八十九冊目『それはどこでも起こり得る』
「府雨の読書日記」八十九冊目『それはどこでも起こり得る』
『それはどこでも起こり得る 壊れゆく世界への抵抗』
著 ブレイディ みかこ
会社の昼休みに近くの本屋に寄って買った本。
すぐに読み終わりました。
僕に結構刺さったのは、エリートと階級の話。
僕は別に金持ちでもないし、贅沢も本を買うことくらいだけど、よく友達にエリートと言われる。
もちろん外形的にも、定義的にもエリートでは全然ないですが、会話のワードチョイスはもしかしたら、庶民的ではないのかもしれない。イギリス的に言うと“classy“な感じ。
このご時世本を読む人、特に人文書を読む人は、内実がどうであれ、エリートに分類されるのかもしれません。
で、むふーっと、鼻を膨らませられたら良かったのですが、どうやら昨今の政治の凋落は、エリートのせいかもしれないという話。
政治の言葉の問題な気もします。
社会的な問題は往々にして言葉の問題であり、自己認識とかけ離れる言葉に合わせて政治をしなくちゃいけない。
政治に自分の箱がない。
単純化された議論は、自分の意見を箱に合わせてしまう。
意見を言っている人の意見を、自分の頭で考えることなく、説明として受け入れてしまうわけです。
いわゆるテンプレートというやつですが、テンプレートを構築するのがいわゆる「エリート」という人たちです。
僕はいつもなんか違うなぁと思いますが、それでも前に進むために、「エリート」はテンプレートを作り続けます。
多数派と少数派に塗り分けることが、政治の手法です。
ところで親子であっても意見が違うことは当たり前なのに、どうして「塗り分ける」のでしょう。同じまとまりを作るのでしょう。
多様性という言葉は僕はあまり好きではなくて、個別性という方が理にかなっている気がしますが、人は本当にそれぞれ違います。
政党政治はそれを掬いきれていない。
僕は世界に偉い人というのは一人もいないと思っていますし、「みんな人だぁ」と認識しています。本当にそうなのです。
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エリートと「エリート」は少し意味合いが違いますが、どちらであれエリートという自認は、イギリスでは階級、日本でも階層を強化します。
エリートと違うのが嫌なんじゃないです。エリートじゃなくてもいい。
でもエリートが偉そうにしているのは嫌。気持ち悪い。鼻につく。
なんか「啓蒙してくる」感じが嫌なのは、すごくわかります。僕もそういうタイプだし。振り撒く雰囲気の問題ですよね。
でも不思議なのは「雰囲気」や「好悪」が実利に勝る。勝るとは言わないまでも、政治の選好により結びついていることです。
でもよく考えれば不思議でもなんでもない。
意見は中立ですが、人の「声」には「におい」が宿る。
当然ですが「私はあなたより優れている」というメタメッセージを受け取ることは「そんなことない。俺の方がお前より優れている」と思っている人にとっては、あるいは「優劣」ではなくとも、不愉快であることに違いありません。
本や学校での知識の授受とは違う生のやり取りに、優劣をにおわせられると、むかつく。むかつく。
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本書ではイギリスの首相の玉虫色の政治姿勢を批判していますが、本書を読んで、機械的無機的な正しい政策というのは、実はあまり意味がないと思いました。
間違っていても、捨てる部分があっても、理想を掲げて「価値」を追求する必要があると、僕はなんとなく思いました。
思弁も哲学も政治には必要ですが、理念もまたそれが失われつつある社会においては重要だろうと。
それは「正義」という言葉ではうまく説明できないものです。
正しさは、常に「政治的正しさ」に化ける。
正義を追求すると「政治的な嘘」が野放しになります。
政治家が「俺は悪くない」とか「遺憾に思う」という文句で「正義」を達成し続けている今を思えば、「間違えても価値ある言葉」を政治という庭に植えたい。
正義を扱う言葉遣いは常に人の心を硬直化させます。
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エリートであろう、気高くあろうと思うことはあります。
それは、自分の勉強を社会に還元しようとすることです。
「なんでそんなだるいこと考えているの? 偉そうに」
それはもちろん定見ではあります。
でもこうは考えられないでしょうか。
「働くことは、あるいは生きることは、他者に影響を与えることで、結果的にお金を得ているだけで、本質的にはお金を得るためにやっているわけではない」
もちろん、ただ順序を逆転させただけです。
居場所や仕事、知識の使いどころが先に来て、生活が後から説明する。
それは、誰もがそこに「楽しさ」を見出すシチュエーションです。
価値のあるものや関係を生み出すのは楽しいですから。
「賢ぶっちゃって。勉強とか寒いわ」
それも定見です。
意見なんて選べばいいだけだと。
ただ本当にエリートと呼ばれる人は、想像するに工場で、選べばいいと思っている人のために製品を作っています。
製品を選ぶのはおそらく外形が、つまり「におい」の良し悪しが基準ですが、エリートはその製造過程を知っています。
選べばいいと思っていたら、それは買い手であり、エリートの客でしかありません。
僕の父親は将棋が好きですが、いつも「将棋は見るよりやる方が楽しい」と言います。
それは将棋が野球に変わっても同じです。ほとんど全てのことは、やった方が楽しい。
文章だって読むより書く方がよっぽど楽しい。
エリートというのは、誤解を恐れずに言えば「鼻につく人」でも、「なんかうざい人」でもなく、自分で意見を生成できる人です。
そして「意見を生成できる人」を「意見を選ぶ人」が恐れるのは、自分では意見の製造過程がわからないので、意見を外形から判断していることを、馬鹿にされているような感じがするからです。
意見の生成のコツは、実は昔から一緒で、本を読むことです。
人文書の内容は、プラトンの時代から変わりません。
そこには答えは書かれてなくとも、答えを生み出す方法が、紙背に、刻まれている。
嫌ですよね。「お前本読んでないの?」って言われるの。僕も嫌です。




