八十八冊目『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
「府雨の読書日記」八十八冊目『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
『ドナルド・キーン わたしの日本語修行』
著 ドナルド・キーン/河路由佳
ドナルド・キーンは、展覧会に行ったり、本をたまに読んだりして、とても興味がある対象です。
なぜか家に著作集があります。神保町で買いました。読んでないけど。
ドナルド・キーンの言葉に触れると、とても純心で、優しい人柄を感じます。
でも、文学をやる方だからきっと、いろんなことを考えるのだろうなぁ、と思います。
外に出てくる人柄が、本人の本質とは少しズレることはままあります。
文学にできることは、現実世界で僕たちができることとちょっと違います。
文学の大切な役目は、感情を響かせることです。
心を膨らませることです。
魂を家に入れることです。
だから、心というものが具象化し「ない」ところの現実世界では、文学は物足りなくなる傾向があります。
でも、フィクションとしての心が音を奏でるのは、現実世界に折りたたまれた気持ちをスッと差し出すような、そこにしかない福利を生み出します。
でも、僕はあまり、文学の福利(あるいは効用)の内容について言及したくないです。
それは、心を物体や物質として捉える現実の世界の語法でしかなくて、仮にそれを首尾よくやり遂げたとしても、僕たちの心に残るモヤモヤ感は、僕たちをとても苛むからです。
言葉にできないから文学にしているというと語弊があるかもしれませんが。
それは物質や物体ではなくその通り道を指し示す行為であるとは言えます。
そこには確かに「優しさ」を植えつける一つの修養的側面があります。
読むという行為に含まれる一種の快楽性は、文学や哲学へ人を引きずりこみます。
というか、そういう言語化できない文学の効用を語ることが、そのたどたどしいままならなさが、説明できないかゆさが、息苦しさが、文学が遠くにあることをまず語ってくれているような気がします。
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僕は基本的にあまり小説を読みません。
でも、文学という言葉はなぜか好きです。
考えることと思うことの間に、僕はいるのだと思います。
言葉と心の狭間ということです。
効率だけ考えれば、言葉に全振りすることも一つのやり方です。
意味のある言葉だけで自分を飾る。
それはちょっと短絡的ですが、働かないという選択にも通じます。
僕が働くのはそこに矛盾があり、不合理があり、恐怖があり、ため息があり、言葉にならなさがあるからです。
なぜ働いているのかは、まったく言葉にならないけれど、言葉にならない状態に、できるだけ身を置いておきたい。
自分の周囲を説明できるもので固めておきたくない。
文学の要諦とはつまり、説明という手法を放棄することです。
それは説明しないということではなく、何かの形で説明に代える説明をするということです。
それは何か、ではなく、それについてどう考えたか、で何かの説明を済ますことです。
済ますというかそれしかできないのです。
言語では言い尽くせない分野を、言語を用いる文学は担っています。
つまり、なまくらで岩を切ろうとしているのです。
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本書の、言語を学ぶドナルド・キーンの天才性を持ってしても、文学や言語は船で漕ぐ波であり、波そのものにはなれない。
言語で打ち立てた偉業も、その天才性も、そういうものでしかない。
それが、私たちを取り巻く言語の現状です。
言語は科目でもなければ、スキルでもない。
だからなんだ? と言われるとわからないのですが……。
よき言葉とは何かということを、文学者は突き詰めるわけですが、「それは絶対にあります」が「基準は示せない」のです。
もちろん「言語的に卓越している人」ほど、その曖昧さを嫌います。
でも、言葉が卓越している人が、よき言葉の基準を持っているというなら、示してみてほしいものです。
それは断片的なものに過ぎず、多くの場合、まったく無粋なものにならざるを得ないでしょう。
ドナルド・キーンの言葉が、文学を媒介する上で優れていたのは、その丁寧さとシンプルさが理由です。
簡明な言葉で表現するのは文学の「コツ」であり、難解な言葉で表現するのは哲学の「ルール」だと、僕は思います。
丁寧というのは言語への敬意ではあっても、崇拝とは少し違います。
波を上手く漕ぐ能力の「上手く」というのが「丁寧」であり、波に対する支配を目論むことではない。
でも、波にさらわれるわけでもない。
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体調のいい日ばかりではなく。
金曜を終えて、明日中は楽しく本でも読み、明後日に月曜の会社を疎ましく思いながら、また中国語の勉強でもしましょうか。
とりあえず月曜の祝日に感謝です。四日だった今週を乗り切った。
今日の夜ご飯が美味しかった。幡ヶ谷のヴォーカルという洋食屋さんに行きました。たくさん食べたよ。
及第点では?




