九十五冊目『定本 丸山眞男回顧談 上』
「府雨の読書日記」九十五冊目『定本 丸山眞男回顧談 上』
『定本 丸山眞男回顧談 上』
著 松沢弘陽 植手通有 平石直昭
とりあえず上を読んで感想を書きます。
本書を読んで、一つ考え方が変わりました。
自由というのは大切です。
正しいと思うことを正しいと思い続け、誰からもそう思う自由を剥奪されない。
そして一歩進んで、人生上の問題や課題に、その人なりの解決方法で臨む権利を剥奪されないというのは、本当に大切なことです。
僕は自分のことを自由だと思っていなかった。
選択という概念が人生になく、ただその時の直感に従って、さまざまな制約を念頭に置きながら、やむなしの道筋を辿ってきたにすぎないと思っていました。
でも仕事をしていて、自分の考え方が自由だなと思うことに突き当たりました。
「生活のために仕事をしている」
多くの人はこう言うのです。
そう思ったことがないのは、僕が金持ちだからではありません。貯金もないし、稼いだ金の半分は父に入れている。
多くの人はそれを本当に不自由だと思うらしい。
自分の稼いだ金は自分のために使うというのが当たり前の世界観。
自分の生活のために稼ぎ、稼ぐために仕事をしている。
僕は稼ぐために仕事をしているわけではないのです。
仕事をする方が、しないより難しくて「わからない」から仕事をするのです。そちらの方が「ヌルゲー」じゃないから。
金のために働くというより、働けるから働いている。
金をもらってるから真面目にやるのではなく、たまたまできる(能力がある)からそれを活かしている。
こういう考え方は、自己責任論的で自由主義的な人からすると、なにかおかしいように思う。
でもこれが、僕の自由なのです。
金をもらっているから真面目に働くというのは、意思の高潔とは程遠い、強制と不自由の奴隷根性です。
何かのために働くという目的意識は近代的で、実に真面目だと思いますが、それは自由ではない。自律ではない。
自由とは労働の対価ではありません。学びの対価です。
自由に考えることは、そういった卑俗な自由論に汚されてはならない。
仕事のために人生があるのではない。
金をもらっているから働くのではない。
人生の問題にアプローチするために働き、貢献できる能力を社会に還元するために、つまり学びの返礼として、僕は働くのです。
***
当たり前らしいんです。金のために働くというのは。
そう思ったことは一度もない。働いていたらたまたま給料が振り込まれている。
それは、現代の当たり前です。
よく言う消費の構造の転換、耐久消費財の遍在化が進んだ日本で起きた意識の改革を、理解するべきだと思います。
僕らは引きこもっていてもいいわけです。現にそうしている同年代はたくさんいる。
学びへの返礼というのは、学んでいない人にはできない。学ばないというのが自由とは思いませんが、一つの選択です。
ものが欲しいわけじゃないから、稼がなくてもいい。
そういう引きこもりの自由に、僕はひどく共感します。
僕は働きながら引きこもっているようなものだからです。
生活のために働くというのはいかにも貧しい考え方で、自分の経済的自由のために半日を犠牲にするという考え方は現代では絶対に割りに合っていない。思想的コスパが悪すぎる。
できるから仕事をしているだけです。「なんでこんなことやってんだろ?」っていう気持ちを味わえるのがある意味では「尊い」から、引きこもっているよりいいと思っている。
対価という考え方ではなく、行為そのものに価値が宿るから、その行為に半日費やす。
それは仕事が楽しいとは少し違います。
仕事そのものに価値がある。小説のネタが埋まっていると思うから掘りに行くだけです。
芋掘りと変わらない。芋があるからやるだけでなく、掘り掘りそのもの、肉体を使うことに価値を置く。
仕事や学びには価値がある。
だからやるのです。
でも、それが「けしからん」とか「金をもらっているのだから」という観念で僕に迫ってくる人がいる。親の世代はそうです。
では時給が低ければ適当に仕事をしていいということなのか。とか。
残業をしている人はしていない人より偉いのか。とか。
そういうことになってしまう。
年収で人の価値が決まってしまうと、本気で思っているとしたら、もしかしたら物質的に(相対的に)自由な人なのかもしれないですけど、金銭に縛られた不自由な人でしかない。
楽しみというのはどこにでも見出せる。金をもらえないと楽しめないというのは、金だけが本質だと思っている。
金を稼ぐ最も簡単な方法は、体を売り、犯罪を犯すことです。でもそれをしないのはそこにその人が価値を見出さないから。
価値が重要なんだと僕は思います。希少性ではない。
高いものがいいとは限りません。高い本、高い宝石、高いレストラン、高い家。自分にとっての最適と価格にはなんの連関もない。因果も相関もない。
金持ちになって身の回りをブランド品で武装するのは、価値観が価格にしかないから。本当にいいものは高いものだという信念自体は「すばらしーなー」とは思いますが。
どこに価値を見出すかこそが、自分の人生であり、その価値観をないがしろにされるのは、自由に反する。
仕事だから、金をもらっているからという安易な「べき論」は労働の価値を貶める、卑劣な単純化です。
「それはお前が恵まれているからだ」「そう考えられるほど能力がない人もいる」「単なる綺麗事だ」
そういうリアリストは、自由が怖いのです。
丸山眞男が受けた自由に対する衝撃はそこにあります。
自由な人間は、価値を転倒し、意味を深めます。
金銭とは物理的な「量」ですが、価値はどこまでも「質」的なものです。そこには特性があり、人それぞれに好みがある。
自由とはその嗜好であり、自由を否定することは嗜好を否定することに他ならない。
相対的に誰は誰より綺麗とか、偏差値で学力を測る癖は、一定的には人を測る尺度になりますが、それと自由とは全然違う。
僕たちの人生は一通りで、どの扉を選ぶかは自由ですが、選んだ以上他の扉を選ぶことはできない。
もし自分が自分じゃなかったらとか、考える必要はないんです。
他の人が何を選んでいるかなんて気にしている場合じゃない。
一回しか選べないものに飛び込むのは、勇気です。自分であることは勇気です。
でもその一回にどれだけ価値を込めるか。それが自由ということだと僕は思います。
もちろん偏差値の高い人生なんてない。
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おかしい。変だ。と思ったら、それは無視してはいけない感覚だと思います。
「仕事だからね」「体調は自己責任だよ」「やるかやらないかだよ」
いろんな「当然」があるみたいですが、そんなものは当然でもなんでもないただの思考停止です。
仕事には責任が伴う。だから体調を整えるのも個人の責任。やるかやらないかかだったらやる方がいい。
それは場合によるだろ。
仕事の責任のために死ぬ人がいる。不可抗力の病気は自己管理の問題なのか? 「やるやらない」というより、わからなかったらできないから「できるできない」だろ。
例えば「自分の存在価値」みたいなあるかわからないふんわりした言葉の代表が「責任」ですが、抽象的な概念として権能が帰属する場所はありますが、自分の体調より重い責任なんてない。
体調管理でガンとか精神疾患が治るなら、ぜひ論文に書いて欲しい。
やればできるようになるのと、できないことをやるのとは、全然意味合いが違う。
そうであってほしいことを祈るのと、そうであるはずだと思うことは全然違います。
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周りの人が信じているから、それが正しい考え方だと思うのは、思考停止であり自由の放棄です。
自分の信じることを表明するかは別にして、その考え方を持ち続けることは、真の自由です。
僕は、このタイミングで丸山眞男を読めてよかった。
この回顧談は、思考の理路を明らかにしています。それは、自分に嘘をつかなかった人、価値観を守った人の苦闘の記憶(記録)だと思います。
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立場という言葉があるのはこの本を通じて、はっきりさせたことでもあります。
立場というのは正しさだけじゃない。
誰の言葉を信じるか。誰が友か。誰から習い、誰が美しかったか。
そういう「政治」ということに再会できて僕は本当に良かった。
友敵関係という概念は、最初本書で読んだ時、呑み込み難かった。
でもそういう国家対国家の関係でなくても、自分が持っている思想が誰の影響を受けているかなぞれることは、大切なことだと思います。
そこには正しくないことも含まれているのです。
でも自分の立場は、ことの正否ではなく、考えてきたことの記憶であり歴史です。
知識や結果がつやつやしているからといってそれを自分の意見とすることは、必ずしも自由ではありません。
いいとこどりには、体がない。頭だけなのです。
道を踏み外した友と、正義の側に立つ敵の間に挟まれたら、友のために正しい側にいる敵と戦う。あるいは逆に友を裏切らなくてはならない。
裏切りのやましさや「殺人」の手応え、立場を選ぶということ。そこには正義ではなく、ただ自分で考えること、自分の直感だけがものを言う。
価値判断はむしろ重要性を逆説的に裏切るかもしれない。未来のために友を裏切るかもしれない。悪とわかって友を守り、正義の未来を百年遅らせるかもしれない。
でもそこには自分で考える自由がある。自分の立場を諦める必要は全然ない。間違っていると言われても立場は立場です。
行動は思考に背いても、それを覚えてさえいれば、忘れなければ、もしかしたら次は、自分の大切なものを守れるかもしれない。
力がなければ正義は貫徹できません。でも自分の思考の自由は、適切な手助けがあれば、守り通すことはできる。
自由であるというのは、周りには「厄介者」と思われることかもしれない。でも、本当に大切なことは「厄介者」と言われても自分の価値観を守ることです。
周りの人の便宜のために自分がいるわけじゃない。
仕事のために自分がいるわけじゃない。
逆なのです。自分の人生を豊かにするために、自分の生業があるのです。
自分の職業特性を考えたら「何言ってんだ? 自由すぎるだろ」って感じですが。この場合の「自由」はいわゆる「厄介」とか「奔放」とか「無規律」とかいう意味合いだとは思いますが、そもそも人間は多様性という言葉を出すまでもなく多様です。
僕を厄介者だと思う人は、僕を見て自分があまりに不自由だから、否定された気持ちになるのでしょう。制約の中で苦しんでいるから、僕を自分の立場に寄せて安心したい。羨ましさの抑圧が、自由な教育の欠如が、思考の硬直化が、自己批判ではなく他者の否定に帰着する。
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政治が人の思想にくっついているという僕の発見は、本書によってもたらされました。
大切なのは意見や知識ではなく、人の言葉なのです。
思想は決して無色透明ではなく、人の口から出てきて、人が書いたものなのです。
考え方そのものが大切なのではなく、誰が言ったか。
その時の時局や歴史。思っていても言えなかったこと。政治には常にそれがつきまとう。
そこには自由の悲しみがあります。芸術の世界にはない「妥協」が醜く見えてしまうのかもしれないですね。




