就いているそうだ。
そのため職人ギルドの力が非常に強く、君主制を取っている他の国とは違い、各ギルドから選ばれたメンバーで議会を構成、そこで国の法律やリーダーを決めるという大陸では珍しい議会政治制をとっている。
「イルゼクルドでは最近内戦が増えていると聞いています。おそらくその関係かと」
「内戦ね……」
警戒を続けながら、クライドがそっと報告してくる。たしかこの森の先にある山を越えると、イルゼクルドの端に出るはずだ。ありていに言えば違法入国者、好意的にとらえれば亡命者といったところか。
「お願いです、見逃してください……。父は足を怪我しているし、母も病気を患っています。弟たちだって――」
「あなた以外にもいるの?」
アイリーンが声を上げると、それに反応するかのように小屋の扉が少しだけ開いた。中からひとり――それどころか三人、そっくりな顔の男の子が顔を覗かせる。エマとさほど変わらない年頃の子どもたちを見て、アイリーンはその場で逡巡した。
(入国許可証を持つ正式な移民であれば、領主判断で滞在を受け入れることは出来る……でもこの感じだと多分そんなもの持っていないでしょうし……。なにより素性の知れない者を領地に引き入れることは、不要な危険を招くことにもなりかねない――)
瞼を閉じると、心の奥底にいる自分が冷たい瞳でこちらを睨みつけてくる。
同情してはならない。彼らが領民たちに害をなしたらどうする。事情なんて知らない。とにかく一刻でも早くここから追い出して――とまで考えたところでアイリーンはゆっくりと目を開き、あらためて青年の顔を見つめた。
(私……『悪女』になりかけていたわね)
アイリーンは小さく首を振ると、青年に向かって微笑みかけた。
「それは大変だったわね。でもここはヴァンフリート領――あなたたちはアルトニスの国に入ってしまっているの」
「そ、それは……」
「違法入国者として、この場で追放を命じることも出来る。でも……あなた方が我々に危害を加えないと約束出来るならば、入国証を発行して正式な移民として取り扱いましょう」
「ほ、本当ですか⁉」
「ただし、この土地にどれだけ滞在出来るかは領主様がお決めになるわ。今は出かけられているから少し時間がかかると思うけど」
「構いません! あの……ありがとうございます……‼」
青年が涙声のまま頭を下げたのを見て、アイリーンはほっと胸をなでおろした。この判断が正解なのかは分からない。場合によってはきちんとここから追い出した方がいいのだろう。
ただ――。
(どうも……悪い人には見えないのよね)
アイリーンは小さく苦笑すると、青年に向かって片手を差し出した。
「まずはここから移動しましょう。この季節は夜になるとひどく冷え込むし、ご両親も一度修道士様に診ていただいた方がいいでしょうから」
「は、はい!」
「私はアイリーン、あなたの名前は?」
「バルトロ・アル・メトロと申します。バルトロとお呼びください」
「分かったわ。よろしくね、バルトロ」
繫いだ手は思ったよりも浅黒く、自身との違いにアイリーンは少しだけ驚く。
だが伝わってくる体温は紛れもなく同じ人間のもので、アイリーンは自分がとった行動が間違いではなかったとあらためて安堵したのだった。




