九十八冊目『Θの散歩』
「府雨の読書日記」九十八冊目『Θの散歩』
『Θの散歩』
著 富田ララフネ
初台フヅクエで原広司を読んでいた時に、店の本棚の上に平置きされていた本書をAmazonで買ったところ、土曜日にポチって日曜日にポストに投函されていました。
今週はこの本のおかげで幸せでした。
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同じ大学、同じ学部の先輩。知らない人ですが。
東京出身のところまで一緒。
ただたぶん、僕と違ってたくさん本を読んでいる。
作者が東京の東側の話をするから、わからないことも多かったです。
僕は東京の西側しか知らない。
日暮里とか上野とか湯島とかは、全然歩かない。
秋葉原に住んでみようとは思うけど、まだ先なので関係ないし。
随所に出てくる大江健三郎も、全然わからない。
真似しようと思ってもできない。そういう存在=大江。
大江は、障害がある子供の話を書いています。光という名前の息子のことです。
障害。てんかんとか、弟が起こす時は、なぜか夜でも目が覚める。そういう時が中学生の頃よくありました。
そういうのはなんでだろうといつも思います。兄弟というのは他人だというのに。
親の、弟の世話は「無言」で行われる。耐え忍ぶようにとも言えず、なんというか僕はとてもそれが好きで、兄として嫌な思いをしたことはない。
その適当さというか、ほったらかしているわけでもないけど、淡々と行われる世話を「悲しみ」という言葉で片づけるのは、親に失礼。
我が家に感傷はない。
金で解決することは、金で解決してきた。
それができないものに人的資源を投入する。誰もが面倒だけど、そこには誰かやる人がいつもいた。
誰が損しているかとか、そんなことは最近の家庭では話にもならないのかもしれない。
最近あまりに良くないと思って昨日アンインストールしたYouTube。ショート動画に、よく「いらすとや」の登場人物が出てくる家族ものの軋轢的な「スカッと」動画が流れてきて、ちまちまと楽しく観ました。
損していると思う人がこの世にはたくさんいる。「不倫の恨みを晴らしたい人」も「完璧に家事をこなした人」も「親の介護をした人」もたくさんいるみたい。
それは全部金とか仕返しの形で解決されて、ざまぁな結果に落ち着く。
損したり、不平等に扱われた時、人は恨む。
でも、それくらいのことはみんなわかっている。だからその動画が「エンタメ」として観られる。
自分の人生は自分のためのものという考え方は、一つのわかりやすさではある。
自分の人生の資源が人に渡せないということは、人からも助けてもらえないということで。
本書の中の聖書の話で「後から入信した人も、前から入信していた人と同じように神から遇される」的なことが書いてあって、しばらく悩んだ。
人の救いを羨むものは、単に損を不公平だと思うわけだけれど、正直、不公平なんて当たり前ではないですか?
人は皆違うのに、異なるように遇されて、それが適切なら何が悪いのか。助けが必要な人に助けが行き、助けが不要な人は助ける側に回る。
不公平感というのは、人間的未成熟の明らかな現れだと思います。
自分の恩寵として持っているものを棚に上げて、人に恩寵を与えることを拒む。(特権を持っているという意味での男性の女性への「平等待遇」拒否とか)
長い間信じられたのだから、よっぽど「得」だろうに、救いについてだけかけた時間を「損」だと思う。
損した自分の間抜けさの認識だとすると、宗教の崇高は全然伝わってない。
不公平を嘆くのは、自分がどれだけ恵まれているか知ってからのことだし、恵まれていると思っている人は、不公平を嘆かない。
人への平等待遇を羨むのは、自分の持ち物が(金とかで)計量できないと我慢ならない、他人との相対的な位置が気になる人で、自分が恵まれているとは、なぜか知らないけれど「毛ほど」も思っていない。
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子どものことを「計量」しない本書を読んで、今って「こう」だよなと思いました。
たぶんこれから人は生活を「観察」するようになる。
そして判断を控えるようになる。
結論を出すことが幸せにつながることではないと、もうはっきりわかっている。そういう時代です。
駅や電車、街や本。見るものをただ記録して、それが一人の人生になる。
見る景色はそれぞれ違うから、もちろん世の中は好きなことが違ういろんな人であふれるようになると思うのです。
損とか得とか、人の「好き」を前にしては「かたなし」ですから。




