第二章 悪女、頑張って働く
本格的な秋の深まりを感じさせる早朝。
深緑のドレスに羊毛の上着を着たアイリーンは窓を開け、自室のバルコニーへと歩み出た。長い黒髪は下ろしたまま、傷だらけだった眼鏡はエレナに壊されて以降かけていない。
その場で何やらそわそわしていたが、やがて大きく手を振り上げた。
「レクス様!」
「!」
呼びかけが聞こえたのか、庭先で出立準備をしていたレクスがすぐに顔を上げる。体にはおなじみとなったボロボロの黒の外套。そして革の防具をまとっていた。彼はアイリーンの姿を見つけると少年のようにぱっと顔をほころばせる。
「アイリーン、起きていたのか」
「は、はい! あの、お仕事気をつけてくださいね」
「ああ」
(……っ‼)
最高の笑顔を向けられ、アイリーンは思わず頬の内側を噛みしめた。
(ハァァ~~これは夢? 私はまだ夢を見ているのかしら? まさかレクス様が私を見て微笑んでくださるだなんてこれはいったいどこにお金を払えばいいのかしら? 無料? 無料でいいの? 嘘よね? というか髭のお顔もとっても魅力的でしたけど、いつものレクス様も本当に格好よくて素敵ですわ。それに――)
アイリーンの脳裏に、先日の書斎での一件が呼び起こされる。
婚約した理由について、レクスから『好きだったから』と言われた時のことを思い出し、アイリーンはひとり両手で顔を隠して悶絶した。
(まさか……本当に婚約者……。しかも私のことを好き、だったなんて……)
喜びでぽんぽんと花が咲き、アイリーンの心の中はまるで春のお花畑のように暖かくなる。だがすぐに顔から手を離すと、冷静に自身の手のひらを見つめた。
(でも……レクス様が好きだったのは、記憶を失くす前の私なのよね……)
失われた十年分の記憶。
それが戻らない限り、どうしてレクスが自分を好きになってくれたのか分からないままだ。それにアイリーン自身が彼をどう思っていたのかも――。
「…………」
モヤモヤとした灰色の霧が心の花畑を覆っていく。それに気づいたアイリーンは掲げていた手のひらで自身の両頬をばちんっと叩くと、背筋を伸ばして唇を引き結んだ。
(しっかりするのよアイリーン。もう悪女にはならないと決めたでしょ!)
自身の誓いを何度も心の中で復唱しながら、アイリーンは胸に手を当てて「はあーっ」と大きく息を吐き出す。するとタイミングよく、朝食を持ってメイドのサリアが部屋を訪れた。
「アイリーン様、朝食をお持ちいたしました」
「ありがとう、サリア」
「レクス様より、次のお戻りはだいたい二週間後になるとの伝言をいただいております。それから昨日の夜、遣いに出した者がようやく帰ってまいりまして」
「見せてちょうだい」
サリアが差し出した書類をアイリーンはさっそく確認する。
そこには馬二頭と羊が十頭、鶏三十羽くらいをまとめて買えそうな金額が書かれており、アイリーンは満足げに微笑んだ。一方、サリアは少し寂しそうにつぶやく。
「アイリーン様、本当によろしかったのですか?」
「何がかしら?」
「ドレスと化粧品をあらかた売ってしまうなんて……」
「…………」
レクスの許諾をもらい、アイリーンは持っていたドレス大半と化粧品のすべてを売却した。
提案した当初はだいぶ失礼な言い方をしてしまったが、領地経営の原資にしたいと言い添えると申し訳なさそうに許してくれた。今は黒や藍色といった地味な色のドレス、そして作業用の簡素な衣装が数点残っているだけである。
「レクス様のお許しはいただいたから大丈夫よ。必要な時が来れば、その時には買っていただく約束もしていますし」
「……はい」
まだ悲しそうなサリアをフォローしつつ、アイリーンは頭の中ですぐに計算を始めた。
(でも思ったより高く売れたわ。あとはこれをどう活用するかね)
正直なところ、問題は山積みだ。
まずは冬に備えて領民たちの衣食住の確保。それから春に備えての支度もしておかなくてはならない。アイリーンの事故で壊れてしまったという馬車も修理に出す必要がある。
(それに今のうちの状態もなんとかしたいのよね……。もしお客様が来られた時、満足にお出迎え出来ないのは困るし……)
こんな弱小領地を訪ねてくる者などまずいないだろうが、客人をいかにもてなすかは領主の妻の大切な仕事である。ただしあくまでもバランスを考えて。高級な家具などは後回しでいい。本当に必要なことは歓迎の心であり――。
「…………」
アイリーンはしばし押し黙ったあと、サリアの方を振り返った。
「サリア、便箋と筆記具を持ってきてくれる?」
「は、はい!」
受け取った便箋をテーブルで一気に書き埋めたあと、サリアに手紙の配達を依頼する。
その後アイリーンは着ていたドレスと羊毛の上着を脱ぐと、チュニックに外套、ズボンというシンプルな外出着に着替えた。以前地下倉庫で見つけた地図を手に取ると、廊下で待機していたクライドに声をかける。
「クライド、一度領内を見て回りたいの。案内してもらえるかしら」
「か、かしこまりました!」
玄関に向かい、厩番が連れてきた馬にクライドとともに跨る。背中をクライドに支えてもらいながら、アイリーンは手にしていた地図を胸の前に大きく広げた。
(レクス様のお戻りまで二週間ある……。いい加減、資料や地図だけで考えるのは限界だわ。まずはこの目で領民たちの生活ぶりを確かめないと!)
クライドが手綱を引き、ゆっくりと馬の足を進める。
頬に触れる風は以前よりさらに冷たくなっており、アイリーンはぶるっと身震いしながら外套の襟を手繰り寄せた。ヴァンフリート邸を出て道沿いを歩いていくと、やがて家畜を連れた領民たちの姿が見えてくる。
(山地や丘陵地が多いヴァンフリート地方は畜産を中心に生活している……。おじい様の秘密基地で見た蔵書の通りね)
本で読んだだけの薄っぺらい知識が、実際の匂いと温度を吸って鮮やかな立体となる。
そして同時に、ここが故郷のエヴァソールとはまったく違う土地であること――とても遠くに来てしまったのだということを、あらためて思い知らされるのだった。
(あとは……気候が小麦の栽培には適さないから畑はほとんど牧草地、それにルゼイモと呼ばれる作物の栽培が盛んだったはず……)
閑散とした畑に打ち捨てられた、独特な形の葉っぱを見てアイリーンは推測する。
ルゼイモとは、ここから南に国境を接するイルゼクルドという国から持ち込まれた作物だ。地中で拳大の実をつけ、一株あたり五個から十個程度が収穫出来る。長期保存が可能で、焼いたものに塩をかけたり、蒸したものを潰して食べたりすると聞いたことがあった。
(実家では基本パンばかりだったけど……ルゼイモっておいしいのかしら?)
うーんとアイリーンが難しい顔をしていると、背後にいたクライドが離れた場所にあった牛小屋を見ながらつぶやいた。
「今年は気温の低い日が続いて、牧草が去年の半分ほどしか取れなかったんです。それに少し前に牧場の柵が壊れてしまって」
「柵が壊れた?」
「はい。おかげで牛と羊が数頭、逃げ出してしまったと聞いています」
大規模牧場であればいざしらず、この規模の村での家畜の損失はなかなか手痛いだろう。柵の修繕費、家畜の買い戻しと考えるだけでドレスと化粧品を売って作った資金がチャリンチャリンと減っていく。
(領地経営って楽じゃないのね……)
今の状態を把握するため、アイリーンは壊れたという柵に近づいてもらう。想像していたよりひどい有様だったが、これなら森から木を切ってきて加工すればさほど費用は掛からないだろう。良かった……と安堵する一方、アイリーンはわずかな違和感を覚える。
(これ……本当に自然に壊れたものかしら?)
風雨による経年劣化なら、断面がもっとボロボロになっていてもおかしくないはずだ。だが柵はノコギリでも使ったかのように綺麗に壊れており、アイリーンは思わず眉根を寄せる。
(でもノコギリなんて高級品、うちにはなかったはず――)
するとそんな思考を遮るかのように、背後から突然「クライド様!」という元気な男の子の声が飛び込んできた。アイリーンが振り返ると、着古した半袖のチュニックにサイズの合わない上着を羽織った四、五歳くらいの男の子が立っている。




