九十一冊目『歴史の本棚』
「府雨の読書日記」九十一冊目『歴史の本棚』
『歴史の本棚』
著 加藤陽子
加藤陽子の本を読むと、勉強したくなる。
こんなふうに学生に知識を授けるのは、さぞや楽しい、手応えのある仕事だろうなと思う。
本を読むのは、やはり快楽だなと思います。
なにより、一冊の書評が三ページで終わる本書は、集中力の続かない自分にはありがたく、そういえば中高は歴史が好きだったなと、思い出しました。
カプチーノ(卡布奇諾)という曲を聴く週でした。
並行して加藤陽子を読む日々です。
学びというのがいかに、生活に対置する孤独な営みであるかとともに、生活・仕事がいかに孤独な行為であるかを、両者を反復しながら感じました。
なんの役にも立たない学び。
成長という言葉で測られる生活・仕事。
じゃあなぜそんなことをするのか。
好きでもなんでもない読書や仕事を、僕はなんでするのでしょう。そんなことしたってなんの意味もないのに。
たぶんどちらも、本当に意味があったら、みんな本気でやっているでしょう。
どちらにも受け取れる意味はなく、僕らはそれに触れることで、少しずつ意味を「生成する」のです。蜘蛛の糸みたいに自分の中から生み出すのです。
最初から意味が与えられていたら、読書も仕事もやらないでしょう。効用という概念が嫌いなのは内田樹の影響が大きい。
結局、わからないことが最上の娯楽なのです。
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・生活のために仕事をする。
・お金をもらっているから誠実にやる。
・職員としてどう成長していくか。
・物理的に処理できない仕事が来たら、どうするか。
きっと大人な見方があるのだろうな。そう思います。
上長との面談で、僕はたぶん芳しい返事をしていない。
言葉の上で、あるいは決意を述べたところで、実際にできることは限られています。
・人にはそれぞれ抱えているものがある。だから、障害もその一環でしかない。
そう言うことは、自由ですけど、僕という人間は言葉では変わらない。病気が言葉で治るなら、僕は今障害を抱えていません。
僕が違和感を持つのは「成長」という言葉です。
普通、人は成長します。
それは、仕事ができるようになることではなく、仕事マインドを養うことでもなく、違う自分になることです。
自分という存在を「仕事」と「学問」の間に立たせて、左右を見比べながら、特異性という名の孤独をより色濃くしていくことが、成長です。
仕事をするというのは、本質的には個人の能力(可能不可能)に帰着するので、個人的なものです。
学ぶというのもそうです。
ただ成果が他人に還元されるから、まるで他人のために働いているように見えるけれど、できることは「できることだけ」です。
「もし、与えられた仕事が100あって、今50しか捌けなかったらどうする?」
それには答えがあるそうです。
「50に習熟して圧縮し、できた隙間で仕事をする。それを繰り返すと、100仕事ができる」
とても常識的な発想ですが、変だと僕は思いました。
それが成長なのだとしたら、まるで本を読むスピードが速くなるのが、成長みたいな感覚ですよね。
処理する速度を上げることが成長だという発想は、僕の最も忌み嫌う物理的な成長論です。
成長というのは「わからないことがわかるようになること」です。
ゼロをイチにすることです。
わからないことをわかるようにするのには、莫大な時間を必要とします。
処理速度を上げることが求められているのだとしたら、もしそれだけが仕事なのだとしたら、子どもを学校へ入れる必要はない。
なぜなら処理速度を上げることは、誰でもできるから。
わからないことをわからないままに引き受けて、わかる部分から繋ぎ合わせた地図を描くことが、学びの成果であり、成長です。
もしかしたら上長は「処理速度が遅いよ」と言いたいのかもしれません。
習熟のスピードは人によって違いますし、向き不向きもあります。
職員として成長するというのは、処理速度を上げるということなのでしょうか。
つまりこの職場の仕事は「答え」があり、手続きには「正解」があるという前提を、上長は持っているということなのかもしれません。
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成長について、きっとこう言って欲しいのだろうなと思うことはわかります。
僕が「業務に習熟して一日かかっていたことが五分でできました」と言ったら、それが正解なんだと笑っていた。
実務の積み重ねを「成長」という言葉で概括するのは自由ですが、実務の積み重ねには血が滲んでいます。
血が滲む労苦は「成長」という言葉で形容されていいのでしょうか。
つまりこういうことです。僕は、自分の「変化」を決して「成長」という語彙で語らない。
読めなかった本が読めるようになったのは「成長」ではなく「体調がいいから」です。
能力を培うことは成長ではなく、人のありきたりな営みで、能力にアクセスする能力さえあれば「できることはできる」に決まっています。
成長という語彙は「難しいことができるようになる」ことを「是」と捉えることにあります。
それは仕事でも学問でも「壁」です。
その両壁に挟まれていること。できないことに囲まれていること。それを崩すのには血が要ります。血を流す必要があります。
つまり「血を流す」対象は、僕が決めるし、成長という言葉で概括しないで欲しいということです。
仕事は、僕にとっては壁であることが重要で、一つ一つわからなさを見出していく楽しみでもあります。
それは必ずしもわかることやできることを目的としていない。
処理速度は人それぞれですし、できないことはできない。
誰もが外国語を使えるわけではない。外国語が話せるようになることを僕は「成長」とは呼びません。それは、学びという壁に繰り返しぶつかった結果でしかない。
それを「成長」なんて言葉で語れないのは、人によって外国語を習得するのにかかる時間は異なるし、その遅さを以て愚鈍とか、成長が遅いとか、処理速度が遅いというのは、あまりに人を見ていないからです。
仕事と学問を左右に置いて、成長を論じる時に、言葉でそれを達成可能だと前提するのは、あまりに言語操作的で、そこに滲む血の観点が抜けている。
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加藤陽子の本は、いつも凄まじいと思う。言葉が力強くて、比類ない。
でも、まだ僕は三十歳でしかなく、これからも学び続ければ、いつかそういう境地に立てると信じています。
わからなさそのものに、僕は惹かれています。
わかることはテクニカルなことだけど、わからないことは、本質的だと思うからです。
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そういえば、Youtubeで雷獣を観ていた時に、カベさんが上司に「成長が遅い」みたいなことを言われたと言っていました。
人と比べて成長を論じることにどんな意味があるのかと、ため息をつきました。カベさんは(確かに成長が遅そうではあるのですが)カベさんなりの成長のスピードがあるはずです。葛藤は不連続な成長を生みます。答えが出ないとか、変化の見えなさで、どうしてその人の資質を疑えましょう。
仕事のスピードを上げることが成長だと見解を一致させることはできない。
仕事のために能力を上げているわけでは、もはやない。「結果的に」仕事ができるというのが本当のところで、それこそが大学が、自由に学問をする素地を涵養する理由なのですから。
能力とは一般的なもので、そのことにのみ「成長」という言葉は当てはまる。
段取りとか処理速度とか手続きとかは、その能力の一つの流路であり、成長することが「仕事のアウトプットを増やすことだ」という理解を、僕は徹底してしりぞけるでしょう。
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仕事ができるようになってそれを「成長したね」と言葉にすることの虚しさを、感じることはないのでしょうか。
もっと言うなら「成長しないとダメ」なのでしょうか。
成長は個人的なものです。内的で、心理的なものでもあります。思考と行為に橋がかかった時に瞬間的に生成される、特別な感覚です。
仕事にその感覚に与える言葉を横取りされたくない。
仕事はそのものとしてそびえ立つ壁です。
そこには特有のわからなさがある。
それは、実際にやってみて、血を滲ませて、成果を刈り取るものです。
その営みの成果は、残念ながら、仕事に還元されるだけでなく、わからなさとして僕に記憶されるでしょう。
そもそもたぶん、仕事そのものは、簡単にわかるようにできていない。そのメタ性、抽象性に成長の養分はあって、その実務性、手続き性には、僕の場合単に体調が関係するだけです。
体調がいいことを僕は、成長とは呼ばないのです。
もしかしたら上長は僕を五歳だと思っていて、コップに牛乳を注げるようになったことを「成長」と言うように、エクセルの表をAIに整理させるのを「成長」と呼んでいるのかもしれませんね。




