九十七冊目『山本理顕 コミュニティーと建築』
「府雨の読書日記」九十七冊目『山本理顕 コミュニティーと建築』
『山本理顕 コミュニティーと建築』
著 山本理顕
勉強していると夢が膨らむ。
夜帰って、ご飯を食べて、疲れの中でようつべを観ていて、それしかできないことに、夢が「霞め」られる。
バカだな。できるわけない。
逃げているだけだ。
そんなことばかり考えて、生活の中に埋没していく。
勉強は、読書は、やはり夢を生む。
上司の根性論(できないことなんてない。やるだけだ!)を聞いて、そんなもんかなと、諦めて譲らないでいられるのは、友達と張った勉強戦線で、僕はその最前線で戦い続けてきたから。
たとえ、僕が愚かでも、僕の考えていることまでは差し出さないと、心から思う。
単純化が過ぎる。発言の一部で全体を断定する単純化。
成田悠輔がYouTubeで誰かと話していた時に「共産主義」という言葉を使って未来予測を、その誰かは「究極の左ですね」と言った。
成田悠輔は大学人らしくかすかな苛立ちも抑制しながら、もっと簡単に説明してしまった。それでも伝わってなかった。
その誰かは、何かを要約したり定義したりできると本気で思っているわけでもないのに、そういうやり方が学識のある人への対応として有効だという経験から、まとめにかかってしまう。自分の理解できる部分だけで要約する。
学者は何か有用な概念を提供してくれる存在で、自分はそれを自分に都合のいい形にして使っていいと本気で信じている。
成田悠輔が言ったのは、どんどんと進む個人的世界観の特別化が、人を多様にし、AIとの協働によって、金や地位と言ったオールドな権威が、どんどんと特別な人の特別な役割に分配されていき、みんな楽しく仕事ができる世界になると言ったに過ぎない。
それのどこが左なのか、たぶんその誰かには説明できない。「理想主義的だ」というなら、そう言うべきだ。
成田悠輔は、国家のために教育があり、人材が経済を支えるなんて、単純な世界観はなくなるだろうということを言いたかったのではないかと思う。
人間の序列化や地位の一貫性みたいなものはどんどん薄れていき、例えば「優しさ」みたいな「頭の良さ」が偏差値的な「頭の良さ」に取って代わるとか。
個人主義的な自由主義ではなく、思考や嗜好の自由が、既存の能力主義を解体して共産主義的な世界ができる。
その世界は主義者にとっては恐ろしいだろう。
年収だけが誇りの能力主義者にとって、その足元を揺すられるのは怖いはずだ。
だから言葉で抵抗する。「左」とか「弱者」だとなんとかしてその未来が到来するのを遅らせようとする。
画一的な尺度、年収、偏差値、学歴等々で測れない自己は、どうやったら承認されるのか。
社会的成功というものが、個人的に達成されて、順位をつけてくれないとしたら、その人たちはどうやって生きていけばいいのか。
僕の結論は「人に優しくなること」だ。それはいわゆる「共産主義」なのである。
なぜなら金でも権力でも、優しさは買えないから。
知的になるというのは、金を稼げることではなく、他人に優しくなれるということなんだと、最近僕は思う。
それは人間の強化ではなく、人間の充足化。つまりは硬さではなく重さ。わかりやすさではなく複雑さだと、心から思うのだ。
***
山本理顕の建築集を買ったのは、最近買った原広司の『建築に何が可能か』という本の解説を書かれていたから。
この前大学の先輩と銀座シックスの蔦屋書店に行った時に、本書を見て、新宿紀伊國屋で前見たなぁと思って、その時も買わなかった。
でも「オデュッセイア」を友達と観た時に、つい悪魔の囁きに屈して、つい二万円も使って買ってしまったのです。
やば過ぎる。何やってんだよぉ。という感じですが、天津図書館の写真があって、どうしても欲しかった。
紀伊國屋で友達と建築コーナーに行った時にはもう一冊しかなかった。のです。だからしょうがないのです。
建築。家づくり。いつかやってみたいから、最近数Ⅲと物理化学の勉強をしています。
大学にまた行きたい。とにかく学びたい。
仕事に繋がらないとか、逃げだとか、そういうのはどうでもいいんです。
今、少しでも進めないと、きっと夢は叶わない。
お金がないから大学に行けない。大学に行けないから勉強する意味がないから、勉強しないというのは、AIに聞いたら「AIには感情がないから礼を言う必要はない」という説明と同じことだと言われました。
勉強や礼に意味があるのであって、勉強の後のことを考えながら勉強するのは、真の学問ではない。
なるほどですね。
確かに、僕は金のために勉強しているわけではない。
学問的知識は多くの場合、金にならない。金を稼ぎたいならやることは勉強ではないです。
人間性の涵養、人文主義の隆盛、「私のプレイスタイルは利他だから(幽鬼)」というようなサバイバルには役立ちますが、本質的な思考は、オートマチックに仕事に邁進する人間を作りません。
立ち止まり考え、攻めるだけでなく守り、自分の命のために逃げる。そういう人は、生き残ることはできても、金は得られません。
でも、金は何のためにあるのか。幸福のため。……?
人は幸福のために生きているのか。
僕はそんなことないと思います。
個人的な快楽はもちろん幸福の定義とは異なります。
快楽のために生きるなら、手っ取り早いのは覚醒剤ですが、そんなものは幸福の障害でしかない。
家族でしょうか。子どもでしょうか。
友達との協働でしょうか。
少なくとも、それらの喜びが金で買えると思っている人は、単純な世界に生きていて、それが幸せだと勘違いしている。もっと楽しいことはたくさんあります。何とは言いませんが。
僕の人生はある意味で不幸続きですが、単純に、生きることだけが、僕の人生の目的で、生きるためにどうするかが課題なわけです。
それは生活するためにどうするかではありません。
お金が必要なのが、生活するためだとしたら、仕事は罰ゲームでしかない。
でも、病気を抱え続けている自分からしたら、仕事は人生のご褒美です。
仕事ができる体があるのは、当たり前ではないから。
勉強も読書もそれと同じです。
できない時があるから、かがやくのです。
***
何かの関係や、行動が全て幸福のためだと思っている人は、幸福のためにならないことは嫌々やっているのでしょうか。
目的として作品の完成があって、そのために苦痛を忍んでいるのでしょうか。
だとしたら人生は死のためにあるのでしょうか。
幸福のために生きる。自分のために生きる。金のために生きる。家族のために生きる。
そんなことを考えている余裕があるのですね。
僕のプレイスタイルは利他です。何かのために利他なのではなく、単に利他がスタイルです。
好みと言い換えてもいい。
利己的な行動原理は説明には向いていますが、生存には向いていない。それは普通わかりますよね。自分のことしか考えていない人を、人は仲間にしません。
利他は単に生きやすさのためで、別に優しさの発露ではありませんが、優しく見えると思います。
いわゆる左翼と呼ばれる人が闘争によって勝ち取った社会的な権利は、理想と優しさの別の表現手段です。
「究極の左ですね」
という言葉には「俺は自分のことしか考えねえし、そんなんで俺の行動原理は説明できない。優しさなんて偽善だ」という意味があると思うのですが、そこには「そんなに優しくない自分」を責められたくないという背徳に、なんとか押し潰されないようにする子どもみたいな感情を感じます。
人が優しいのは、単にその人が利他的な存在であるだけで、利己的な人を責めているわけではないのですが、その人たちは責められているように感じて、抗ってしまう。
正しい表現は「究極の左ですね」ではなく「優しいですね」ではないかなと思いますし、そちらの方が、自分の利己主義的な面目はもちろん立ちますよね。「そんなふうに考えたことなかったです」というのも、いい「返し」ですよね。
優しさは金で買えると思っている人はたぶん世界のどこにもいません。
他者の優しさは自己の優しさの反対給付でしかなく、それも、全て「時価」でしかない。値札は付いていないし、「一円で一億分の給付」がある場合もあれば「一兆円費やしてマイナスの給付」になることもある。
それがたぶん、わかんないのかなぁ。利己的な人はたぶん、相場を読むことが苦手ですよね。
優しさというのは人との関係で変容し、その変容の仕方には複雑で直感的な法則がある。
単純な法則ではないので、僕はそれを最近「相場」と呼んでいます。「相場」の本質は長い時間をかけて証券の価値を上げていくということ。
時間をかけることが利他ということなんだと最近は思います。答えはわかるけれど結果はわからない。
利己的な人はきっと結果が早く手元に来れば、答えがわからなくてもいいんでしょう。
それでは、儲からんなぁ。ほら、得しても、本当はもっと得したかもしれないじゃんさ。
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あと二年で、理Ⅰに行くのを目標に、週末は理系の勉強に励みますか。
二十歳の時に立てた十年後の目標は、物書きになることと中国語を話せるようになること。病気もありつつなかなか難航しましたが、もう少しかな。
今、三十で立てる十年後の目標は、家を楽しく作ること。自分の家を作るのが、一応の目標。
今できないことをできるようにする。お、上長も言ってたな。




