九十六冊目「オデュッセイア」
「府雨の読書日記」九十六冊目「オデュッセイア」
「オデュッセイア」
監督 クリストファー・ノーラン
映画好きの友達と新宿の東宝シネマズで観ました。
世俗と宗教。人間と神。殺人と戦争。権力と愛。リアルとフィクション。
映画そのものの力。
凄まじいです。
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三時間が一時間くらい感じるくらい。光陰矢の如し?
IMAXで観ました。音響もすごくて。
小学生の時に歴史漫画で読んだトロイの木馬の話だけが頼りでしたが、それくらいで間に合うくらいのわかりやすさ。
ルールを破ると道に迷う。それも、自分ではなく、自分の仲間、大切な人、妻や子どもが苦しむことになる。
それも人に忍耐を強いる形で。楽にしてくれない。
そのルールに合理性があるわけでもなく、単純な因果応報とも違う。巡礼ではなく、放浪。
この時代の「声」は、口伝えで、人の口を介していた。死者の口から聞かされた。
なるほど、預言とは少し違う。普遍宗教ではないんだ。だからこんなに人間的なんだ。そう思いました。
十年や二十年の放浪が、答えを出すのにかかる時間だとしたら、それは人生のほぼ全てのことに当てはまる。
時間経過を無化することで、文明は発展していたけれど、答えはやはりいつの時代でも、二十年かかる。
強くても弱くてもそれは変わらない。そして、強ければそれに増して問題の難易度が上がる。
強い人も弱い人もどこかで、僕らは解決には時間が必要だということがわかる。でも、それに耐えられない。わかると耐えなくてはいけないから、わからないふりをする。
そしてまた、時間が過ぎていく。
そこには、不思議なことがつきまとう。
異界に行ったような、不思議なことが。でもそれは、確かに人間の「見た」世界です。
記憶の限りで、自分の過ちを直視するという、作り出された現実への接続。作り出されたのは知覚ではなく現実で、それを解釈する前に、世界は筆舌に尽くしがたい不可解な出来事で溢れていることを知らなくてはならない。
不思議な出来事は、ただの超自然であって、人間が心の中で作り出したわけでも、幻覚でもなく、自然の一部であり、常に「理性的」な世界像です。
目で見たものを疑うことは、単なる相対主義だから。
つまり現実に深く接続していないのです。
ストーリーだけをなぞるわけにはいかない。幻聴と言って幻聴を退けてはいけない。
記憶を疑うわけにはいかない。だから、人は忘れるのかもしれません。怖いから。自分が自分のものでなくなるから。
でも記憶は、思い出のよすがなのではなく、端的に自分です。それはアイデンティティですらない。外からの一貫性ではない。自分の巣の糸屑一つ一つの集合であり部分が、自分という記憶を作っているのです。
もし、記憶「が」当たり前のことしか理解できなかったとしたら。
そこには時間も空間もないのかもしれません。ただの意識が浮いているだけの、私のない、状況と不可分な私だけが。
ぽつんとそこに不在している。
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映画の後、新宿の紀伊國屋で建築写真集を二冊買いました。重たくて、高くて、でも欲しくなったから。
お金の使い方は、自由ですよね! ね!
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帰りの電車で、昔のことを思い出しました。
若者はいつでも、空間を支配する。
話し声を僕はイヤホンで聞けなかったのですが、目を閉じて瞑想する母娘。笑う二人組の女の子。
その空間にはその色が宿ります。
電車の中には精神が満ちています。そこで空気を作るのは、端的に力です。健全さや、面白さ、そして綺麗な声。
文句を言わせぬ楽しい知性。
言葉とは、知性の顕れです。
そして沈黙は、道を譲るような敬意と、言葉にならないものの全てを引き受けます。
沈黙には言葉がないだけでなく、全てであるわけです。
そして僕はその時初めて、電車で、沈黙を引き受けた自分に気づきました。
年下に道を譲る。こうべを下げて。恭しく敗北を賜り、目を伏せて、その空気を応援する。
引き受けた敗北は、主従という関係を。
推戴し、膝をつく。
そのことによって姫君たちの地位は上がる。
誰を推戴するか。
迷うところではありますが。
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視線と言葉。
鬼神は敬して遠ざける。
目を伏せ、口元を閉じ、できればイヤホンをして。
陪審員のように舞台を見る。
演技が滞りなく終わり、電車という舞台から降りて、気づいたら僕も降りる駅に着いて、思い出しました。「アクター」だった十二年前のことを。
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閉ざされた世界に風穴を開けようとして戦って、それでほとんど致命傷を負って。
むき出しの意識で周囲を睥睨していた自分が、何を求めていたのかわからない。でも、話し声がよく聞こえた時期はありました。
メタファーで人を絞め殺すような不純な言葉の使い方に、反抗し続けた。
そんなのは、大人がやることだって、言われたこともあります。でも、大人は生活があるから。
夜は戦えない。
だから歌うのです。天に響かせる。
封建諸侯のように、領土の安寧を達成するために、天を震わせて戦うのです。自分の言葉を信じて。
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浪人していた頃は、言葉で押し合う領土争いが流行っていて、でも、大学生になると、それはむしろ後退して。
今はきっと、SNSでそういう縄張り争いが起きているんでしょう。
精神的な位相での縄張り争いが、どうして必要だったのか。人より優れた存在だと示威するのは、あの時どうして必要だったのか。
それは僕らが、本質的に封建世界に生きていたからでしょう。
そこには王も、騎士も、貴族も、姫も、学者も、教師も、魔法使いすらあったのですから。
そこには正統が必要でした。でも、どこにもたどれる過去がない。たった二十年生きただけでは、過去は生まれない。正統なき封建社会。
人間関係を縛る上下関係を断ち切るために、自由のために、僕は戦ったような気がします。
封建時代というのは、誰にでも訪れる。
人間は星占いのように、歴史の発達段階を部分的に踏襲して生きます。
古代の政祭一致から都市国家、封建、世俗による宗教の優越、世俗の絶対化、王権の解体、市民社会の到来、自由で不合理な多極化への抵抗、合理性と無矛盾性の崩壊、沈黙のコミュニケーション。
そういった、常に不在だった神に対する考え方の違いは、同じところにとどまる人もいれば、駆け巡るように全てを経験する人もいます。
オデュッセイアが今、劇場化したのも、そのホメロスの解釈も、もちろん映画なのでテーマ的意義があるわけですが、封建以前の世界観を描いたノーランは、都市国家と今の都市文明、つまり言葉の黎明期と沈黙という意識によるコミュニケーションの黎明期をくっつけたのかもしれません。
沈黙が言葉を欲する。空白の時間が答えを求める。
僕たちは言葉なき時には言葉を欲するけれども、言葉が過剰だと適切な自己範囲を無理矢理にでも策定するようになっていく。
逆に進む「沈黙化」のように、無音の情報の交換は、沈黙の可視化という、新たな音声化を生じさせました。
そういう中で、映画「オデュッセイア」は預言ではなく、人の声を聞けよと、言っているような気がします。
つまり普遍宗教では、テクノロジーでは、情報の電子化では、内心の即時的場当たり的な解決しかできない。
本当の問題の解決には、世代の交代を待ち、その下の世代が独り立ちするための時間を十分に取る必要があります。
そして、自分が二十歳だった時にいつか戻ってくることを、なんとなく想像しておくことが必要だと思いました。
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たぶんそれが一貫性だと思うのです。
若い頃にできなかったことを子どもに見るのではなく、星座を一回りしてもう一度着手する。
それは全く同じことではないけれど、その肌触りは懐かしいはずです。
肌触りは記憶です。記憶がきちんと一貫性を持っているなら、それは「私」だということです。
封建から都市。自由から使命。声から文字。沈黙から無意識。孤独からつながり。依存から家族。家族はまた君臣的封建へと戻る。
人生はそれをなぞって、ぐるぐると廻る。その間の一貫性は、思想ではなく記憶だと、僕は本気で思っているみたいです。
大切なのは歴史の発展ではなく、人生の充実ですので。素朴なことですが。……ただそれは、言うまでもなくキツいことではあります。何かの星に留まり続けることも、順行や逆行に翻弄されるのも。
人によって異なる歴史段階に位置していることがわかれば、少しはわだかまりもほぐれるものですが。




